10代を振り返る。黒歴史を晒します。
私自身、
"見えない世界があって当たり前"の価値観と、
ある程度常識を守るけど、本質は自由でいたい。そんな雰囲気がある両親のいる家の長女として生まれました。
経済的にも恵まれていて、外から見れば何不自由ない良い暮らしだったと思います。
しかし、幼少期から他のお友達と自分は違うこと、常に生きづらさを感じながら生きていました。
"普通でいなければいけない"そんな風潮に、人とはかなり違う自分を抑え、しかし幼いながらコントロールの仕方も分からず、感覚が人とはズレてる分何が大人のいう正解かもわからずに本当に苦しかったのを覚えています。
幼稚園の時、伝説を作りました。
外で遊ぶ時間、園から脱走し、大騒ぎなったそうです。
娘が同じ幼稚園に入園したとき、当時の担任の先生に「大変だったんだよ」と言われました。笑
本当にご迷惑をおかけしました。。
幼稚園の近くの定食屋さんで保護され、幼稚園に戻されたのですが、
当時の小さい私は、家では自由に自分の好きな遊びができるのに、
幼稚園ではお友達に合わせて遊んだり、みんなと同じことをしなければいけないことがとにかく嫌だった記憶があります。
毎日幼稚園バスに乗りたくなくて、泣いてました。
幼稚園に行きたくないのだから、制服も着替えるのもイヤで親に怒られながら幼稚園に行ってたのを覚えてます。
小学3か4年生のころかな?
家から自転車で脱走しました。
リュックに服や時計、ゲームと少しのお小遣いを入れて。
ここでも大騒ぎになり、大人みんなで私のことを探され、隣の町で保護されました笑笑
なぜ脱走したかというと、親になにかで怒られたのをきっかけでしたが(内容は忘れた)、本心は自分の力で自由になりたかった。
旅や冒険をしてみたかったんです。
そんな自由な気質である私に悲劇が起こり始めます。
小学5.6年生の2年間、最悪の担任に当たってしまいます。
常に担任の顔色を伺い、怒られないようにがんばる日々だったのを覚えています。
担任の癪にさわるようなことをしたら必ず
「挽回しなさい!!」
言葉の意味が理解できなかったのですが、なんとなくわかったことは
マイナスをゼロか、プラスに担任の機嫌をとりなさい!ということだと思います。
毎日罪人のような気分でした。
それは私だけじゃなく、クラスの子みんなもだと思います。
みんな、うまくやれていました。
最初こそ難しかったものの、2年間もそんな牢獄のような生活なのですぐに慣れていってたと思います。
でも、私は普通の感覚がわからない。
かなり怒られていたのを今でも覚えてます。
印象的なエピソード、ひとつあげるとしたら、小学校卒業の作文を書く時。
当時ケータイ小説やギャル文字が流行っていて、私の中でブームでした。
ギャルお姉さん達が読む雑誌を買ってもらい、おしゃれやメイクに目覚め、そのひとつに文字の書き方もありました。
卒業の作文を、さすがに卒業だし、気づかないだろうと「と」の文字を、1画目の上の棒を2画目のカーブにつきさして書きました。
バレました。
犯罪者のように、みんなの前で酷く怒られました。
今思うと、担任の責任というものがあり、他の大人に間違った教育をしていないかと見られるのが怖かったんだと思います。
でもそんなこと知らないまだ12歳。
28歳になった今でもトラウマランキング上位です。(苦笑)
中学生になると、別の小学校の同級生も同じ中学校に通います。
私達の小学校の抑圧が酷い環境とは違く、そちらの小学校はかなり自由に教育されてたことを感じました。
そして、人間関係が変わると同時に
ひとつ終わるとまた新たな試練が来ます。
女社会というものは面倒なもので、目立つとよくない雰囲気で、入学したては目立たないように、自分を一切出さず、押し殺してました(笑)
抑圧された環境に長期間置かれてきた子ども達と、(ある程度)自由な環境に置かれた子ども達ではコミュニケーション能力が桁違いに違ったのをその時知りました。
すでに自分というものを見失い、他人の顔色を伺いながら自分を作ることを身についていた私は、心を開ける友達と違うクラスになり、馴染めずにいました。
同じ小学校出身の子達はうまく馴染んでいき
私は諦めが入り
もはや友達1人もいらないな。と思っていたのが出ていたのか、若干いじめられましたアセアセ
幼少期から絵や本を読むことが好きで、ピアノを習っていたし、完全に文系気質な私。
中学生になったら、吹奏楽部や美術部に入りたくてひとつの楽しみにしていましたが。
まさかの
\\\\運動部しか認めない ////
吹奏楽や美術ができないのは良い。
でも運動部に入って3年間耐えなければいけないだと…!?
