父のこと
娘が「お父さーん」と言って、特に理由もなく僕に嬉しそうに抱きついてくる。子どもという生き物は、気まぐれにこういう行動をする。ふと、自分がこんな風に最後に父親を抱きしめたのはいつのことだったんだろうか、なんてことを考える。おそらくそんな無邪気な行動ができたのは、小学生の低学年くらいまでだったと思うけれど記憶は定かではない。その時、父さんはどんな顔をしていたんだろうか。残念ながら僕の脳みそはその当時のことをカケラも覚えていない。きっと娘は僕と同じように大人になったら、このことを忘れてしまうんだろうな。そんなことを思いながら、僕は笑って子どもにハグをする。
ただし記憶がない中での推測の話になるが、子どもの僕が何の気なしに抱きついた時、父さんはきっと笑ってくれていたと思う。今の僕が子どもにそうしているように。
◇
今年の3月に父親が亡くなった。至極当たり前のことだけれど、これから自分の人生に父さんのいない日々が始まるんだなということに気づく。今まで父さんが存在している人生しか送ってこなかったのに、これからは彼のいない人生が当たり前になっていく。既に結婚して別の家庭を持っている身としては何がどう変わる訳じゃないけれど、なんとも形容し難い感情があった。正直なところ父親がいようがいまいが変わらないと思っていた一方で、いざいないとなるとそれはそれで堪えるものだったりする。
そういう意味で父親という存在はなんだか不思議なもんだなあ、思ったりする。歳を重ねて自分自身が二人の娘を持つ父親になったが、実際のところ父親がなんだかよくわかっていない。いまいち僕が『父親』であるという事実にしっくりときていなかったりもする。サザエさんみたいな家父長制なんて死語になって久しいし、腹を痛めて子どもを産んだ訳でもなく、仕事にかまけて育児も妻に任せてばかりの僕は本当の意味で父親になれているか、という問題がある。僕が子供だった頃は、父さんも40代で今の僕と同じくらいの年齢だった。彼も同じ思いを抱えていたりしたのだろうかと、父親と自分を重ね合わせてみたりする。でも、僕にとって幼い頃から父さんはずっと『父親』で父親以外の何者でもなかった。
◇
父親が危篤になった時のことを今でも時折思い出す。もう手の施しようがないという最終宣告を医師から受けた時のこと。風邪で市内の病院に入院していた父親の病状が悪化したため、大病院に転院することになった。それと同時に僕と母は病院に呼ばれた。病状が悪くなったと聞いてはいたが、ただの転院だと思って僕はあまり大事には捉えていなかった。処置室に通され、担当する医師が僕と母に名乗ったあとでほんの一瞬顔をしかめた。どう説明しようかなと迷うような顔。その顔を見るまでは、治療方針と入院期間を説明してくれるものだと呑気に考えていた。おいおいそんな顔しないでくれよ冗談じゃない、と思った。
そして父さんは危篤となっており、もう回復する見込はなく緩やかに死を待つのみである。そう、医師は告げた。体中に血栓ができており体の末端は既に壊死している部分がある。外科的及び内科的に何パターンか対応する方法はなくはないが、体の負担を考えると現実的には厳しいとのことだった。言葉には出さなかったが「もう諦めて下さい」ということだ。
あまりに急なことで僕は何も言うことができずに、物分かり良く頷いた。専門家が父親の体を調べあげたうえでそう判断しているんであれば、素人が口を挟む余地はない。でも、心の中は色々な感情が渦巻く。『なんでだよ。どうして助けてくれないんだよ』『俺の親父だよ? あんた自分の親父が同じ状況でも同じこというのかよ?』『もっとなんか他に方法はないのか? そんな簡単に諦めるわけ? ちゃんと考えてほんとに言ってんの?』『俺の親父を医者の仕事のルーティンワークの一貫みたいに扱うんじゃねえよ』 グルグルと暗い思考がまわると同時に血の気がひいてきて、まるで背骨が氷になったように全身を悪寒が走った。
◇
治療室に入ると父親はぐったりとベッドに横たわっていて、意識は朦朧としているようだった。おそらく耳の機能は生きているから、なにか話しかけてみてくださいと医師は言っていた。本当に声は届くのだろうか。なんと声をかければ良いのだろうか、僕は彼になんと話かければいいのかよくわからなかった。
「父さん、来たよ」
絞り出せたのはそんな言葉で、意味なんてよくわからなかった。なんて話しかければ良かったのだろうか。頑張ってといっても、もう彼は快復しようがないのだ。僕はかけるべき言葉が全く見つからなかった。
「父さん、俺、来たよ」
