武士道入門7 神さまと武士道と日本人

『武士道』の2章で、新渡戸稲造さんは
「武士道の起源」を述べています。
 神道、仏教、儒教......ですね。

宗教学的で少し難しい問題ではあるのですが、
まずは神道、神さまの問題を考えてみましょう。
この「武士道に対する神道の影響」。
じつは「新渡戸稲造は、高く見積もり 過ぎている」とも言われます。
確かに、ちょっと誤解しているところもあるん ですね。

たとえば神社についての記述。 
「本殿に掲げられている一枚の素っ気な い鏡が、礼拝の対象となっていること がわかります。この鏡の存在は簡単に説明できます。それは人間の心を映し、 心が穏やかで澄み渡っているとき、鏡 は神の真の姿を映し出しているのです」

鏡というのは、古代日本で「神具」 として使われてきました。
たとえば、古墳から出土する鏡。

これは「三角縁神獣鏡」と名づけられ、卑弥呼が 中国から贈られたと言われます。 青銅製で裏面はつるつるなのですが、今の鏡のように、顔がキレイに映るということはありません。
ただ光を反射させることはできますから、太陽を象徴する神器として使われました。
そこで「太陽の神さま=アマテラスオオミカミ=天皇家の神さま」ということで、剣と玉を併せて「三種の神器」となり、とくに明治時代は国家神道の象徴として、これを祀る神社が増えていったわけです。

ただ、新渡戸さんは言及していませんが、何にでも神さまを見出す日本人。
鏡以外にもたくさんものが、神道のご神体となっています。
山、川、海、湖、木、石、狐や鳥などの動物、菅原道真や徳川家康のような 有名人......。
ようするに日本の神さまは、あまりにバラエティに富んでいて、つかみどこ ろがないのです。
ならば武士道や、日本人の倫理観に与えた影響も、あまりな いんじゃないか......。

果たしてそうでしょうか?
たとえば真夜中の信号機を考えてみてください。
車なんて来ないのに、日本 人には案外と律儀に、赤信号を守っている人がいます。海外ではこれ、考えられないことなんだそうですね。

 どうして日本人はそうするかといえば、誰も見ていなくても、どこかでお天道さんが、 人間が正しい行ないをしているかを見ているような気がするから。
この「お天道さん」というのは、別にキリスト教の神さまでもないし、天皇 でも殿さまでもありません。
なんとなく「私たちを見ている絶対存在」のようなものを、日本人はどこかに想定しているわけです。
これが「いたるところに神さまがいる」という、神道の発想なんでしょう。

実際、かつて武士たちが命を賭けて、己の役割を貫いたのも、また日本人が厳格に規律を守ろうとするのも、案外とこういった「お天道さんが決めたルール」を心に置いているからではないかと思っています。
もちろん、こうした日本人的な意識。
最近は少し薄れているのかもしれません。
しかしこの倫理観が、かつての「強い日本」、あるいは「尊敬される日本人」 をつくっていたとすれば、もう一度私たちは原点に返るべきなのかもしれませ んね。

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