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子どもが不登校になって。
息子への懺悔。
自分の息子が不登校になるまでは、どこか他人事の話と思っていました。
ごめんね、ナッキー。
キミが学校に対してそんな気持ちになってたコト、そんなに大事なこと、今まで知らなくて本当にごめん。
それと、いつも厳しくてごめん。
ルールばかり言ってごめん。
怒ってばかりで、ごめん。
優しくなくて、ごめん。
話を笑顔で聞いてあげられない事が多くて、ごめん。
目を見て聞いてあげてない事が多かったよね、ごめん。
遊んであげる事が少なくて、ごめん。
遊び方が下手で、ごめん。
新しい遊び方を教えてあげるのが下手で、ごめん。
いつもママを助けてあげてくれてありがとう。
ミッキーやカナちゃんのお世話をしてくれてありがとう。
まだ2年生なのに、ついつい頼りすぎて、甘えすぎて、ごめん。
気付くのがこんなに遅くて、ごめん。
謝るのがこんなに遅くなって、ごめん。
ごめんね。
パパ、ちゃんと変わるから。
ごめんねナッキー。
これは、ちょうど3年前の、2月22日。
ボクがFacebookに投稿した内容です。
本格的に「不登校」になった頃の長男に対しての数多くの「ごめんなさい」。
我が子が不登校になって、ボクの中の価値観や考え方が大きく変わりました。
自分にあった固定観念。
時代背景という要素も多分に影響してたとは思うけれど、ボク自身が育ってきた家庭や環境の中では、やっぱり「学校は行ってあたりまえ」とか、明確な理由も言えないような「行きたくないは甘え」だという認識がありました。
また、ボクの場合は、登校に関してだけではなくて、今思えばそれ以外の事でも、とにかく「我慢すること」を当たり前のことと考えるような幼少期を過ごしていて、特に固定観念が強い家庭だったのかも知れません。
例えば、お菓子やおもちゃを『おねだり』する事は「親を困らせる我儘」だと思っていたし、我慢が出来ないことは「聞き分けのない困った子」だと(単純に怒られるのが怖いとか言えないとかではなくて、我が家は経済的に余裕がない家だと認識していたし、仕方ないというか疑問を持つ事なくそうする事が正しいと)、割と早い段階で(少なくとも小学校低学年から)そう考えていたと思います。
他にも、毎週末は学校の上履きを持ち帰って自分で靴を洗うとか、日曜日は布団を干す(干してくれる母の元まで運ぶ)とか、自分の部屋の掃除機をかけるとか、お風呂を洗うとか、飼っていた金魚の水槽を洗うとか、自分の洗濯物は自分で畳むとか、そういった「自分のことは自分でする」といったよな事を当たり前のモノとして身につける(当たり前という考えになる)家庭だったので、いわゆる「躾」的なニュアンスでいうと同級生の子と比べても比較的厳しい家庭だったのだろうと思います。
※実際に、当時のボクは同級生に対して「甘えん坊」だと思う気持ちがあった事を明確に覚えていますし、もしかしたら深層心理では羨む気持ちや妬みもあったかも知れませんし、もしかしたら自分が惨めにならないように自分にそう思い込ませていたのかも知れない、と大人になってから思うようにはなりました。
ただ、幼少期からそんな家庭で育ったことが、余計に子どもの「甘え」や「わがまま」に対して寛容さに欠けた考え方や態度になっていたのだと、自分自身が強固な固定観念を抱えていたのだろうということを、改めて実感したタイミングでもありました。
不登校児の父親になってから
3年前の懺悔の投稿は、それまでの自分のこと、これからの自分のこと、自分の中にある価値観が大きく変わる、また変えようという決意を、改めて言語化した日だったと思います。
そして、そこからの考え方というか価値観の変化は、ある意味であっという間でした。
※実際に息子の不登校という問題に直面して感じたことや心理的な状況の変化に関しては以前にこちらに書きました。
ざっくり言っちゃえば、彼の人生は彼のモノだし、彼の人生の選択は彼自身が決める事で、親の自分に出来ることはサポートであり応援であって、代わりに選択することや正解を与えることではない、ということ。
(※そもそも、子どもの人生に対して生き方の「正解」を教えてあげられるなんて考え方が「傲慢」でしかないとも言えるし、時代背景の違いさえ考慮できてない愚かさだと捉える事も出来るんですよね。)
そんな考え方が、子どもと向き合う時の真ん中にズドンと座した感じです。
ただ、こんな風に書くと大した大人っぽいけれど、実際には3年が経った今でもまだまだアプローチやリアクションを間違いまくるし、頑固な自分が頻繁に顔を出したりするし、妻と意見が食い違うことがあるたびに見解を交わし合ったりしてます。
でも、そんな中でも自分の中に根付いた固定観念の存在を自覚できている事は、とても大きいと思います。
素晴らしい父親とは胸を張って言えるよな事は全然できてないけれど、3年前のあの日より前のボクとは、確実に変わったと思うし、少なくともそれ以前のボクよりは遥かにマシになってる、と思います(笑)
今の不甲斐なさや悩みや不安は?
ここ数年をほぼゲームとYoutubeだけで生きている不登校の長男については、勉強の事とか進路の事とか……っていう将来の心配は、正直ほぼありません。
ただ、次男や末の娘に対しての態度は果たしてどうか?
もちろん元通りって事はないけど、どこか長男に対して出来てること(信頼すること)が、下の二人には出来てなかったり、求めすぎたりしてる気がします。
例えば、小1の次男や年中の末娘も昨年から行きしぶりが強まって、次男に関してはほぼ不登校が完成モードになりつつあるのですが、長男の時ほどではないにしろ、理由を求める「圧」が強かったり、なんだかんだと「甘えるな」のオーラが前面に出てきたりして、長男でアレだけ反省して学んだ事が、また出来てないと思う時があるんですよね。
もちろん、親として学校に行ってほしい気持ちはあってもいいと思うし、それ自体は否定しないで良い部分だと思ってます。
ただ、それは共働き家庭にあっての子どもの保護とか、食事の準備とか、あるいは学習機会の効率や確保、同年代とのコミュニケーションの機会確保など、親にとっての利点やコスパの観点から思う事であって、自分の気持ちも否定しなくていいという意味です。
それが「行くのが当たり前だから」とか「皆んなに置いていかれるから」とか、勉強しないことや学校に行けない事による「親の不安」や「親の固定観念の押し付け」が理由だと良くないと思います。
だから、言い換えると「自分の都合」がある事は否定しなくて良いし、一方で否定しない事によって時々自分の都合優位の話し方になってしまう事がある、というのが葛藤というか未熟な部分だなと反省する事があります。
でも、これも日々、反省しながら間違える機会を減らしたり、表現方法や伝え方のアップデートを続けていけば良いかなと思ってますけどね。
なので、不安や悩みではないけれど、不甲斐ないなぁ、と感じたりはしてる部分ですね(汗)
3年経って改めての決意表明。
彼らの人生の主役は彼らで、ボクは彼の人生の主役でもなければ操縦者でもない。
だから指示ではなく応援に徹して、経験に基づく情報を伝えるサポーターとして、寄り添って行こう。
その上で、彼らには彼らのタイミングがある事を忘れずに、すぐに動くことや変わる事を期待せずに、見守っていきたいと思います。
※ちなみに、今年は初めて「子育て」に関する目標というモノを考えまして、先月こちらに書いてみまたし。
子どもの不登校になって感じたことや、今悩んでる人に伝えたいことも書いています。
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