引き摺り出され暴かれる、キミも知らないキミ自身
私と旦那は籍を入れずに「事実婚」をしている。このまま彼と付き合えば別れることもないだろうな〜とボンヤリ思ってたので、交際3日目にして、結婚しようか〜子どもをつくろうか〜という話をすでにしていたものの、交際スタートからコロナ時代に速攻で突入したこともあって、それどころではないというか、なかなか日取りの踏ん切りがつかなかった。
たまたま親友のすすめで占星術をしてもらったときに、「2022年1月11日は、吉日が3つ重なった最強に運のいい日です」「(顔を見合わせて)……じゃあその日にします。」と"エイヤ"で決めてしまった。ちなみにこの日は、ほかにも法人設立日にしていたり、結婚記念日にしている友人がめちゃくちゃ多くて、それもなんだか楽しい雰囲気だなと、気に入ってる。
ちなみに事実婚にした理由は、私が「日本には選択的夫婦別姓制度(苗字を変えずに籍を入れられる制度)がないけど、それにいま一番近い制度の事実婚とかパートナーシップ制度で生きてみたらどうなるのか、実験したい」と言ったから。あと単純に、ただでさえ事務手続きニガテ人間なのに、身分証明書の苗字をすべて変える…と考えただけで気が遠くなった。私たちはまだ若いのもあって(旦那は2つ歳下)、いまのところ困ったりはしていない。
ただ、事実婚の取り扱いが市町村レベルで異なっていることにびっくりしてしまった。住民票に夫(未届)、妻(未届)と記載したものがいちおう公的書類にできるとの認識でいたのだけれど、「未届の記載は、けっこう前に廃止しちゃったんです」と結婚予定日のなんと前日くらいに明らかになった。
「私たちが結婚していることを証明するものが、社会的になにもないんだ」と、泣いてしまった。
(無意識にマジョリティ側にいた自分が、この時初めて、社会的な定義や立場がないことへの心細さを実感した貴重な経験になった。)
実際には、パートナーシップ制度ができる前からよく発行されていた、「公正証書」を取得するということもできるんだけども。住民票の世帯主が旦那になってるくらいで、基本的に何もないので、結婚しています、嫁です旦那です、とただただ「宣言しているだけ」とも言える。
……と、いう経緯をふたりで行くイタリアンのお店のママさんにぽろっと打ち明けたところ、完全なるサプライズで、デコペンで誓いの言葉を書いたデザートプレートを持ってきてくれて。「せめてこのプレートが何か形に残る思い出になれば」と、血が滲むようにあたたかい言葉を添えてくれた。その人情味にまた泣かされてしまって、目が腫れまくったまま写真に映る羽目に。
私はちなみに結婚式とかドレス着るとかに執着がなくて、思い出のホテル・東京マリオットにて両家顔合わせをセッティングしたくらいで、きれいな写真すら撮影していない。サプライズプレートを持っているふたりの写真が結婚写真でいいんじゃないかな、とすら思っているほど。(ちゃんと撮った方が親戚のためなんだろうけど…資金までいただいているのにホント先延ばしにしててすみません…)
ただ、結婚式とかしたいかどうかも、結婚相手によって変わるんだろうな。「結婚したという事実を見せて興奮したい」「こんなにタキシードでピシッとしてるのに普段の性生活はグチョグチョなんだよね、ゲヘヘ」とか、脳内のオカズとしてタシにしたくなったら、たぶん結婚披露宴とかしたくなるんだと思う。結婚相手のことを、結婚式というものを通して客体化したくなる動機があれば、私はやりたい、と言うんだと思うけど。
あとでちゃんと書くけど、私にとって旦那は「私だけが真の輝きを知っている原石」みたいにとらえて興奮する存在だから、むしろ、クローズド感のある客体化がされていたほうが、自分としてはメリットがあるんですよね。
何を言ってるか意味不明かもしれないけど、要するに、私は好きな男をいかにして美味しく味わうか、しか考えてない変態です。自分が承認されることすら、帰結としては男を味わうためなので、自分だけに注がれるまなざしは、わりとどうでもいいんですよね…..
