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不登校の初期対応で気をつけたいこと。
小学2年生の秋から不登校になり、現在は元気に不登校中の小学5年生の長男と隔日登校の次男がいるナツキのパパです。
長男が不登校の初期に、ボクがとった誤ったリアクション。
「学校に行きたくない」と息子から聞いた時に、ボクは最初、「どうして?」と聞きました。
そして、はっきりとした答えがない事に対して、問い詰めた。
聞き出そうとした。
「嫌なことがあるなら言ってみて」
「心配だから聞いてるんだよ」
「本当に辛いなら行かなくていいから、理由だけ教えて」
「もしも嫌なことがあるなら、黙ってても解決しないし、力になれない」
思い出すと申し訳なくて泣きそうになるし、当時の自分が情けなくなるし、こうして書いて知られる事が恥ずかしくもある。
でも当初のボクは、学校に行かないという息子に対して、理由探し、原因探しをしました。
これは端的に言い換えると、
「原因や理由が分かれば解決できる」
「原因や理由を取り除けばまた行ってくれる」
と考えていたから。
ここでさす「解決」とは、
「また学校に行けるようにする」ということ。
つまり、ゴールは「行くのが当たり前」で「普通のこと」で、行かない状況では「再登校させること」が大前提で、それ以外の可能性や選択肢を知らない状態。
「学校は行くべきもの」で、行かない事は「なんか後ろめたいこと」という意識があった。
これが、時代の変化に気付いていない思考、自分の幼少期に刷り込まれた慣習的な価値観で、学校へ行くのが辛い子を、より苦しめる部分だと考えています。
それは、理由を問い詰める行為や何とか学校へ行かせようとする自分の気持ちの本質的な動機が、
「我が子を助けたいから」ではなく、
「自分がこの不安から解放されたいから」
という事に起因してたりするのだと、気付いてなかったから。
だから、この「解決=再登校」が前提となった考え方は、仮に(力技で)実現させても、原因の解決にはならない事、そして、解決したいという自分の気持ちの出所を気付きにくくさせると思います。
子どもが行きたくない、あるいは「行けない」のには理由がある。もちろん、理由を知ることは意味があると思います。
でも、言葉と、心の声に耳を傾けるのは大事だけど、その理由が必ずしも「行かせる為に解決すべきこと」とイコールではないかも知れません。
しんどい理由をなくす事、心を救う事と、行けるようにすることはイコールではないという考え方です。
登校するという事を答えにして考えるのではなくて、どうすべきかを前提にするのではなくて、まずは、しんどいならしんどくない状況にして、心を休ませる。張り詰めて限界を迎えていた心が落ち着くのをまずは待つ。焦らずに待つ。休ませる。
安心すると、しんどさの理由を自覚したり、ある程度まで言語化できたりします。そこからようやく、本人のしんどさの理由に合った解決策、理由に合った救い方を考えるのが良いのかなと思います。
この辺りの自分の意識の持ち方が変わると、不登校という「選択肢」に対して、不登校を選択する我が子に対して、もっと柔軟に、向き合えるようになります。
そして、子どもも親も苦しい時期を抜け、明るい明日も見えてくるのじゃないかなとと思います。
※それまで他人事だった「不登校」というモノと、初めて直面した親の多くが体験する行動や心の動き、親子関係について書いた記事もありますので、今、まだ苦しんだり悩んだりされている方は、よろしければ読んでみてください。
また、我が家では不登校の長男を兄に持つ次男が、今年の春から小学生になりました。
また、そもそも不登校を問題視する気持ちが消えない方、将来や社会への不安が拭えない方には、こちらも読んで頂けたらと思います。
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