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[小説]『朔の日 歌う月の鳥』④

<第四話 晴れ渡る海>

 カフェ「朔(ついたち)」の店主と話すと、いらいらする。だけど私、日々夏海(なつみ)は、開店時間の十時に「朔」のドアを開けた。
「おはようございま・・・ああ、夏海。いらっしゃい」
「今日のブランチキッシュ、なに?まあいいや、なんでも。飲み物はアイスコーヒーで」
 ああ疲れた。今日も朝から本当に忙しかった。ただでさえ給食センターの都合で小学生は弁当持参になって慌ただしかったのに、息子のヤツ、弁当を玄関に忘れていきやがった。自転車で追いかけようにも、おばあちゃんのデイサービスの送迎車が来る時間がせまり、あとから学校へ届けに行くしかなかった。正門からインターホンで職員室の先生を呼び出して、子どもの忘れ物を渡す申し訳なさ、情けなさ、恥ずかしさったらない。さらに帰宅後、洗濯物を干そうとしてカゴを蹴飛ばして、半分ほどをベランダにぶちまけてしまった。
「なんでこんな目に!」
 トドメを刺したのは自分なのに、何もかもイヤになってしまった。もう、スーパーの午前中大特価なんかどうでもいい。満月の店で、息抜きしないとやってられない。噂話に尾ひれがつくこの地域で、何を言っても大丈夫な唯一の場所。といっても客がいなければだけど。
「本日のキッシュは、根菜だよ。れんこん、里芋、にんじん。スープは、さつまいものポタージュ」
 満月がそう言いながら、嫌味じゃない早さで静かに作業するのを見ながら、私は朝からの自分の動きを振り返っていた。
「今日もお疲れ様」
 ポタージュを運んできた満月に「ほんと大変だった。まだ十時なのに一日分の気力を使い果たした感じ」とぼやく。
 子ども会の会合や、ドッヂボールや綱引き大会の祝勝会でも使っているこの店の、ちょっと変わった点は、水槽で転がっている猫だ。
「いつ見ても、猫は呑気そうでいいねえ」上にパラパラ振られた黒胡椒を巻き込むようにスプーンでかきまぜたあと、ポタージュをそっとすする。
 サラダを小鉢によそってうなずきながら「それで、今日はどうしたの」と、満月が弾丸トークのきっかけをくれた。
「あー、十八歳に戻りたいよー、満月と出逢った入学式に戻りたい。そんで私にひとめ惚れした身の程知らずのダンナをこっぴどく振ってやる」
「まーた、そんなこと言ってる。そうしたらハル君にも出逢えないじゃない」
 いつものように満月が答えた。その返事以外は無いかのように。
 
 ひとり息子の晴海(はるみ)は、調理製菓専門学校の入学式で右隣に座ったダンナと(ちなみに左隣は満月だった)つきあって半年経った頃、私のおなかに飛び込んできた子だ。
 双方の親の顔合わせと同時に、籍を早く入れることはもちろん、私は学校を辞めて出産まで私の実家で暮らすこと、ダンナは自分の実家の和食処「日々是好日」を継ぐためにも引き続き学校に通い国家資格を取得すること、産後はダンナの実家で同居することなどが、たちまち決められた。
 恋人時代の甘やかな時期は一瞬で、妊娠期間に突入した私の体は、人よりつわりが長い上に、切迫早産で入院もした。なんとか37週まで持たせて出産できたものの、実家暮らしのツケで、慣れない家事に加え24時間営業の育児は苦行でしかなく、あの頃の記憶は飛び飛びだ。
 ダンナはダンナで頑張ったと思う。調理師免許はもちろん、当時「日々是好日」では取り扱っていなかったふぐを調理できるよう、その免許も取得した。
 板前のお義父さんも、経理と仕入れとホールを担当しているお義母さんも孫の誕生は喜んでくれたし、おばあちゃんなんか二階のリフォーム費用をドンと出してくれた。
 どれだけ多くの人に「恵まれている」とか「幸せだね」と言われたことだろう。
「そんなの、わかってる。でも誰も気づいてない。みんなは、生活環境に私と晴海が足されただけなのに、私だけが違う。私は妊娠がわかった日に、見える景色が何もかも変わってしまった。思い描いていた未来を失ったんだよ。みんな私を見ているようで、おなかの中の子を見ているだけ。気遣う言葉で、全責任を私に押し付けてきた恐怖と重責が、どこか今も続いているんだよ」
 フォークを突き刺すと思いのほか、グサッと音を立ててキッシュに裂け目が入った。
「わかっているよ。夏海がいったんすべて手放したこと。笑って別の幸せにシフトしただけじゃないってこと」
 ピッチャーをテーブルに置いた満月は水槽の猫を見た。猫もチラ、とこちらを見る。
「だよね、満月だけだよ、わかってくれるの。だって」
「夏休みに、カナタと遊んでくれてありがとう。ハル君の前だと、一歳上なだけなのに急にお兄ちゃんぶるから、おかしくて」
「晴海は晴海で、お兄ちゃんがいたらなって、いつも言っているからカナタ君と会うのが楽しみなんだよ。でもカナタ君、そろそろ中学受験準備があるんじゃないの?」
「どうだろう?夢は宇宙飛行士みたいだけれど」
 カナタ君が成績優秀だということは、彼と話せばたいていの人はわかる。もし私が彼の母親だったら、原石を磨こうと必死になるだろう。だけど満月も、満月のご実家もどこかのんびりしていて、そこのところがもどかしい。
 満月にはカナタ君のことをもっと母親目線で見てほしい。必死になってほしい。距離を取っている感じにいらいらする。
「満月は母親みたいなものじゃないの?」
 水槽の猫が、起き上がりお座りをした。
「母親は姉だけよ。まだ二歳だったから、私をママと呼ぶことはあったけど、そのたびに写真を見せて、これがママ、これがパパって伝えていたもの」
「なら六鹿さんと別れる必要なんかなかったんじゃないの?北海道について行けば良かったのに。私は満月がカナタ君の母親になる覚悟で、六鹿さんとお店を開く夢をあきらめたんだと思ってた」
 言い過ぎたと思った時に、携帯電話が鳴った。表示を見ると小学校からで、イヤな予感がする。そしてそれは当たってしまった。
「ハル君、どうかしたの」
「あのバカ、鉄棒から落ちたって。本人は大丈夫だって言っているけど、後頭部を打ったから念の為、すぐ病院に連れて行けないかって」
「意識ははっきりしているのね?」
「うん、保健室にいるみたい。ごめん、いったん帰って車で学校に行かないと」
 自転車の鍵をつかんだ手を満月が握ってきた。
「自転車はここに置いていけばいい。タクシーをすぐ呼ぶから、それで行って。こんな状態で運転しちゃだめ」
 そう言われて、自分の手が震えていることに気づいた。
 