あとウチらはそもそも、「ハレ」への投資にやや消極的。ただただ生活を送っているだけだとお互いの輪郭がぼやけて"当たり前"になるのは薄々分かっているので、ある程度 "他人であること" "有り難さ"を再認識するため、メリハリとかイベントごとをやるのは大事なことだと思ってて。
だからこそ、誕生日や記念日にはめかしこんでディナーに行ったり、ラグジュアリーホテルに滞在したり、仕事でひと区切りがついたときには、ちょっといいお酒で乾杯したちもするんだけども。で、そういうことすると、やっぱりカップルっぽいっていうか、ちょっと嬉しい自分もいて。
ただ、結婚式もバレンタインもクリスマスもやってないのは、「イベントにお金を使うなら、日常生活を底上げする資金に回して、おいしいもの食べるようにしよう」が共通認識だから。たぶん、費用対効果をわりとドライに計算してるふたりなんだと思う。笑
交際当初は、お互いにPC一台あれば仕事ができるいわゆるノマドフリーランスだったので、付き合ってすぐに、タイにワーケーションしに行こうか〜、初めてのふたり海外旅行だ〜、なんて盛り上がっていたものの。速攻でコロナ時代に突入し、「どういう病気かもわからないし、いま外に出るのはやめとこう」と話し合い、予約していた飛行機はキャンセルがきかず全額支払いのまま泣く泣く渡航をあきらめたのだ。
でもちゃんと非常事態に話し合いができ、過ぎた損失をクヨクヨしない旦那に頼もしさを感じて「この人となら大丈夫そうだな」と確信したいいきっかけになった。覚えておいて、ピンチはチャンスっ!!
そこからまるっと3年経ったけど、いまだに海外旅行は実現してない。海外のトレイルランに今年こそは一緒に行けたらいいねって話しているけど、お互いまあまあ忙しくしてるので、腰をあげるにはそれなりの覚悟が必要かも…
で、そろそろテーマの本題に入るのですが(いつも前置きが長くなりすぎる)、ここ最近で一番、人生を変えてくれた文章がある。日本でおそらく一番有名なジェンダー・社会学者の上野千鶴子さんと、社会学者古市憲寿さんが対話した、BRUTUSの企画記事だった。よかったらぜひ読んでみてほしい。↓
恋とは何か?上野千鶴子×古市憲寿「恋は人間の根源的な欲求なのです」
恋とは人間としての飽くなき好奇心であるという上野さんと、自分や他人を知る手段として恋愛を特権的な位置には置かない…と主張する古市さん。ふたりの立場がまるきり反対なので、議論がドンドン深まっていき、「恋ってなんだろう」の輪郭があぶりだされてくる、スゴイ対談でした。
自分を表面的に定義する言葉があふれかえっている現代では、もしかしたら他人に向かおうとする欲求は減るかもしれない(いわゆる草食系)。でも、血の滲むような高揚感や痛みの実感をともなって「知りたい!」、そんな欲求は変わらずにあって、むしろ抑圧されがちなんじゃないかなって思っているんだけど…
そういう意味では、交際当初の旦那は「ぜんぜん踏み込んでこないし、踏み込ませない」人だった。こんなにエゴが見えない人は初めてだった。雄大な自然の中に溶け込んでいるときが彼の精神的な絶頂。共通の知り合いも「どうしたら彼のように育つんだ」とか「悟りすぎている」とか「妖精(わかる)」とか、達観している雰囲気が評判でした。
でも私は、彼の中の中の中の中の、何層も掻き分けていった先に、空気に触れさせたことすらないのでは…と感じるほどに、むきだしの敏感な神経が息づいている気配をそれとなく感じていたんです。本当は、誰よりも感じやすく、繊細なんじゃないかなって。だれも立ち入ったことのない深い森の奥で、キラキラした純粋な湧き水の池を見つけてしまったような感覚でした。深い雪山に住む、美しくて、気高くて、人に心を許さない真っ白な生き物みたいだなと感じたこともあります。
これを年上の男の子に話した時に、「じゃあ、えりは、原石を見つけたような気持ちになったんだね」と言われたことがあるのですが、まさにそんな感じでした。真実はどうだか知りませんが、私はいまだにそんな感覚で彼と接しています。(ヘンな女に捕まってしまった旦那には、ドンマイとしか言いようがない)
私自身も、旦那への距離感を間違えて、ズカズカと踏み込んで行こうとして、拒絶されました。セックスのときに、いやだー!と、体を丸めて防御されたこともあります。(いまでもこうして思い出すだけで申し訳なさで涙が出ます。) ほんとにひどかったな、私。交際期間の半分以上は、セックスのない期間でした。
セックスレス「される側」というと、なんだか「レスにする側」が悪いみたいですが、セックスレスぅ〜〜!という形式的な言葉で判断するんじゃなくて、ふたりの人としての在り方とか、関係の距離感で総合的に考えてみてほしい。カップルだからセックスして当たり前、ではないということ。そんなふうに当たり前扱いしてくるヤツとは、そりゃしたくないわな。
