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[小説]『朔の日 歌う月の鳥』⑧

<第八話 大潮の日の月>

 カフェ「朔(ついたち)」を開店して六年。情報誌に「黒猫カフェ」とか「水槽に棲む猫カフェ」と、ヨルのことをメインに書かれるたびに、猫好きな客が来るけれど、当のヨルは話しかけられても知らんふりだ。とはいえファンは着実に増えている。

「無理もないよ。ヨルはただの黒猫じゃないからさ」
 潮干狩りにやってきて、そのままゴールデンウイークの間泊まる予定のカナタが、大葉とサーモンのキッシュを手で持ち上げてかぶりつく。
「ただの黒猫じゃないの?」
 レモン水を渡しながら聞くと、
「えっと、ヨルはヨルだから。ヨルでしかないヨルだから」と、歌のような言葉を返して来た。
 シャワーを浴びたけれど、適当に洗ったのだろう、まだ海の匂いがする。一緒に来た私の父と母は、日帰り温泉で休憩してから帰ると言って、大量のあさりとカナタを置いていった。
「おじいちゃんの潮干狩り好きはすごいよね。いつもひとりでずんずん腰が浸かる場所まで行くんだもん」
 父が黙々と掘る姿が目に浮かぶ。昔からそうだった。母と姉と私は、潮が引いた浜を少し歩いては、しゃがみこみ、おしゃべりしながら浅く掘るものだから、大した成果はなく、三人分を集めても父には敵わなかった。では父があさりを好きかと言えばそうでもなく、川に化石を探しにも行く。掘ることが好きなだけなのだ。

「あさりの献立考えなくちゃ」
 クーラーボックスを移動させようとすると、中学生になってから一人称が「俺」になったカナタが、さっと立ち上がり運んでくれた。背はほぼ私と変わらなくなり、ひょろっとしている割に力がある。
「砂抜き用の海水も、汲んできたよ。あ、満月ねえちゃん、見て見て、これ俺の」
 カナタの手にはスマートフォンが握られていた。
「あ、ついに」
 中学生になったらという約束が果たされて満足そうな顔は、まだまだ子どもっぽい。
「これで砂抜きのやり方、調べて来たんだ。半分くらい冷凍するんでしょ?それもやっていい?」
「もちろん。助かるわ。明日のブランチはあさりとトマトの冷製スープにしようかな。ちょうどトマトが届くから」
 言うや否や、林ファームの軽トラックが駐車場に入ってくるのが見えた。
「トリさんだ!」カナタの顔が輝く。
「まいど!」鳥海君がトマトの箱をストッカーの前に置いて、カナタの頭をいつものようにくしゃくしゃなでる。
「お前、また大きくなったんじゃないの。寝てばっかなんだろ」
「じゃあトリさんだって寝てばっかりだったってことじゃん」
「その通り!特に授業中な」
 ふたりの他愛ないやりとりを聞きながら、ふと水槽を見ると、ヨルが顔だけこちらを向けている。やがて大あくびをして、あおむけに寝始めた。
「あれ、めずらしいな、ヨル。ファンが見たら大喜びのへそ天」鳥海君が言う。
「お客さんが見ている時には絶対にしないわ。こんな姿は身内だけにしか」
「へえ。じゃあ俺、身内と認定?」
 おどけて言う鳥海君に思わず「まあ猫は気まぐれだから」と言ってしまう。
「満月さん、その反応こそ、猫っぽくて淋しいんだけど」
 鳥海君がカウンターの席に着いたので、時間があるんだなと察してコーヒーを淹れ始める。
「カナタは次、何を飲みたい?」
「俺はジンジャーエール。辛いやつ」
「おっ、大人になったな。前は一口飲んで、むせていたのに」
 カナタの得意顔に、鳥海君がまた頭をくしゃくしゃとなでた。
「あの時は、カナタが一口であきらめたジンジャーエールに、滝君がウォッカを入れてモスコミュールにしたんだよな」