 学校の廊下で担任と話した後、保健室にいた晴海を連れて病院に行くと、玄関にダンナが立っていた。
「あれ、店は」
「親父達に任せて来た」
 ランチタイムだから既読もつかないだろうと思っていたけれど、タクシーの中から打ったメッセージを読んでいたようだ。
 結局、晴海はCT検査で異常は見られず、二、三日は激しい運動はせず様子を見るように言われただけで済んだ。検査中、ダンナは私の手を握って「大丈夫だ」を繰り返していたのに、結果を聞くと深く息を吐いて、両手で顔を覆っていた。
 ダンナの車の後部座席に二人で乗り込むと、緊張しっぱなしだった晴海のおなかが、ぐうっと鳴った。
「給食の時間、過ぎているもんね」
「ごめんなさい。せっかくお母さんが届けてくれたお弁当、食べられなかった・・・」
「まあ、家で食べればいいじゃん。大好きなコーンスープ、作ってあげるから」
 自然と穏やかな声が出た。朝からキーキー怒りながら、やたら音を立てて家事をやっていた自分。早く起きなさい、早く着替えなさい、早くご飯食べなさい。大好きなテレビ番組をいきなり切られても言い返さず、黙ってもたもた着替える息子。段取りの悪さ、要領の悪さが目立つのは、私がそこばかりを意識するからだ。自分と重ねていらいらするのだ。
 逆上がりがクラスでたったひとり出来ないことを今日、初めて担任から知らされた。それで休み時間にいつも練習していたそうだ。言ってくれたら公園で一緒に練習するのに。でも、言わせなかったのはきっと私だ。
 帰ってくると、宿題やプリントの有無を確認して、さっさと片付けるようにうながすだけ。夕方になればデイサービスから帰るおばあちゃんの世話に追われて、それどころじゃ・・・いや違う。おばあちゃんにお茶を運んでくれたり、料理を手伝ってもくれる子だ。そんな時に、なんでもないおしゃべりをしていたら話してくれたかもしれない。顔をしっかり見たら悩んでいることに気づいたかもしれない。
「お母さんのカバンから、いい匂いがする」
「ん?ああ・・・」
そう言えば満月が皿に残ったキッシュを「包むね」と言っていた。見ると食べかけのキッシュだけでなく、スコーンやクッキーも入っていた。
「晴海の好きな「朔」の、ほらカナタ君とこのお菓子だよ。一緒に食べよう」
「うん!」ぱあっと笑った顔にぶわっと涙が出た。
「お母さん、どうしたの」
 こんなことでもないと、気づかなくてごめん。「いってらっしゃい」と送り出した人が、「ただいま」と帰ってくることは、すごいことなのに。お姉さん夫婦と実家で暮らしていた満月はそれを痛いほどわかっている。
 本当は生きていてくれるだけでいいんだよ。おなかにいた時は毎日そう思っていたんだよ。でも今は、さらに願いは追加されてる。
「今度の日曜、お父さんと公園に行こう」家まであと少しという時、ダンナが話しかける。
「内緒にしてたけど、お父さんも子どもの頃、逆上がりが苦手でさ。じいちゃんが特訓してくれたんだ」
「お父さんもなの?」晴海が身を乗り出す。
「ああ」駐車場に停めて、運転席から振り向いたダンナは私達に向かって、「俺の出番だぜ。キラーン」と、手の甲を見せてシャカサインをした。この間テレビ番組のハワイ特集でやっていた、「頑張ろう」とか「大丈夫」というポジティブな挨拶のハンドサインだ。
 つるんとした丸坊主でカッコつけられてもね。ただ思う。妊娠した時もだけど、いつも「大丈夫」「なんとかなる」と言いながら、この人だって不安につぶされそうだったのかもしれない。
 きっと私達の願いは同じ。
 
 晴海、生きて、そして笑っていてほしい。
 
<第四話 完>

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