「わたしは足りない存在である」という病。
なぜ私は、ランチを一緒にした相手に「おごろうとする」のか。
なぜ私は、夜寝ることなく、ずっと起きて作業していたいと思うのか。
なぜ私は、月末に支出のしすぎで支払い金額に焦ることがあるのか。
なぜ私は、いつも時間に追われている感覚とともに生きているのか。
「足りない」
そう、ひたすらに「自分はまだ足りない」と感じているのだ。
だから、"足りない" と思わせられるような現実が
繰り返し、繰り返し、やってくるのだ。
2024年は自己探究に明け暮れた年だったと思う。
大義名分としては、カウンセラーがどれだけ自己理解を深める術を持っているかが、そのままクライアントとのカウンセリングの深さになると思っているからだ。
ただでも、とにかく、人のことを傾聴する前にまだまだ自分のことを全然知らないなと実感していたし、自分が「こうしたい」と意図したことが形になっている実感もなく、空回り気味だった。
ならもっと自己理解を深めてみよう、下半期からそんなテーマを胸に抱えていた。
9月にヴィパッサナー瞑想合宿に参加したことは、人生の大きな転機になったと思う。
ヴィパッサナー瞑想は、宗派は関係なく、2500年前にブッダという人が悟りを開くためにひたすら繰り返した瞑想法だ。
ブッダは、学びには3種類あると説いた。
言葉による学び、経験による学び、身体感覚で得る学び。
言葉は教科書を読むだけ。経験は実体験に基づいた生きた学び。
そして身体感覚による学びは、「ハッッッ、そうか。」と、体から先に "わからされる" ようなもので、一生刻み込まれて腑に落ちていくもの。
ヴィパッサナー瞑想による学びは、身体感覚が先に立つので、「うわあああそういうことかあああああああうああああ」
と、あとから気づきが追いついてくる。
私にとって一番衝撃だったのは、わたしは"焦り" の感覚をいつもみぞおちあたりに抱えて生きてきた、と気付かされたことだった。
ほぼ無意識になるくらいにうっすらと、でも慢性的に、みぞおちがキューッと締め付けられているような感覚があるのだ。でもそれは毎日当たり前の感覚になっていたので、もう気が付けなかった。
瞑想合宿3日目くらいに、みぞおちが爆発しそうなくらいの吐き気になって、一気に顕在化したのだ。
この身体感覚を感じきったので、いったんは無くすことができた。
私は「焦り」という「感じ」を抱えているということは発見できたが、でも、この「感じ」を生み出しているのは一体なんだろう?
その原因はわからないままだった。
「私の中の、なにが、焦りを生み出し続けているんだろう…」
その後、いくつかセルフカウンセリングを学び続けるうちに、
冒頭の現象が「なぜ」起きるのか、何度も何度も自分に問いかけた。
もう言葉が出てこないだろう、と諦めかけたそのとき、10度目の「なぜ」で、ふと
「足りない」
という言葉が絞り出された。
その瞬間、納得感がじわりと胸に満ちた。
なぜ私は、ランチを一緒にした相手に「おごろうとする」のか。
私とランチをしても、価値のある時間だったと思ってもらえないだろうから。私は足りない。
なぜ私は、夜寝ることなく、ずっと起きて作業していたいと思うのか。
時間をかけてもかけても、価値のあるコンテンツが生み出しきれないから。私は足りない。
なぜ私は、月末に支出のしすぎで支払い金額に焦ることがあるのか。
ギリギリになるくらい、自己投資しないと成長できないからだ。私は足りない。
なぜ私は、いつも時間に追われている感覚とともに生きているのか。24時間は私には短い。なぜなら私は足りない。
人生で起こるさまざまな現象が、「私は足りない」をベースに起こっていることに気がついたのだ。
「足りない」この言葉に出会えたとき、ああ、やっぱりなと感じた。
"ありのままで生きて愛されていい" と、はっきり実感できたことはあまりなく、幼少期に実感しにくい感覚だった。いじめ経験もあったのでなおさらだったと思う。
そこで私は、自分の感覚を守るために「まだ足りないから仕方ない」というプログラミングを行ったのだ。
そうすれば、自分自身の心を「まだ完全じゃないから認められなくて当然。いつかは認められる。」と、その場は守ることができるからだ。
ただ、自分自身を愛して、そして、自分以上に自分を愛してくれる存在に囲まれている今、(そう気づけるようになった今、)
そのプログラムはデータが古くなっているものである。
そしてまた、「役に立つ人になるために頑張ろう」という方向に自分をもっていこうとした私は、心の底では他人思いで、愛情深いのではないかなと労ってあげたい気持ちにもなっている。
もう、大丈夫だよ。
こうして私は、プログラミングをそっと書き換える。
今まで自分を守ってくれてありがとう、
ここに連れてきてくれてありがとう、と感謝しながら。
この作業は、AIにも誰にも任せられない。
自分で気づいて、自分の心と手で、やるしかないのである。
それはこれからもずっと同じだろう。
自分が感じることは、自分で選んでいく。
その責任がわたしにはある。
それは本来、とても自由なことなのだろう。
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