「撮らずに助けるべきだ」について
警官に抑え込まれるジョージ・フロイドさんを撮影したダルネラ・フレーザーさんが、ピューリッツァー賞の特別賞に選ばれました。
彼女の撮影した動画はSNSを通して拡散され、全米、そして世界で「BLACK LIVES MATTER」のスローガンの元、構造的な差別の問題に抗議活動が広がるきっかけの一つとなりました。
「権威」としてのピューリッツァー賞のあり方自体に疑問はありますが、それについては別の記事で触れています。ただ、この受賞によってふたたび、フロイドさんの事件に光が当てられた面はあるでしょう。
一方、裁判でフレーザーさんは、フロイドさんを直接救うことができなかったことについて自責の念にかられていることを語っています。
“It’s been nights I stayed up apologizing and apologizing to George Floyd for not doing more and not physically interacting and not saving his life”
あの時、自分がもっと動いてフロイドさんを助けなかったこと、ごめんなさい、ごめんなさいと眠れない夜が何度もありました。
彼女に対して「なぜ動画を撮らずに助けることをしなかったのか」という声もあるでしょう。
一般論として、「撮影するより、目の前の命を救うべきだ」という意見について、私は賛同します。もしもその時、撮影する、ということ以上にできることが目の前にあるのであれば、そちらを優先したい、と考えています。
いつ、いかなる時も撮影して記録することが正しい選択、という思考停止に陥るべきではないでしょう。
同時に最近では、誰かが飛び降りる動画などがSNS上で広まり、アップした人間の意図を大きく超えて、独り歩きしてしまうこともあります。スマホを片手に撮影する人々によって救援活動が妨げられるかもしれないし、災害の現場などであれば、撮影に夢中になるあまり、撮影者自身に危険が及ぶこともあるでしょう。こうした日常の感覚の延長として、安易に撮影して拡散してしまうことにも、警鐘を鳴らすべきだと思っています。
では、フロイドさんを撮影したダルネラ・フレーザーさんは、どのような状況だったのでしょうか?先ほどの記事の中で、彼女はこう、語っていました。
“When I look at George Floyd, I look at my dad, I look at my brothers, I look at my cousins, my uncles, because they’re all Black,” Ms. Frazier said. “I have a Black father. I have a Black brother. I have Black friends. She added: “I look at how that could have been one of them.”
「ジョージ・フロイドさんの姿は、私は父、兄弟、いとこ、叔父のことを見るようでした。なぜなら彼らはすべて、黒人だからです」とフレーザー氏は語った。 「私には黒人の父親がいます。私には黒人の兄弟がいます。黒人の友人がいます」。彼女はこう付け加えました。「それは、彼らの身に起きたかもしれないことなのです」。
警官に殺されかけている人を前に、同じ黒人の、そして女性である彼女が、直接介入するような行動を起こすことは、非常に勇気がいる、ということ以前に、その矛先がもし自分に向けられたら、と考えれば、リスクを伴うことだったでしょう。
ましてや相手は警察です。市民同士の暴力事件であれば、「警察に通報する」ということが選択肢として浮かぶかもしれません。けれども加害者自身がその警官であった時、その選択肢さえ削がれてしまうのです。
昨年3月にはケンタッキー州で、黒人女性のブレオナ・テイラーさんが、就寝中に押し入ってきた警察官によって殺害される事件が起きました。警官は麻薬の家宅捜査で踏み込んだとしていますが、それも事実無根であったことが後に明らかになります。けれども現場にいた3人の警官は、誰も殺人罪では起訴されていません。
昨年9月、ニューヨークタイムズ紙が、2015年以降に警官に殺害された黒人女性は48人であり、そのうち警官が起訴されたのはたった2件だったことを報じています。
フレーザーさんに限らず、直接介入すれば危険が及ぶかもしれないとき、せめてもの「圧」をかけるために撮影することを選ぶこともあるかもしれません。加害者が公権力に関わる人間だった場合、この暴力がなかったことにされないよう、記録し、拡散させて世論の目を向けることが、辛うじてできることかもしれません。それさえも、震える思いで行わざるをえないことでしょう。
大切なのは「撮る」「助ける」という単純な二分法に回収してしまうのではなく、どのような構造的な暴力があり、なぜそこに抗うことが難しいのか、ということまで目を向けていくことではないでしょうか。
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