「見せる」を使い分ける
“atelierくわの実”という名前で
知的に障害のある方々と
アート活動を始めて2年半
この間にいろんな場所
(カフェ・ホテル・ギフトショップ)で
展示会をさせてもらったり
アートを通じて
たくさんの方々との出会いがありました
障害のある当事者の皆さんにとっても
そのご家族にとっても
うれしい効果や影響が多いので
atelierくわの実を始めて
本当に良かったなと日々感じています、が
私には今もまだ迷っていることがあります
それは
「この作品は“障害”のある方々が描きました」
この言葉を彼らの作品と一緒に
「見せる」か「見せない」か
ただどうしても
どんなアーティストなのか
どうしてここに展示しているのか
そのことを説明するために
100%「見せない」ということは
今までできていません
それでも毎回毎回
「障害」というたった二文字の
インパクトの大きさに頭を抱えてしまうのです
それはなぜか
少し話がそれますが…
私は中学生の頃から
画集や写真集や詩集を見るのが好きでした
その中に自分の好きな作品を見つけたとき
それをお守りにするような気持ちで
購入して大事に手元に置いたり
見晴らしのいい場所に飾ったり
そして時には人に勧めたり、自慢したり
それは今でも同じ
アートが人にもたらす力は
「作品」そのものから発せられるもの
そんな風に思います
話を戻して…
昨年とあるイベントに
atelierくわの実として参加しました
このイベントは
県内外で活躍されているアーティストが
自分の作品をブースに並べて販売する
「アートイベント」
お客さまにはもちろん
福祉関係者はほとんどおらず
一般の方やたまたま立ち寄った観光客
そして同じく
イベントに参加しているアーティストの皆さん
そこでちょっとした実験をしてみました
「この作品は“障害”のある方々が描きました」
このセリフを言う言わないで何が変わるのか
結果
atelierくわの実のブースにいらしたお客さまの
「ブースに立ち止まる時間」と
「売り上げ」が全くちがいました
言わなかったときより言ったときの方が
ブースに立ち止まる時間が長く
(説明をしっかり聞いてくださる)
お買い求めになられるお客さまが
明らかに多かった
しかも
さらに観察していると
作品そのものを見ている時間は少なかった
ような気がします
つまり
私が先に書いた
アートが人にもたらす力は
「作品」そのものから発せられるもの
そうであるなら
この場合のお客さまは
そこに魅了されたわけではない
…のかもしれないなと
ではお客さまは
何に「対価」を支払ってくださったのか
それはやっぱり
「障害」に対して、なのかもしれません
もちろん
全てのお客さまにあてはまることではなく
作品そのものを気に入って
購入してくださった方もいらっしゃいます
そしてたとえ
「障害」に対して
対価を支払ってくださったとしても
それはお客さまの
彼らを応援する純粋な気持ち
そしてその対価は彼らが今後も
制作を続けるための資金になるし
何より
どんなに障害が重くても
自分なりに表現したその作品で
対価を得られる経験は
彼らの自信と社会参加に
確実につながっていきます
でも…でも、なんですよね
正直すっきりとした気持ちにはなりません
ここでもう一つエピソード
同じイベントでとある“美術関係者”の方が
atelierくわの実の説明を聞いて
こんなことをお話をされていました
(先に補足しますが決して嫌味ではなかったです)
障害のある方はいいですよね
その施設に行けば制作する環境が整えられていて
画材も全て用意されている
しかも描いた作品は自分で営業をしなくても
こうやって人の目につく場所に出してもらえる
芸術系の大学や専門学校を出た子たちは
卒業後からこれを全部自分でやらないといけない
制作に集中したくても
生活との両立が難しい場合も多いし
苦労している人がたくさんいる
そしてアーティストとして食べていけるのは
ほんの一握り
いい作品つくる人はたくさんいるんですけどね
「いい作品」
この“美術関係者”の方がおっしゃる
「いい作品」というのは
「美術的価値が高い」作品ということ
そしてやはり「障害」という言葉の
インパクトの大きさと社会的認識
またその言葉が冠につくだけで
受けられる恩恵があること
恐らくそういうことを意味していて
それは彼らの作品に
「美術的価値」が問われる以前の話
アートとは…
そう問われたような気持ちになりました
私がこの2年半迷っていることは
まさしくこのこと
彼らの作品は
まちがいなく彼ら自身の表現で
自由に楽しそうに
時にはこだわりを目一杯つめこみながら
制作されている様子を見ていると
彼らの生きざま自体が
アートそのものなんだと、日々思います
そしてそれは本来
障害のあるなしは関係なく
すべての表現者に当てはまること
そう思うのですが…もやもや…
もやもやもやもや…し続けて2年半
まだ何にも答えは出ていません
でもきっとこれは
明確に答えられる人の方が少ない
そうであるならば
私の中で一つ
今の時点でしっくりとくる
「最適な答え」を決めることにしました
「見せる」を使い分ける
アートに対して
多くの人が感じる無意識の敷居の高さは
美術的価値をはかるために
高い美術教育と専門性が必要である
そんな認識から来るものだと思います
「いい作品」なのに
その敷居の高さから見てもらえない
見てもらえないから知ってもらえない
そんな悪循環があるのだとしたら
その敷居をどうやって下げるか
自分にとってそんなに遠い話ではなく
共感しやすい「フィルター」を作品につけること
そうすれば見てもらえて
知られるようになる
知ってもらえれば
アートに対する敷居が少し下がって
より身近にアートを感じられるようになる
…ような気がします
そうだとすると
「障害」という言葉には
アートに対する間口を広げる役割が
あるのかもしれない
そして身近になったアートを通して
アーティストと鑑賞者がつながることで
「障害」について知るきっかけになれば
多様性…なんてわざわざ啓発しなくても
どんな人でも自然な形で
誰にも肯定も否定もされることなく
ただそこに「在る」ということを
理解できる人が増えるかもしれない
だからそういう意図を明確に持って
彼らの作品を展示しようと思ったときは
「この作品は“障害”のある方々が描きました」
この言葉をはっきり「見せる」選択をする
そう決めました
ただしその逆で
「障害」があることで
彼ら自身の価値が低く見積もられ
作品に対して適正な評価や価値が得られないとき
そのような時はやはり
「見せない」選択をし
美術的価値で評価を受けること
それも必要なことだと思います
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終わりに
障害のある方々にはそれぞれ
何かしらの生きづらさがある
でも障害がないとされる側にも
同じように生きづらさはある
それなのに
アートという分野において
その生きづらさに対する
社会的な関わり方のちがいが
逆に障害のある方々に対して
「いいよね」という言葉につながったこと
「ずるいよ」と言われることがあること
同じ土俵にいるはずなのに
そういう感覚だと思いますが
果たしてそうでしょうか
…そんなことを考え始めると
またもやもやもが止まらなくなりそうです笑
今の時点での「私にとって」の最適な答え
この答えをもって
またしばらく
atelierくわの実の活動を続けていきます
これからもいろんなアーティストの皆さんと
意見交換していきたいですね
ここまでの長文駄文
読んでくださった方ありがとうございました
この話題が気になった方
ぜひぜひatelierくわの実にいらしてくださいね