命が見えない食事
2023年4月に東京から海士町へ
年間でほぼ同じ食品が陳列されたスーパー
切り身の魚、部位別の肉
魚は西京漬けや塩味のついたものが多いので、生魚を買いたいときはちょっと離れたスーパーに行っていた
食材は材料であって、買いそろえる“もの”
魚や肉を食べるときに、命あったときの形を想像することもなかった
けど、それに違和感があった
海士町に来たら、その違和感が何か変わるかもしれないと思ったから来た
こういう自分の違和感を、端的に言葉で表現できないのがずっとひっかかっていたのが、ようやく昨日解消された(笑)
土井善晴先生のラジオを聴いていたときに、
「今の食卓では、命が見えない」って言葉が耳に入った
誰かの言葉を引用しているみたいなことを言っていたが、この言葉がすごくしっくりきた
自分の違和感を端的に表現したら、
命があるのに(あったのに)、命が見えない食事になっている
ってことだったんだってようやく(笑)
ここへ来てすぐのときに今の自分と、1年後の自分を書道で書いたのを思い出した
今の自分「材料」
1年後の自分「命結」(食物連鎖で命と命が結ばれていくイメージだった)
言いたいことは同じなんだけど、わかりやすい表現とは違う
自分の中のもやもやを、誰にでも伝わるような言葉で表現するって難しい..
けどすっきりした(笑)
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