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不登校の問題の本質的な原因は社会システムにあるという考え方。

当事者ではない皆様にこそ知ってほしいこと。

いま、不登校の生徒・児童が沢山います。
(※文科省の公式発表で約20万人)

でも不登校関連の問題について、ボクは今現在、お子さんの不登校で悩む親御さんはもちろんなのですが、それよりもむしろ、現在当事者ではない皆さんにこそ、どうしても知って欲しい事があります。

それは、不登校の問題というのは、多くの場合「学校に行かない子どもや家庭」の問題と思われていますが、「子どもが行けなくなる学校」や「学校に行けない子どもに教育サービスの不利益がある社会システム」にこそ問題がある、という考え方、捉え方もあるのではなか?という事です。

これだけ聞くと、おそらく誤解されてしまう方がいると思うので補足させて頂くと、不登校の児童・生徒がいる学校の事を指して悪いと責めたい訳でも、愚痴をこぼしたい訳でもありません。
別の言い方をすれば次のような意味です。

子どもが不登校になったり、それが子ども個人の問題であるかのように捉えられる、現在の「学校」という場所の社会的な位置付け、つまり社会の制度や仕組み側にこそ問題の本質があるのではないか?

そして、当事者ではない多くの皆さんには、そんなモノの見方が広がって頂けたら嬉しい、という気持ちで書きました。

くれぐれも、家庭の問題を棚に上げて学校側に責任を擦りつける愚痴と思われてしまうのは本意ではないので、さらに具体的にそう思う理由を書かせて頂きます。


学校に行かないのではなく行けない子ども。

まず大前提として、ボクは学校に行かない子どもが「悪い子」だったり「ダメな子」だなんて言葉や考え方を、どうしても受け入れられません。

なぜなら不登校の児童や生徒の多くは、学校に「行かない子」ではなく「行けない子」だと思うからです。

※ここでいう「行かない子」とは、一般的にイメージされる「甘えや怠慢を理由として行かないことを選択している子ども」を指しています。

実際には、紆余曲折を経て「前向きな主体的意思を持って行かないことを選択した子ども」もいるのですが、それはまた別の機会に書こうと思います。

さて、ここでいう「行けない子」とは何を指すのかというと、理由そのものは本当に多岐に渡ります。

おそらく「不登校の理由」として世間で1番イメージされるのは「イジメ問題」の被害者とかだと思いますが、決してそれだけじゃありません。

もちろんイジメ問題自体もその理由が多岐に渡りますが、イジメ問題以外でも、ADHDやASDを始めとする発達障害、自閉症スペクトラム、音声や運動性のチック、発達障害ではないけれど色んな物事にひといちばい敏感で繊細な特性を持つHSCだったり、本当に様々な「個性・特性」を持った多様な子ども達が多くいる中で、それらを起因として、集団生活が難しかったり、頑張りすぎて幼い心身が疲れ果ててしまったり、他人の心の機微が分かりすぎて苦しかったり、色々な「行きにくさ(生きにくさ)」などがあって、その生きにくさにあるグラデーションが学校に「行ける」というラインを下回った子ども達が「行けない子」になる訳です。


ハンデを持って生まれた人の不利益は当人のせい?

さて、不登校の子ども達の多くは、甘えや怠慢で学校に「行かない」子ではなく、「行けない」子ども達だという事を書きました。

では、なぜ不登校の多くが「行けない」という事が、子どもではなく社会の問題なのかという話になりますが、これは、決してボク個人の偏った考えではなく、とても論理的で明快な話ではないかなと思っていて、具体的には、次の通りです。

例えば、目が見えない、耳が聞こえない、あるいは手や足など、生まれつき何かしらの身体的な機能にハンデがある人がいたとします。

そして、その人がハンデを持っている事が原因で皆と同じサービス、皆が利用している社会的なサービスが受けられない事実を目の当たりにした際に、あなたは「一部のハンデを持った人だけがサービスが受けられないのは、生まれつきハンデを持っていたのが悪いからだ」「仕方ないだろ」と思いますか?

※あえて「悪い」という表現を使いましたが「問題の原因」と意訳して頂いて結構です。

皆が享受しているサービスや社会制度の恩恵を、一部のハンデキャッパーだけが享受できない場合に、それはその人に「原因」や「問題」があると考えますか?

すぐに何かの行動には移せなくても、少なくとも気持ちの上ではそうは思わないと思います。

だって、不公平ですよね。

また、サービスというのは金銭的なモノから物質的なモノまで様々ですが、それらの社会的なサービスを自分だけが享受できなかったならどう思いますが?

また、自分だけサービスを受けられないという事は、言い換えれば自分だけ負担が大きいという事でもあります。

さて、ハンデを持った当人が悪いので無ければ、何が悪いのか、問題の原因はどこにあるのか。

たぶん、生まれつきハンデを持った個人ではなく、社会のシステムの方に問題がある、と考える方が、より道理に叶うような気がします。

ハンデに限りませんが、これは今のボクが大切にしていること、大切にしている考え方でもあります。

もう一度繰り返しますが、ハンデがハンデにならないような社会、の方がより素晴らしいと思います。

そして、そうであるなら、です。


不登校の子どもが学校に行けないのは当人のせい?

