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牛鬼

「さよう、この村は稀にみる平和な里でございました」
 甚内という老人は語り始めた。「あのようなものが、現れる前は——」
 村は荒廃していた。真っ昼間というのに、人の気配がない。通りを歩く者は一人も見当たらなかった。粗末な、掘立て小屋のような家々の間を、土埃を含んだ風が吹き抜けてゆく。
 立花佐乃助は主人の使いの途中であった。夕刻までに、懸想文を主人の妾の邸まで送り届けるという世にもくだらない使命を帯びていた。しかし——
「あのようなものとは、いかなるものか」
 好奇心を抑えきれず、佐之助は老人に尋ねた。
「牛鬼、でございます」
「うしおに、とな?」
「左様、牛の頭を持つ物の怪でございます」
 そんなものが世の中に実在するとは信じられない。佐乃助はかつがれているのだと思った。
「それが、如何なる災いを村にもたらすのだ」
「人をとって食らうのでございます」
「何と」
「彼奴のおかげで、村はこのありさま——」
 老人はもはや涙も枯れ果て、精魂尽きた様子である。「爺の話をお聞きになりますか」
「うむ。聞こう」
 佐之助は欠けた茶碗に入った水をごくりと飲んだ。旅の途中、ひどく喉が乾き、水を一杯所望しようと立ち寄った百姓家であった。そこでまさかこのような世にも不思議な話に遭遇するとは思いもよらぬ事だった。
「初めに食われたのは、乳飲み児を抱えた若夫婦でござりました」
 と老人は語り始めた。若い夫が、野良仕事から昼めしのために戻って来ると、牛鬼が家に上がりこんでいたというのである。そして、むしゃむしゃと何かを貪り食っていた。家の中には血の匂いが濃密に漂っている。夫は最初、何が起こっているのか分からず、茫然と土間に突っ立っていた。そのうちに、牛鬼のいる場所が、赤子を入れた籠を置いた辺りであるのに気が付いた。
「おのれ——」
 若い夫は夢中のうちに手にした鋤で牛鬼の背中を打ち据えていた。鋤は牛鬼の背中に突き刺さり、凄まじい咆哮があがった。そのまま牛鬼がふり向いた。鋭い牙がのぞく口元は血で真っ赤に染まり、そこから赤ん坊のものと思われる小さな足がわずかに出ていた。妖の顔は牙を除けば牛に似ていた。鬼よろしく角も目の上に二本生えていた。身体は巨大な蜘蛛のようである。そこから奇妙な形に折れ曲がった脚が六本、地面をしっかりと掴んでいた。足の先には鋭い爪。牛鬼は憎悪に満ちた両の眼で若い夫の顔を睨みつけた。
「この、化け物め」
 夫は牛鬼の背から鋤を引き抜くと、更に一撃を加えようとふりかぶった。しかし牛鬼の動きの方が早かった。ぴょん、と飛び上がり、空中で体の向きを変えた。そして次の跳躍で、夫の上に覆い被さった。土間に仰向けに倒れた夫の喉に鋭い牙をがぶりと突き立てる。夫は暫くの間手足をばたばたさせ暴れていたが、やがて動かなくなった。
「その様子を、いったい誰が見ていたのだ」
 佐乃助はふと浮かんだ疑問を老人にぶつけた。
「疑いはごもっともで。その惨たらしいさまは、物音を聞きつけた隣家の友造という親父が目撃してござった。友造は腰を抜かし、あまつさえ小便まで漏らし動けなくなってしまったのでございます」
「しかし、友造は助かった」
「左様。どうやら牛鬼は、若夫婦と赤子、三人を食い尽くし満腹になりましたようで、腰を抜かした友造には一瞥もくれず、その場を悠々と立ち去りましたのじゃ」
「なるほど。その友造なる者は、老人であるか」
「よくご存知で」
 甚内はすこし驚いたようだった。「まさか友造はあなた様の知己ではありますまいな」
「いやそれはない。牛鬼から見れば老人には食指が動かなかったのでは、ふとそう思っただけのことじゃ」
「確かに。友造は食っても旨そうには見えませぬな」
 甚内はにこりともせずに言った。しばし沈黙が流れた。
「これ迄の話には出てきておらぬが、嫁御はどうなったのじゃ」 
 沈黙を破ったのは、佐乃助だった。
「家の奥に骸がござった。腹、乳房など柔らかい部位を食われておりました」
 その後牛鬼は、月に一度か二度、気まぐれのように村に現れては人々を惨殺し、その肉体の一部を食っていくようになったのだという。村中が恐慌をきたした。しかし、離農、逃散は許されないことだった。その上牛鬼に立ち向かうような武器は誰一人所有してはいなかった。
「して、役人には届け出を致したのか」
 佐乃助は甚内に尋ねた。
「無論でございます。手前どもは牛鬼に立ち向かう手段など何ひとつありませぬゆえ」
 老人は声の調子を落とした。
「して、役人はどう申した」
「しばし待つがよい、訴えには順を追って対処するゆえ——」
「それでは埒が開かぬではないか」
「役人とは、そういうものでござりましょう」
 老人はそう言うと再び沈黙した。身体がひと回り小さく縮んだように見えた。
「すると、村の者どもは、ただ牛鬼に食われるのを待っている、そういう事であるのか」
「左様にござりまする。若い衆で、村から逃げ出した者どももおりましたが」
「その者どもはどうなったのじゃ」
「そういう時の役人どもの反応は驚くほど早いのでございます。一人残らず連れ戻され、罰を受けました」
「罰、とな」
「牛鬼が通りそうな村の出入り口に、繋がれたのでございます」
「なんと」
「その者どもは、尽く食われてしまいました」
「酷いことじゃ」
「私の倅もおったのです」
 老人は落涙した。暫くして顔を上げた。「さてお侍さま」
 佐乃助は身じろぎした。その顔があまりに絶望に満ち、凄絶だったからである。
「この爺の打ち明け話を耳にした今、いかがなさるおつもりか」
 そんなことを言われても困る、と佐乃助は思った。
「我らをお救い願えませぬか」
「それがしに牛鬼を退治せよ、と申されるか」
「左様」
「拙者、主人の使いの途中ゆえ、本日はそれは叶わぬ」
「そうでありましょうな」
 老人はため息を吐くように言った。その顔にはもはや絶望すら通り越した、深い諦めの色があった。
「水はご馳走になった。かたじけない」
 佐乃助は飲み干した茶碗を床に置くと腰を浮かせ、立ち上がった。「きっと再度立ち寄るゆえ、今日のところはこれにて失礼仕る」
 佐乃助は老人に軽く頭を下げ、百姓家を後にした。何となく後ろ髪を引かれる思いはあったが、主命を思い出しそれを振り払った。
 無論それ以来、佐乃助がその村を訪れることはなかった。牛鬼の噂はその後聞かない。村がどうなったかも、知ったことではなかった。

(了)

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