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[小説]『朔の日 歌う月の鳥』⑩

<第十話 流星群のラララ>

 「サクさん」と呼んでいたカフェ「朔(ついたち)」の店長を、
満月(みつき)さんと呼んだのはいつからだっけ。滝君に聞かれて、あらためて振り返る。
「それにしても」と、あれからちょくちょく泊まりに来るようになった滝君が、ノンアルコールサワーをグラスに注いで俺に手渡したあと「この間の林さんとモリエさんは、幼なじみとか友達というより、家族でしたよね」と言った。
「そうだな」
 俺はにんじんをバーニャカウダソースに突っ込みながらうなずき、「籍を入れなくても一緒に暮らせばいいのにな。おやっさんもモリエさんも、そこんとこ、あえて避けている気がするんだよな」と日頃じれったく感じていた想いをつぶやくも、一呼吸おいて「いい意味で」と付け足しておく。
「似たような人達が集まっているのかな」
 滝君は小さく笑って、窓の外を見た。視線の先にあるのはまん丸の月。
「ブルームーンだっけ」
 ひと月に二回満月がある時に、そう呼ぶらしい。めったにないことという意味で。その言葉に滝君が「満月さんからの受け売りですね?」とすかさず言う。
 
 店の名前もだけど、コースターもランチョンマットの柄も、「朔」は月に関するものが多い。
「そう言えば、滝君だって最初は店長って呼んでいたんじゃなかった?」
「ええ。お友達の夏海さんが、息子の晴海君の話になると、たいてい僕に質問が来て、会話に加わることになるんですよね。夏海さんが名前で呼ぶから、僕も自然に満月さんって言うようになりましたね」
「へえ」
 俺が「サクさん」と呼ぶように、満月さんは満月さんで俺のことを当時働いていた自然食レストランの店名から「ソルくん」と呼んでいた。調理人同士の、店長と客だった頃だ。
 林ファームに正式に採用になって、初めて配達のために「朔」の裏口から入り、野菜を届けた時は本当に嬉しかった。
「やっとこっち側に来れた」と。
「こっち側?」月が雲に隠れて、滝君が視線を部屋の中に戻した。
「うん。食の根本」
「ああ、そっち」滝君が炭酸水をグラスに注ぐ。
「鳥海さんが本気で林ファームを継ぐ意思は、いまや誰もがわかってますけど。でも農業って厳しい仕事でしょ。実家は長野でしたっけ」
「そう。鳥海農場」
「え」
 そう言えば、林のおやっさん以外に実家の話をしたことはなかった。満月さんにも、ただ海のない県にいたから、海に憧れてこの半島に来たと話しただけだ。あ、でも兄弟が多い話はした。満月さんはかなり驚いていたっけ。
「弟が四人、妹が二人ってすごいですね。しかも一番上の弟がまだ中学生?」
 滝君も、やはり驚いている。
「実家が農場ということにも驚きですよ。じゃあ農業はまったくの素人じゃなくて、それどころか農場の長男?え、ちょっと待って」
 めずらしく滝君が早口で、ちょっとおもしろい。
「あー、これはトリさん、夜更かしコースですね」
「あれ、今、トリさんって言った」
「あ、なんとなく自然にトリさんって言っちゃいましたね」
「いいね、なんなら下の名前、空良って呼んでくれていいぜタッキー」
「いきなりソラとは言えないですよ。それよりタッキーってやめてくださいよ」
「いいじゃん。カナタがタッキーって言うたびに、便乗する機会を狙っていたんだからさ」
「ははは」
 大笑いした滝君の向こうに、月が顔を出した。
 
☆☆☆
 
 俺の実家は、りんごを中心とした果樹園で、生産・卸しの他、野菜や果物をジュースに加工して販売もしている農場だ。従業員五十名ほどで、通いのパートさんも多かったが、社宅も小さいながら敷地内にあったので、そこに住む家族の子ども達は兄弟のように育ち、俺もいつも一緒に遊んでいた。食堂では母親達が、大きな鍋で独身寮の人達の分も含め大勢の食事を作っていて、その匂いを嗅ぎながら、夕飯のおかず当てごっこをしたり、お駄賃のジュース目当てに手伝いをしたりして、あっという間に一日が過ぎて行く。
 いつもにぎやかだったから、淋しいとか退屈という感情は、あの頃無かったと思う。母が急死した時をのぞいて。
 