運動なんてしたことない私にとって、最大のピンチでした。
もし、今自分の娘が同じ状況なら、病院へ連れていき喘息の診断書を書いてもらって、先生に相談し、部活に行かなくても良い口実を作ると思います。
でも、当時の価値観が完全に
"苦手なことをがんばり克服するのが正義"
とりあえずテニス部には入ったのですが、練習、本気で楽しくなく、おまけに全然できない(笑)
やる気がある子達と比べて私はやる気ないままイヤイヤやっていたので、できるわけないのですが、とにかく運動が嫌でした。
最初こそがんばろうとしましたが、怪我をして部活を休んでた期間があり、そこから本気で行きたくなくなり笑
途中から行くのをやめました。
当たり前に部活内では嫌われました。笑
中学2年生になり、成績が微妙になったのをきっかけに、家庭教師をつけられました。
最初はイヤイヤでしたが、その家庭教師と私との相性がよく
当時大学生の女の方で、英語が得意で海外へ定期的に行くような先生でした。
家庭教師の先生が、オーストラリアへ行き帰国したとき、いろんなお土産話を聞くことがありました。
そして、私の中でひとつ夢ができました。
"私も大人になったら海外へ行きたい"
人生で初めて夢というものができました。
当時の14歳の私の頭では、海外へ行ける仕事といったら、キャビンアテンダントでした。
私の夢は海外へ行くこと。
CAになりたいかって言われると、それは違うんですが当時の私からすると、本気でした。
そして自分の夢を家庭教師の先生に伝え、マンツーマンで英語を勉強しまくりました。
一緒に泣いて喜んでくれる家庭教師の先生のためにも必死にがんばった記憶があります。
徐々に成績も上がり、英語が好きになり始め、そろそろ進学先の高校について考えなければいけないというときでした。
14歳の冬、3.11を経験しました。
私の中での大きな転換期でした。
大人達が必死に守っていたもの、全てあっさり流されました。
家はもちろん、自営業だったので、仕事も流されました。
家の有り様をみて、ショックを受けていた祖父母。
少し違っていたら命すらなかったかもしれないのに、生きたくても生きられなかった大勢の人がいるこの状況下で、それでも“物質"に縋りつくのをみて
そんなものになんの価値がある?と心の中で思っていました。(とがってますねえ)
同時に、私の中で壊れ始めていったものがありました。
「人って簡単に死ぬんだ」
今まで自分を抑えて生きてきてたこと、普通になろうと気を張ってたこと。
今まで大人の言うことを聞こうとがんばっていたこと、全てバカバカしくなりました。
そして、大きな反抗期がきました。
夢も、がんばっていた勉強も全てやめました。
今までの反動がきて、親や大人が嫌がることを全てやりました。
大人の言うこと、学校のルールなんて無視。
がんばっていた勉強も門限も全て無視。
"自分らしさ"や"自由"を抑え付けられていた分、すべて解放させたかったのです。
今まで仲良くしていた友達からは、嫌われました。
でもどうでもよかった。
今までの私は
周りに嫌われないようにと"仮面を被っていた私"。
「前のなつきに戻って欲しい」
たくさんこんなこと言われました。
心の中で「うるさいな」と思う反面、
傷ついてました。
仮面を被った私を好きになられて、なんの意味がある?
