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やりたくないことをやる意味はない?

情けない話から始める。

これは家庭のルールの良し悪しの話ではなく、ボクの情けない感情面の話と、どうも腑に落ちず長い間ボクの胸に残り続ける疑問の話。

ある日、子どもが宿題を先延ばしにしていて、いよいよ残り時間も僅かになり、そろそろやらないとだよね?って時になって声を掛ける。

すると、「うぅ〜」と唸って、くねくねしだして、溜息をつく息子(次男)。

むちゃくちゃ嫌そうな顔をして、「俺は不幸だ」と言いたげな顔でため息をつく姿を見せられると、ボクはどうしてもイラっとしてしまう…未熟者でしかない。

その息子がダメとかじゃなくて、ボクの感情の話。

ちなみに我が家の基本的なスタンスとしては、例えば帰宅後にまず宿題しないと遊ばせないとか、そこまで厳しくはしてなくて、また、学校至上主義でもない。

まぁ、長男は不登校だしね。

ボクとしては、仕事から帰って帰宅の挨拶の流れのようなもので宿題をしたかどうかは声掛けしたりする訳だけど、休みの日や前日でいうと、必ずしもその日のうちにする必要もないと思っているので、そこまで追い立てるよな言い方はしていないつもり。

例えば、「宿題やった?今すぐじゃなくてもいいけど、忘れてて最後ギリギリで焦らずに済むように、いつやるかは自分で決めておこうか」といった風にすることが多い。

つまり遊んでいるのを途中で辞めさせてまで無理にその場で宿題をさせることはせずに、やるべき事はやろうとしつつ、出来るだけ主体的な意思を大事にしようとはしているつもりなのね。

だけど、また小学1年生の次男、それでいつやると決めてその通りに実行できるところまでは行かないし、そこに完璧さは求めていない。

けれど、そんな風にある程度まで任せたうえで残り時間が限られる状況になって、いよいよやらないとだけど大丈夫か?とやるように促してみたら前述の反応がある訳で、するとイラついてしまう。

ここまでが情けないけどよくある話。

で、ここからが疑問というかモヤモヤ。

社会人でいえば分かりやすいけど、納期がある仕事を、納期内に間に合わせるために、追い込みしなきゃいけない時(やりたくない気持ちがあっても逃げずに取り組むべき時)は、やっぱりあると思う。

子どもの頃の、特に学校という場が社会の予備練習の場であるなら、勉強の成績云々より、特にそういう部分の方が大事じゃないかなってボクは思っている。

例えば、子どもの宿題と大人の話だと変わる?
やりたくない事を泣く思いをしてまでやらせるのは違う?

うん、その主張の背景も正当性も理解できるし、
もちろん今の時代は「納期のある仕事をせずに生きたらいいんじゃない?」と教えるのも構わないと思う。

従順であることや皆と同じ(ことが出来る)ことは、もはや優先すべき価値基準ではないと思うからね。

でも、現に目の前に納期のある仕事があるのなら、その仕事はきちんと終わらせるべきだし、それは責任だし、納期に間に合わせる為に向き合わせることは、そこでの頑張り、努力とか責任感とか、忍耐力とか色々な見方があるけど、それを完遂してこその経験から得られるモノが、あると思っている。

表現が難しいのだけど、その先にはきっと、他人から「信頼」して貰えるかどうかに関わる部分が隠れてる気がしている。

そこに自分の気持ちを最優先にしていい、好きにさせるってのを当てはめて、いつでも逃げてOKにしとくのは少し違うと思う。

嫌な事に嫌と言えずにただ耐えることの過ちの話と一緒にするのは違うんじゃないかな、と思う。

「やりたくないならやらなくていい」を常に適用するのは、ちょっとだけ違うんじゃないかな、と思う。

いやいや、色んなシーンがあるので、一概には言えないし、これだけだと反論もできるし、もっと細かく書きたいことや具体的な事もあるんだけど、文章にする元気と体力がなかったので、ただの独り言ですけどね。

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ナツキのパパ@令和の父親アップデート作戦中!
過去のボクは昭和の固定観念や慣習に縛られ、自分や家族を苦しめていた事に気付きました。今は、同じ想いや苦しみを感じる人が少しでも減るように、拙い言葉ではありますが微力ながら、経験を通じた想いを社会に伝えていけたらと思っていますので、応援して頂けましたら嬉しいです。