 二十歳で俺を産んだ母はまだ、二十六歳だった。
 朝早くから食堂で従業員の朝食作りをするため、目が覚めるといつもいなかったが、父は父で見回りに出ていたので、俺の身の回りの世話は祖母がしていた。祖父と三人で朝食を食べるのが日常だったのだ。なのに、母がいないことが、その朝食風景でさえ今までとは違って見えた。
 学校から帰って食堂の窓にしがみついてのぞきこんでも、母はもういない。ひとり欠けて忙しそうに調理するおばさん達は、それでもみな手を止めて「お帰り!」と言ってくれる。
 でも、もう食堂の窓をのぞくのはやめた。その手前に落とし穴があるみたいに、体に力が入って、足が止まるのだ。俺は今まで通りに学校に通い、帰宅すればみんなと農場を駆け回り遊んだ。ほとんど今まで通りの日々は全然今まで通りじゃなくなった。
 
「ソラ、今夜ペルセウス座流星群を見ない?」
 初盆を前に、盆提灯の組み立てを手伝ってくれていた咲良ねえちゃんが耳打ちしてきた。咲良ねえちゃんは、名前に「良」があるからよく本当の姉弟だと思われたけど、社宅に住んでいる藤井さんちのひとり娘だ。
「みんなで集まると騒いでばれちゃうからさ、ふたりでね」
 
 満月と流星群最接近が同じ日になっても、遮る人口の光がない農場の夜空は天体観測にもってこいだった。レジャーシートに、バスタオルを丸めた枕を置いて寝転がる。
「あー、わくわくするね。ソラ、何を願う?」
「三回も言わなくちゃいけないんでしょ、無理だよ」
「言えるよ!私はカネ、カネ、カネ」
「えー、サクラねえちゃんは歌手、歌手、歌手じゃないの」
 食堂にあるテレビで歌番組が始まると、咲良ねえちゃんはいつも夢中で見上げていたし、外遊びをしている時もよく歌っていた。
「んー、でもこれからのことなんてわかんないし。どんな道に行きたくなっても大丈夫な願い事ってやっぱりお金じゃない?カネ、カネ、カネにしとこうっと」
 そんな打ち合わせをしている間に、流れ星がさっと夜空を横切る。
「あーっ、もーっ、しばらくおしゃべり禁止ね」
 話しかけてきたのはどっちだっけと思いながら、短い願い事を考え始めると、咲良ねえちゃんは体育座りをして歌い始めた。
 合唱コンクールで金賞を獲ったその曲は、一斉に歌うと迫力だけが感じられたけど、咲良ねえちゃんの歌声だけだと、とても優しい歌になった。
 小さく拍手すると、咲良ねえちゃんは寝転んでいる俺をちらと見て、次は歌詞のない、ラララだけの歌を口ずさみ始めた。
 聴きながら見上げた夜空に、流れ星が今度はいくつも横切る。とっさにつぶやいた言葉は「ママ」だった。
 一瞬、歌をやめた咲良ねえちゃんが、続きをまた歌い出す。どこか懐かしい歌を。
「ママ、ママ、ママ」
 いくつも流れる星に何度もつぶやく。叶うはずのない願いだった。でも他に何も浮かばない。
 咲良ねえちゃんの歌は、なかなか終わらなかった。歌が頭の中を流れて、涙も流れて、夜空もぐちゃぐちゃになって、わけがわからなくなった。
 起き上がって、枕にしていたバスタオルで顔をぐしゃぐしゃと拭いて、頭からタオルをかぶった。
「ソラ、この歌、覚えていたんだね」
 歌い終わった咲良ねえちゃんが、こっちを見る。
「この歌ね、ソラのママが作った歌なんだよ。ソラが赤ちゃんの時に、抱っこしながらいつも歌っていたの。私はまだ五歳だったけど、毎日聴くうちに覚えちゃった」
「オレは覚えてないや」
「泣かせてごめんね。今日が迎え火の日でしょ。もう近くまで来ているかなあと思って、歌いたくなったの」
「うん」水筒のお茶をぐいっと飲む。咲良ねえちゃんも、水筒のお茶を飲んだ。
「長い歌だなと思った」
 ぽつんとつぶやくと、咲良ねえちゃんは「だって、これ終わらない歌だもの」と空を見上げたまま言った。
「ソラが眠りにつくまでの歌。クラシックみたいに展開してゆくの。だから私も最後まで聴いたことがないんだよ」
「終わらない歌」
「そう。最初の十五分くらいしか知らないけど、良かったらいつでも歌うよ」