ある意味本質をついていた15歳の頃の私。
でも、半分、いや8割は自暴自棄になってたかもしれません。
今となっては黒歴史のコレクションです(苦笑)
それでも、友達やってくれる人もいたので孤立はしていましたが、孤独にならずに済んでたこと。
とても感謝しています。
私もみんなも、未熟ながら必死だったなぁ(泣)
そして受験の時期がきました。
適当にしてた学校生活や勉強、最後の最後にがんばろうと決意しました。
とにかく今の状況から全てを変えたかった。
そのためには大人達のいう常識に乗らないといけません。
冬休み明け、最後の最後にあがきました。
家庭教師も再開し、勉強もしましたが、
違う先生になり、相性は合わなく最悪でした。
甘かった。
一度下がった成績はもう上がりません。
第一志望の高校には落ちました。
家から遠い第二希望の高校に受かりました。
でも今思うと、私は第一志望の高校に受からなくてよかったのかもしれない。
高校は、中学より自由でした。
人間関係が全て入れ替わり、全てが新しい環境。
(今でも仲良くしてる)友達もでき、たまにケンカしながらも学校が楽しかったのが印象的です。
友達と出掛けてプリクラ撮ってカラオケいくのが遊ぶ時のルーティンでした。
夏休みは髪の毛カラーしてエクステつけて
中学に比べて周りもそんなおしゃれな子が多かったので今まで思う存分できなかった分、本気で楽しみました。
バイトで稼いだお金は全て化粧品やカラコン、髪の毛カラー、エクステ、洋服代に消えてました。
小学生の頃から夢にみてたこと、ずっと人目を気にせず楽しみたかったことがようやくできて、本当に毎日幸せでした。
大好きな洋服のブランドもでき、新作ができると少ないバイト代を注ぎ込んでいました。
彼氏もできたりしましたが、その分失恋もたくさんしました。
今となっては全部"楽しかった"で終わらせられますが、当時は本気でした(笑)
クルーズブログを更新するのが好きでした。
クルーズブログ自体友達みんなやっていて、その中でも私は頻繁に更新してました(笑)
失恋記事や彼氏とのケンカも全て発信してました(爆笑)
もちろん鍵付きでアセアセ
その頃から文章をかくこと、自分の想いを発信することが好きでした。
普通の女子高生を楽しんでいた私。
ふつふつ湧き上がる想いがありました。
それは、"海外に行く夢"でした。
高2の英語の授業。
その頃、授業中はだれも真面目に先生の話を聞いている人なんていなく、みんなスマホでゲームしたり周りの席の人と話してたりしてました。
私だけ、先生の話を必死に聞きました。
(周りの人にうるさいちょっと静かにして!とかいってた笑笑)
私が海外へいくチャンスかもしれないと思ったからです。
震災にあった子ども達に向けて、コカコーラ社負担で特別にアメリカへ2週間招待するというなんとも太っ腹なプログラムの話でした。
私はすぐに応募しました。
参加するためには抽選で当たらなければいけない。
震災での経験、アメリカへ行って学びたいことなどを、作文にして提出しました。
合格しました。
人生で、こんなにも嬉しい瞬間があるのかというほど喜び、中学生からの夢が叶った瞬間です。
クルーズブログでの文才がここで発揮されました。
どうでもいいことでも彼氏とのケンカすらも赤裸々に頻繁に更新しててよかったー!笑
ここではアメリカでの経験は省きますが、SNS更新するのを忘れるくらい、楽しくて、間違いなく1番の思い出です。
ホームステイしたのですが、私の英語力が低すぎて最後の方は翻訳機と雰囲気でコミュニケーションをとっていました笑笑
アメリカではみんなでBBQするのが文化なホストマザーに、
普段日本では何をして遊ぶのか?と聞かれ、
カラオケとプリクラの説明が伝わらず苦戦し、そのとき初めてもっとちゃんと英語勉強しとけばよかったと思いました(笑)