 かつてここでバイトをしていた滝君こそ、ヨルにとっておなかを平気で見せられる相手だった。院生になり忙しくなってからもイベントの時は来て、カナタの勉強も見てくれた人だ。
「タッキー、どうしてるかな。スクールカウンセラーになったんでしょ。うちの学校じゃなくて残念」
 カナタが中学校の廊下で滝君にまとわりつく光景を想像する。
「あいつ、国家資格を取ったの、すごいよね」
「そうね。こども病院でも働いているみたい」
 ふたりにかぼちゃとクリームチーズのデザートキッシュを出すと、たちまちたいらげてしまったので、パイ生地で試作してみたブルーベリーの一口キッシュをお皿に追加する。 
 鳥海君はカナタよりかなり歳上だけど、カナタが大きくなったこともあって並んで食べていると兄弟のようだ。
「なんなら俺の部屋に泊まればいいんだから、休みの前の晩とかに飲みに来いよって誘ってるんだけどなあ」
 鳥海君の、誰にでも分け隔てのない感じは出会って何年経っても変わらない。
 滝君はというと、人との距離や話し方をその場その場で変える人だった。こちらの言葉をすっと受け止めて、ちょうどいい言葉を返す。どんな人ともそうだから、彼も誰とでも親しくなっていったけれど、やりとりを見ていて彼自身の想いはどれほど入っているのだろうかなんて、考えてしまったこともある。
 だから、彼が公認心理師に合格したと聞いた時も、驚きはしなかった。
 
☆☆☆
 
「カナタは役に立った?」
そう聞いてしまったのは、あとは卒論を書き上げるだけだと滝君が言った時だった。
 毎年恒例となった農業フェスタに単発バイトで来てくれた滝君に、これまでのお礼も兼ねて、何かバイト代に上乗せしたいと思いついたのが、ヴィンテージ シャンパンで就職内定の乾杯をすることだった。
「うわっ、これ、モエ・エ・シャンドンじゃないですか。いいんですか、満月さん」
「そう言いながらもう開ける準備をしてくれてるじゃないの」
「そりゃあ、こんなチャンス逃がさないですよ」
 所作に無駄がない滝君を見ながら、グラスを棚の奥から出した。
「あれっ、シャンパングラスなんてありましたっけ」
「これは私物。昨日から考えていたから二階から持ってきたの」
 かつての恋人が、いつかふたりで店を開いたら、その夜に乾杯しようと買ったシャンパングラスだ。
 輝くレモンイエローが注がれて、果実の香りが立つ。
「就職おめでとう。そしてこれまで本当にありがとう」
「こちらこそ、この五年半で一体どれだけおいしいキッシュを食べさせてもらったか。それに、この店でいろんな人に出会えたことも、いい経験になりました」
「滝君は」
 アスパラとオリーブのピンチョスを出そうと、いったんテーブルを離れる。
「いつからカウンセラーを目指していたの」
「大学に入ってからですね」
「そう。何かきっかけはあるの」
 すぐ反応があると思いきや沈黙があったので振り向くと、滝君はシャンパングラスをのぞきこんでいた。
 気に障る質問だったのだろうか。私の顔を見て「あっ、すみません」となぜか謝ってきた。 
「どのパターンで返事をしようか考えてしまいました。よく聞かれる質問だから、いつのまにか、いろんなパターンができてしまって」
  そういう仕組みは、なんとなくわかるのでうなずく。
「いくつもの答えのそれぞれに、滝君の本音はちゃんと入っているの」
 向かい合う席ではなく、斜めの位置の椅子に座る。水槽にはさっき降りて来たヨルが香箱座りで、うつらうつらしている。
「そういうとこ」
「え」
「満月さんのそういうとこ、いいですね。この店の居心地の良さに通ずるというか。踏み込み過ぎず、でもちゃんと聞いてくれていることがわかる」
「それって滝君自身のことじゃない」
「僕のは学んで得たスキルなので、まだ頭でこなしている感覚なんです。相手の身振り手振りから心理を読み取ろうとして、話自体をうっかり聞き逃すことがあります」
「私は本当の滝君を知らないのね」
「いや、そんなまったく違うわけじゃ・・・そこまで器用じゃないです。ただ、不特定多数の人と接するこの場所は、学んだことを実践する意識でいたので、満月さんがこの店ではない場所で僕を見たら、印象が違うかもしれません」
 鳥海君の顔がよぎる。
「だから鳥海さんといると、ラクなんですよね。ほっとする。開放的で、どんな仕草も気にならない」
 見透かされたみたいで、ドキッとした。
「信頼関係ができると、だからこそ傷つけ合うこともあるから、怖いんですけどね。家族なんて最たるもので。だけど鳥海さんはなんだろう。うーん、あの気持ちのいい明るさはなんでしょうね」
 窓の外を軽トラックが走り、思わず目で追う。この仕草も何らかの心情を意味するんだろうか。なら、滝君の頭の中はいつも忙しいだろう。腕を組んで、ヨルを眺めた。
「ああそれで、子どものカウンセラーになろうと決めたきっかけでしたよね」
 今日の滝君が饒舌なのは、疲れた体に酔いが早く回ったからか、もうここに来ることもあまりないからか。
「誰にも言っていないけど、カナタくんとの出会いが大きかったんです」
「カナタ?」
「ええ。だから本当のきっかけは誰にも言っていないんです」
 そうだったのか。カナタは私に言えないことも滝君には話していたのかもしれない。
「それで卒論に、カナタくんとの日々を書けたらと思っていたんです」
「え」
 それは、きっかけとは別問題だ。
「カナタを教材にしたの?」
「教材だなんて」
「なら被験者」
「満月さん」
「カナタは役に立った?」
 こんな冷えた声が自分から出るとは思わなかった。怒りが湧いてくる。
「満月さん」
 立ち上がって、テーブルの上を片付けキッチンに向かう私を滝君の声が追う。
「ごめんなさい。でも最後まで聞いてくれませんか」
 蛇口から勢いよく水が出てシャンパングラスが割れそうに揺れた。シンクにどんどん水が溜まってゆき、その中にぼたぼたと落ちてゆくものがある。 滝君が横から腕を伸ばして蛇口を閉めた。
「泣かせてごめんなさい。本当にごめんなさい」
「泣いてなんかいない。被験者にされていたことが許せないだけよ」
「結論から言います。卒論にカナタくんのことは一切書きません」
 