ハンデを持った人の話と同じ構図で、身体的機能や特性によって、皆と同じスピード、同じリズムで、同じ内容を同じように活動する学校に、行きにくい、行くのがツライ、と感じる子ども達がいる訳です。

ただ、そんな子ども達でさえ、多くは大人たちの常識や都合や無知さゆえに、あるいは本人達の優しさゆえに、頑張って、耐えて行っていたり、あるいは無理やり連れて行かれたりしているんです。

そして、その中で、遂に限界を迎えた子ども達が、涙を流しながら、言うのです。

…学校に…行きたくない…

おそらく、堪えて堪えて、遂に限界が来て、勇気を出して、絞り出すんです。

しかも、小さな子ども達は、大人のように自分の気持ちや苦しみの原因をうまく言語化する事が出来ない、なんなら理由を自覚出来てないことだって珍しくないんです。

そして苦しみの限界にある子どもに向かって、困惑する親は多くの場合、次のような言葉を投げかけるのです。

「どうして?」「なんで?」「理由は?」
「頑張っていこう」「甘えるな」「皆行ってる」「学校ぐらい行けなくてどうする」「ズル休みするな」

ボクがそうでした。思い出すだけで今でも胸が痛くなり、申し訳ない気持ちで涙が出てきます。

…今回の本題からズレてしまうので、当事者達の心の動きや苦しみについては別の機会にしたいと思いますが、不登校の児童・生徒やその親御さんは、家庭によって内容や程度は様々でも、いずれも困惑し、苦しみながら、不登校という選択をしている筈なんです。

その不登校の児童・生徒に対して、「甘えてる」なんて言葉をボクは受け入れられません。
その親御さんに対して、「甘やかすのが悪い」なんて言葉をボクは受け入れられません。


一歩間違えれば、自殺という道を選んでしまうかも知れない我が子を前に、正に寸前の状態だったかも知れない我が子を前に、そして悲しい事に、実際にそうして多くの子ども達が自殺している現代に、どうして「学校、行かなくていいよ」と言う親御さんを責められるのですか?

学校に行けない自分の弱さを責める子どもや、父親を失望させた自分、母親を悲しませてしまっている自分を責めて泣く我が子を前に、自分を責めて嗚咽する子どもに向かって甘えるなと責められますか?

ボクは、事情も知らずに不登校の児童や生徒、あるいはその親御さんを責める声を「仕方ない」と受け入れなければならない状態が正しい社会の在り方とは思いません。
対話を通じて、社会全体に、そして個々人にもっと認知して欲しいと思っています。


社会のシステムの変革について

ボクは冒頭で、不登校の問題は、特定の子どもが行けなくなる学校、それが悪いことのように責められる社会の問題ではないか?と書きました。

改めて書かせて頂きますが、不登校の問題を「学校に行けない子どもの問題」と考えている社会は前述の通り道理的に、論理的におかしい話で、これは子どもをどうにかする為の問題ではなく、社会のシステムの問題じゃないか(そうした方が理に叶う話ではないか)と思う訳です。

また、子どもが学校に行けないという事は、義務教育の学びの機会に不利益が生じている訳ですよね。憲法的に見ても、人権的にも、社会のシステムをこそ問題視するべきじゃないのかな、となる訳です。

じゃあ、社会のシステムの方を問題視して、社会のシステムを変革するにはどうしたら良いのか?
それが簡単な話でないことは勿論わかります。

でも、何の専門家でもない素人のボクでも言えることが、1つあります。

それは、

100人いれば100通りの個性がある多様な子ども達に学びを提供する公教育の現場で、同量同質の内容を1通りの方法で実践し、そのやり方でついて来れない子どもを社会に適応できない子どものように問題視する社会が、果たして良いのだろうか?変わらないといけないタイミングが来ているんじゃないか?
多様性の尊重が叫ばれる昨今、同質性を重視した教育制度が変わらない事に大人達はもっと疑問視しないといけないんじゃないのか?

多様な子ども達が学ぶ場所、機関である以上、公教育の在り方も、もっと多様性を前提とした形に変えていくべきだよねって事です。

具体的な話はここではしませんし、出来ません。
でも具体案もなしに無責任に文句だけを言いたかったのでもありません。

生まれつきハンデを持った人たちが社会的なサービスを享受できない時、それはハンデを持った当人ではなく、本来はハンデを持った人が「ハンデ」と感じずに済むような仕組み、システムにする事が理想なのだと思います。一部のハンデを持った人だけが負担を抱えるシステムは変えるべきだと思います。

同じように、ある特性を持って生まれた為に一部の子ども達だけが、同質同量の一辺倒の方法の為に義務教育サービスが受けられないというのは当人達の問題ではなく、本来はそんな多様な子ども達が受けられる教育サービスに社会の仕組み・システムを変革するべきだと思うのです。

繰り返しますが、もちろん簡単ではないと思います。制度の考案も、インフラの整備も、資金の調達も、人材の確保も実践に掛かる時間も、全て大変な事だと思います。

ただ、その社会システムの変革がどれだけ大変な事だったとしても、いま現在、前述の通りの問題があるのなら、その解決に掛かる「効率」や「コスト」の話を現在の社会システムを維持する事の「正当化の理由」にするのだけは違うと思います。


不登校は、社会の仕組み・システムの問題として当事者以外の皆様にも受け止めて欲しいのです。

長くなってしまいましたが、これから、不登校関連の問題や話題に関してメディアやSNSで目にする時に、当事者でない皆様にこそ、学校に行けない子どもやその親の躾の問題なのではなく、一部の子どもが行けない学校の在り方、社会のシステムの問題の話なんだ、と思って貰えたら嬉しいです。

不登校という言葉のネガティブなイメージ、登校する事を至極当然と捉えたニュアンス、数十年前の「登校拒否」という語句から引き継いだ「個人の問題」であるかのような認識、これらを改める時期が来ていると思います。

現在不登校3年目の長男は、この春から小学5年生になりますが、元気に生きてます。自慢の息子です。

※ボクがこういった考え方をするようになったのは、長男が不登校になったからです。
そう、長男が色々な事を教えてくれました。


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ナツキのパパ@令和の父親アップデート作戦中!
過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。