瘭疽
今年は暖冬だね。そんな言葉を一瞬で刺し殺すように寒気が背後から現れた。
私が十年以上も前に付き合っていた彼の家で本棚から抜き盗った小説。それを今になって読み返していた。最低のクズ男が主人公だった。言い訳ばかり。甘えてばかり。傍若無人な振る舞いで愛着障害丸出しなのに何故だか女にはモテる。男の願望でも詰め込んでいるんだろうか。煮詰めているのだろうか。
先週、爪の脇からささくれが伸びてきた。あまりに鬱陶しいので引き千切ってやった。二、三日そこが痛んでいたが、ついに腫れてきやがった。放っとけば治るだろうと高を括っていいたら腫れと痛みはだんだんと酷くなっていき、夜中に腐った指を切断する夢で跳び起きた。あまりに痛むので、昔に歯医者で貰ったロキソプロフェンを飲んでようやく安眠を勝ち取る。
暖房の効き過ぎた病院の待合室。土曜朝の皮膚科は「老若男女」で溢れかえっていたが、その言葉が悪いニュアンスで使われうることを私は初めて知る。膝のうえ畳んだチェスターコートに載せた小説に目を移す。濃厚な性描写の後、眠る貴婦人の傍らで男は人生の苦しみについて考える。なぜ自分は自殺しないのか、という自問自答。自殺というのは自分を殺すことであり、自分を殺せる、死んでもいいと思えるということは他人を殺すことにも躊躇がなくなることだ。戦争における兵士は自分が殺されることを許容することで他人を殺すことができるようになる。だから戦争を起こさないためには、つまり他人を殺さないようにするためには、自分を殺すことがあってはならない。誰にも自分を含めた誰をも殺す権利なんてない。だから自分は自殺をしない。そういう風に男は考えていた。
馬鹿らしいと思う。それはあくまで全員の価値が等しいと思えているからだ。利己的だろうがなんだろうが、私には私の価値がまるで見いだせない。他人にどれほどの価値があるかわからない。けれど、少なくとも私の価値は他人ほど高くない。
指先は腫れあがり、世界は寒く、苦しいことばかり。一切皆苦。消えてしまいたいと思う。すべての痛みや冷たさを消すには、自分という存在を消すしかない。心頭滅却。心頭爆散してしまいたい。けれど、昔ほどそういう願望は苛烈ではない。心療内科でお薬を処方してもらっているから。別に精神世界における文学的な止揚が起こったわけではない。化学物質でホルモンだか神経伝達物質だかを拘束しているからだ。
いつの間にか手元の小説から視線を上げて壁掛けの丸時計を睨んでいる。指先が疼き、思わず顔を顰めてしまう。家を出る前にもう一度、ロキソプロフェンを飲んでくればよかった。子どもが退屈に耐えかねて絵本を大声で音読している。父親は諦めてスマホに意識を集中させている。明らかに不機嫌そうな年配の女性。嫌な老若男女だ。嫌な世界だ。指先が疼く。最悪な世界だ。
ほんの数年前までの私というのは、時折、自分でも信じられないほどの虚無感に襲われていた。強い希死念慮は深い水槽に沈められるみたいに私を襲ってきた。あまりに理不尽で凶悪で、そして狡猾だった。崖の突先に追い込まれ、「飛べ」と刃を向けられる。にじり寄る無数の影に私は後退りするしかない。靴の裏が小石を弾き、それが崖からゴミ屑のように落ちていく。なぜ自分がそんな目にあっているのかわからない。どうして。
極限の状態でちらりと背後を振り返る。
灰色の空が強い風によって僅かに割れ、オレンジ色の光が滲み出している。暗色の雲からは冷たい雨が放たれ、それは私の頬を打つ。風に巻き上げられた髪が顔に張り付き、視界の中で乱れ狂う。岸壁に打ち付けられ、モノクロに輝く荒波。その瞬間的な光景があまりにも印象深く、私は不思議とその世界の虜になってしまう。この景色を観るために、私はこんな理不尽な目に合っているのだとさえ思える。というか、そうでも思っていないとやっていられない。
どこまで崖の先の方まで行けば、真に美しいと思える光景と出会えるのだろう。
最悪な気分のときには、それだけが私の救いであった。どうせ、いずれ、そのうちこの崖から飛び降りるのだ。今じゃないけれど。それが繰り返された。何度も、何度も。
結局のところ何よりも先に理由のない希死念慮があったのだと今になって思う。薬のせいでそれが奪われてしまえば、どれだけ指の先が腫れ上がり、耐えがたい痛みを私に供給しようとも、別に私はその痛みから逃れるために死のうとは思わない。当時の私がどうして死ななかったのかはわからない。根源的に生物として死に対する恐怖があって、私の希死念慮は言ってもそこを乗り越えるほどではなかっただけという気がする。議論のようなものではない。ただの大小比較だ。体感的な不等号の世界。
痛みだとかそういうものは薬を飲めば凌ぐことができる。化膿した箇所も殺菌して、抗生剤を飲んで、最後に溜まった膿を切り開いて出せばそれで終いだ。議論の余地なんてない。すべては正しく対処されればそれでいい。狂おしいほどに絡み合った理不尽な運命も適切に整理してしまえる。幻想は溶け、残るのは老若男女が入り乱れる混沌とした待合室だけ。
まだ指先を切り開いて膿を出すほどではないということで、薬を処方してもらい、病院を後にする。薬局で薬を貰い、激しく疼く人差し指を庇いながら慎重にコートのポケットに手を突っ込む。日向に出ても風が氷のように冷たい。冬は始まったばかりだ。