 それから三十分見上げているうちにピークの時間が来て、いくつも流星を観ることが出来た。咲良ねえちゃんは、小声でいろんな願い事をつぶやいているようだった。
「あー、全部叶ったらサイコー!!!」
 親たちの誰かに見つかった時のために、早朝の散歩のふりをしよう、と手をつないであちこち歩きながら家に向かう。
「ソラ、あなたはひとりじゃないからね」
 家の玄関が見えて、咲良ねえちゃんが足を止めた。
「うん、わかってるよ、そんなこと」お父さんだって、おじいちゃん達だって、友達だっている。
「何があっても私がひとりにしない。ソラが生まれた時から、ずっと私は見て来たんだからね。私達は家族だよ」
 ぎゅっと手に力が入って、びっくりする。朝焼けに薄まった夜空にはまだ流星が見えていた。
 
☆   ☆ ☆
 
「いや、でもトリさん、まさかでしょ」
 滝君が「今日は絶対酒の方が良かった」と言いながら、再びノンアルコールサワーの缶に口をつける。俺が早朝から収穫作業をするので、滝君はつきあってノンアルコールドリンクにしている。きっと作業も手伝ってくれるんだろうな。
「初恋の人が、自分の母親になるなんてつらすぎる」
 滝君が驚くのも無理はない。俺自身、咲良ねえちゃんがいつから親父のことを好きだったか、まったくわからない。しかも驚いたのは、親父もだった。
 農場を手伝いながら何度も「私をお嫁さんにして」と言ってきた咲良ねえちゃんのことを、「ありがとな」と言いながら親父は本気にしていなかったらしいし、藤井のおじさん、おばさんでさえ、その光景をほほえましく見ていただけで、高校を卒業したらこの町を出てゆくのだと思っていたのだそう。
 幸せそうな十八歳の花嫁は「ソラ、私達、本当の家族だね」と抱きついて来た。ひらひらして童話の姫みたいに見えたウエディングドレスは実際、体に当たるとゴワゴワしていた。イヤリングも髪にからんで痛い。声変わりし始めた俺の「おめでとう」という声もゴワゴワしていた。
 中二の時に弟の陽良(ひろ)が、高校の時に輝良(あきら)と宝良(たから)が生まれて、俺は家を出たのだった。
 
「よくグレませんでしたね」滝君が言う。
「あまりに周りが明るくて。サクラねえちゃんも、おじさんたちもさ、あったかくて、まあみんな、誰が誰の子とかそういうんじゃなくて、みんなでみんなの子を育てるっていう環境だったからさ。次々家族が増えていって、手が足りなくて藤井のおじさんおばさんも母屋っての?うちにほとんどいることになって、寝る時までにぎやかでさ」
「自分の輪郭も影も消しちゃうほどでしたか」
「出た、タッキー節。でもそうだな、進路相談の時に自分が何をしたいか、まったく浮かばなくて、このまま農場を継ぐ気持ちも湧かなくてさ。一度外に出てみたくなったんだ」
「止められませんでしたか」滝君が寝袋に身体を突っ込みながら聞いてきた。
「サクラねえちゃんが、淋しいってわんわん泣いた。あと四歳だった弟も。でも親父は、好きなようにやってみろって態度だったな。ただし連絡だけはしろよ、家族なんだからって」
「そこまで受け入れられると、跡取り候補はたくさんいるだろ、なんて言う機会もないですね」滝君が芋虫のように体をねじって「とにかく僕はトリさんの、今ここにいる選択が嬉しいですよ。トリさんが自分の気持ちを隠して守った家族の話をこうして僕に聞かせてくれたことも」と背中を向けた。
「いや、ただのガキんちょの失恋話じゃん。カッコ悪」
「カッコいいですよ。しかもとびきり。満月さんだってそう言うはずだ」
 俺が戸惑うと滝君は「わかってますよ。言いませんって」と肩で息をついた。
 見上げた窓にはもう月は見えなかった。満月じゃなくても見える星の数は故郷の夜空よりうんと少ない。その代わりじゃないが、この町には海がある。根を下ろして生きようと決めた理由は、ひとつやふたつじゃないが、「海があるから」という理由が代表選手になることが多い。
「俺もここに来て良かったと思ってる。タッキーに会えて、友達って大人になっても出来るもんだなあって思った」

 そう言うと、芋虫がまた体をうねらせたが、返事は寝息だった。
 
<第十話 完>

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