一緒にアメリカへ行った日本人の友達ができたのも良い思い出です。
そのうちみんなで集まりたいなぁ。
言葉も通じず、文化も価値観も全て違う国でホームステイすることは、ホームシックになるのが普通だと思います。
でも私は帰りの飛行機、帰りたくなくて泣いてました(笑)
羽田空港に降り立ったとき、
すれ違う日本人の顔がみんな死んでいたことに気づきました。
アメリカ人はみんな楽観的で、笑顔でフレンドリーだったので
日本人の顔が死んでることのギャップに
18年間気づかずに暮らしていましたがその時初めて気づきました。
同時に、もしかしたら私自身も顔が死んでいるのかもしれない。
怖くなりました。
18歳ながら、顔が死んだ大人になりたくない。
でもどうしたらいいかわからない。
と、病みました(笑)
そんなこんなで楽しかった高校も卒業し、専門学校に入学しました。
ウェディング関係の専門学校に入ったのですが、なぜそこを選んだかというと
修学旅行がグアムなこと。
卒業したらウェディング会社に入社し、ハワイにも部署があるのでハワイに行けるかもしれないこと。
そこも、やはり目的は結婚式をすることではなく、"海外へ行くこと"でした。
入学して、当たり前に周りの子達は結婚式を作りたくて入ってきてるので、やる気の差にギャップを感じます。
"私は一体なにがしたいのだろう?"
完全に自分の本音を見失ってました。
ありがたいことに修学旅行でクラスのみんなとグアムに行き、楽しむこともでき、
みんなで結婚式を作るというイベントも、周りの子達とやる気の差は感じながらもなんだかんだ楽しめました。
資格も何個もとりました。
言われるがままだったので、なにをとったのか、何個資格を持ってるのか覚えてません(笑)
そして就活をし、1人で面接を受けに東京に新幹線で何度も行ったりしました。
面接を受けるものの、やっぱり私は会社で働きたいわけじゃない。
完全に迷路にハマってましたね。
そんなこんなで東京の会社に受かりました。
ひとりで上京して東京で働く。
私も、まわりのみんなもそうするのだと思っていました。
でも、私の本音に沿っていないのです。
東京に1人で行くことにはワクワクしました。
でも、東京の会社で新卒で働くことには魅力を感じなかったのです。
今まで学校生活もままならなかった私に、普通の会社員がつとまると思えません。
私は、卒業後内定を断り、関西へ行きました。
そして、関西で1度目の結婚、娘を産みました。
ここでもかなりの波乱があり、後に離婚して地元へ帰るのですが
ここで20代入ってしまうのでこの辺の話はまた続きを出します!
初めて10代のことを詳細に文章にしてみたのですが、割と平々凡々とは遠かったのではないでしょうか。笑
今思うと、10代の頃の友達からすると、かなりズレた感性を持っている私はかなり関わりづらかったと思います。
でも、当時若くて未熟で、勢いしかなかった私は自分ひとりで生きていると思い込んでたけど
今こうしてみて思うのは、
“常に周りに支えられて生きていたこと"
常識とは外れた行動し、周りからは反感しか買わなかったけど、その勢いのおかげで
得るものも多かったこと。
黒歴史が多いのはもちろんだけど、
アメリカへ行くときに書いた作文と、就活の時に書いた作文で
"私はやらないで後悔するよりやって後悔をしたい"
失敗を繰り返してきたからこそ出る言葉を
10代で知っていた私は、生まれてから本当に毎日失敗して成長したのだと感じます。
あ、ちなみにこの作文読んでもらった先生方や内定先の大人達には好評でした。✌︎('ω')✌︎笑
今では、あのとき、違う選択していたら今どんな生活をしていたのだろうと考える時があります。
でも、今なによりも大切な娘が3人いること。
これより幸せなことってないなと心から思います。
なつを