☆☆☆
 
「満月ねえちゃん、聞いてた?」
 あの日の滝君とのやりとりを思いめぐらせているうちに、すっかりカナタと鳥海君の会話を聞き逃してしまっていた。
「ごめんなさい。えーと」
「んもー、タッキーが今から来るって!トリさんが駅へ迎えに行くんだけど、僕も乗っていっていいかな」
「でも軽トラは二人しか乗れないでしょう」いつのまにか俺から僕に戻っているカナタがかわいく見える。
「行きだけなの。僕を駅で降ろしたら、トリさんは一度林ファームに戻るんだって。仕事を片付けてまた来るって。だから僕がタッキーを駅で待ちたいんだ」
 カナタはスマートフォンをポケットに突っ込んだ。
「満月さん、滝君と落ちあうまで俺もちゃんと駅にいますから安心してください」
「ありがとう」
 
  ふたりが出て行ったあと、急に静かになった店内で、あさりの砂抜きをする。滝君が来るなら、閉店後にみんなで食べるものを作ろうと冷蔵庫と相談する。鳥海君からメッセージが入り、ふたりが無事合流したこと、宴会のお酒とつまみは買い出しに行くから無理しないでとある。
「鳥海君はいつも鳥海君だな」
 ふとヨルと目が合う。何か言いたげで、二階のドライフードがなくなっているかもしれないことに気づく。水槽の裏側に行くと、へそ天だったヨルがくるりと体をひねらせて飛び降り、誘うように階段を上っていった。
「あー、ごめんね。からっぽだったね」
 カラカラとドライフードを入れる途中から、ヨルがボウルに顔を突っ込んで食べる。
「がまんしていてくれたんだね」
 ちら、とヨルがこっちを見る。
「鳥海君が来たから?気を利かせてくれた?なーんてね」
 階下で、ドアが開く鈴の音がして、慌てて立ち上がる。
「いいかげん、好きだって言いなよ」
 ヨルに言われて「そんなわけにいかないでしょ」と階段を降りかける。
 
 あっ。
 
 返事をしてしまった。おそるおそる振り向くと、ヨルが目をまんまるにしてこちらを見ている。
 
 しまった。
 
<第八話 完>

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