セックスは身も心もお互いにズカズカと踏み込んでいく行為であり、精神的・物理的な距離感を間違えると、距離を置かざるをえないこともあるんです。そう、カップル間でも(カップル間だからこそ)簡単にレイプは起こります。だから私は、旦那に「今までレイプをしていたと思う。ごめんなさい。」と謝罪をしたことがあります。
交際期間が長くなり、だんだんと私と旦那は適切な距離感を保てるようになりました。安心安全領域が広がってきたことにより、旦那も少しずつ心を許してきてくれて、それは精神的にも物理的にも、すごく実感していることでもあります。交際当初からは考えられないような、別人レベルのコミュニケーションをお互いにしていると思っています。阿吽の呼吸もできてきました。
私が旦那と物理的な距離を保てているのは、性的な関係を婚外にもっていることも大きいです。結婚してセックスレス期間を経たことがきっかけで、「ああセックスが好きなんだな、結婚しているからと言って、人を好きになることは全然あるな」と気がついたので、なんというか、対応に迫られました。
旦那とは性生活について何度も話し合いを重ねてきましたが、「性欲をすべて自分が責任持つことはできないし、誰かとセックスしててもそれ自体は気にしない。教えてくれなくていいから自由にしたらいい」「発信する内容も任せる」と言ってくれていることもあり、お言葉に甘えて好きにしています。(これを友人に言うと、旦那はなんて器が大きい菩薩なんだと口を揃えて言うけど、私もマジですごいなと思ってる)
ただ、彼氏を作るのはイヤだな、と言われたのですが、セックスパートナーと、体だけね〜〜とセフレとして割り切る感覚があんまりなく、そもそも割り切れるような相手に自分の大切な体を委ねたいとも思えません。私にとって、相手をもっと知りたいという好奇心の延長線上に、セックスという選択肢が自然にあります。関係値をまるごと味わえる象徴としてセックスが好きなんだろうな。
生き様(イキざま)が魅力的な相手とは、恋人同士であると思っていて、大切なご縁です。そこは、旦那には約束守れなくてごめんと思うけど、自分の感覚を優先しています。だから、ずるい部分もあるし、綺麗にできることばかりじゃないなとも思う。
恋人からは、私が家庭を大切にしていることに理解をしてもらいつつも、それでも結婚がしたいと言われることもあって、そのたびに、傷つけてるんだなと心が痛くなるし、ああ私たちは社会的な動物なんだ、そこから目を背けることはできないなと思い知らされる。
「もうだれかを好きになる可能性は金輪際、捨てるんじゃ!と覚悟を決めない私のような人間は、そもそも結婚という構造は採用しちゃいけないんじゃないか」「本来はオープンでフラットなはずの人間関係に、わざわざコントラストをつけるような制度は持ち込まない方がいいんじゃないか…」「私のように、複数恋愛がOKな当事者たちだけで、恋愛関係を築いた方がいいんじゃないだろうか」と、いまでもずっと悩んでいるし、揺れ動き続けています。
グレーのなかのグレーを爆進しているので、いまだにはっきり白黒つけられないんだけど。ただやっぱり、「なんとかして旦那と一緒に人生をやっていこうとする覚悟」この軸が、いまのかたちをつくりあげているのは確かです。この覚悟が、ある意味で私を引っ張ってきてる。なんとか振り落とされまいとして、わたしも知らない私自身が引き摺り出され、暴かれ、いままで予想もしなかったところに連れてこられているなと思う。
だから、結論としては、真剣に人と関係を作ろうとしてみるのって、やっぱり面白いんじゃないかなぁ、ってこと。自分という人間ひとりにも、相手という人間ひとりにも、まるで底が見えない。時代もどんどん変わって、関係もどんどん変わっていくし。面倒くさいのかもしれないけど、やっぱりその面倒くささの先にしか、見えない景色(しかも今の自分からは予想のできない景色)はあると思うのです。
わたしのSNSは旦那も両親も(きっと)義両親も恋人も旦那との共通の知り合いもみてくれているので、世間的なジョーシキから逸脱することの多かったここ数年の試行錯誤については、もはや封印しようとすら考えていました。
ただ、自分が悩みに悩んで超苦しかった分、「こういう人もいるんだな」っていう安心材料って貴重だなと思ったんです。
私の送っている生活がどう判断されるかはもうあまり気にしてませんが、ただただ、自分の言葉で自分の人生を送れる人が増えたらいいな、というのが私の願いです。
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