もう一度言った。なんだか変だ。もっといい言葉をかけてあげたい。という思いもありながら、何も思いつかない。頭は上手く回っていない。ここでは「ありがとう」というのが正しいのか? でも、そんなの本当に死んでしまうことを僕が受け入れてしまったみたいじゃないか。
「父さん」
声をかけ続ける。父親の耳をこんなに間近に見たのはいつ頃だったろうか。耳たぶが大きく垂れ下がっていて、顔周りの皮膚はカサカサしている。子どものころの僕に色んなことを教えてくれた父さんはもういなくて、これは年老いて病んでいる老人だ。
父親の手はやけに大きくてゴツゴツしていて、なんだか岩石みたいだなあと子どもの頃に思っていた。そんな父親の手は血流が悪くなって、今はパンパンに腫れ上がっていた。
呼びかけ続けたが、父さんの反応はない。声はちゃんと届いているのだろうか。よくわからなかった。
◇
僕の呼びかけに応えてくれた、というほど美談にする気はないが、一時の危篤状態になってから数日を経て、父さんの病状は少し良くなった。ただし、意識は戻らなかったので会話をすることはできなかった。父さんは頑張ってくれたが、その二週間後に亡くなった。万が一で奇跡が起きて退院してくれないかとも思ったが、一万分の一を引き当てることは出来なかった。
見舞いには何度か行ったが、弱っている父親を見るのはただただ辛かった。彼はもう死を待つだけで、何もすることができないのだ。点滴を受ける彼を見ながら、人生で最後食べたものは何だっただろうとか、風呂に最後にゆっくり入れたのはいつだっただろうか、最後に歩けたのはいつだったろう、とか。そういったことが人生の最後になると彼は意識出来なかっただろうな、とかそんなことをつらつらと考えた。
僕が父さんと最後に会話をしたのはなんだったろう?とも考えたがよく覚えていない。一緒にご飯を食べたときに、テレビ台の端に置いてあるピルケースを指さして「薬取って」という父さんの言葉に僕が「うん」と返したくらいだったような気もする。もしくは「先に寝ます」と言った父さんに「おやすみ」と声を掛けたのが最後だったかもしれない。最後の会話にしてはあまりに素っ気なさすぎて寂しい気もするが、一般的にはそんなもんなのかもしれない。
◇
少し横道に脱線させて欲しい。
子どもはよく覚えているが、親は全く覚えていない思い出話というものがある。まあ逆もまた然り、ではあるが。親の何気ない一言で勇気づけられたり、トラウマになったりするというのはどこの家庭でも起きていることだ。
僕が中学生くらいの時に、父さんがゲームの展示会に連れて行ってくれたことがある。そういう場所に行った機会はほぼなくて、僕はすごく興奮して色々なゲームで遊びまわった。今でもその当時のことは覚えていて、忙しい中で連れて行ってくれた父さんに感謝しているが、多分晩年の父さんは全く覚えてなかっただろうなと思う。
色々なブースに行って遊び回った僕は、休憩していた父さんと合流した。父親はポツンと立って待っていてくれた事を覚えている。「どうだった?」と問われて「面白かった」みたいなやり取りを多分したと思う。こんなにゲームがいっぱいあって楽しいのに、父さんはそんなに面白くないって不思議だなあ、と感じたことを覚えている。それ以降で父親と二人きりでどこかに出かけた記憶はあまりない。これが僕の子ども時代の終わりの話。
そんな風に振り返ると、父さんはいつもどこかで、僕のことを待ってくれていたような気がしている。だから僕は父さんに「来たよ」と言ったのかもしれない。あとからの辻褄合わせと言われて否定はできないけど、父さんが亡くなってから考えるとそんな気もする。あの時に「来たよ」と呼びかけたのは正解だったのだ、そういうことにしておこう。
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終わりよければ全てよしではあるが、特にエピソードとしてオチになるようなことはなく、無事に葬儀を終えて今に至る。身内の死を文章のネタとして消費するのは個人的にはあまり好ましいことではないと思いつつも、俺の父親が生きた証の記録として誰かに読んでもらうことは、父さんにとって悪いことではないかもと思って筆を取った。
本当の死とは何か? という問いに対する回答として、それは人から忘れ去られた時である。というのはワンピースだったり、ネイティブ・アメリカンの諺だったり、トーマの心臓だったりするらしいけれど、僕は僕が死んだあとになっても父に生きてもらいたいのだ。この文書を読んだ誰かの人生において、僕の父親が存在したという欠片が少しでも生きてくれれば良い。そういうことにしておく。
そして、僕が父さんに人生で最も言いたくなかった言葉で締めたいと思う。
「さようなら父さん。ありがとう。」