魔源郷 第22話「化け物」(1)
エールには、娘が死んだとしか思えなかった。
今、目の前で遊んでいる黒髪の子供。
「お父さん。」
呼ばれても、返事もせず、エールはただじっとその子供を見た。
「お父さん。どうしたの?何か悲しいことがあったの?」
「…アリス…。」
「ねえ、どうしたの?お父さんがそんな顔してると、あたしも悲しいよ。」
アリスは悲しそうな顔でエールを見た。
「あたしのこの姿が気に入らないのね?でも、あたしはあたしよ。姿は変わっても、あたしはアリスなのよ。」
「アリス…お前はどこへ行ってしまったんだ…。」
エールの目は、目の前のアリスを通り越して、あらぬ所をぼんやりと見つめていた。
「お父さん…あたしはここにいるわ。」
しかし、エールはアリスに答えようともせず、ただぼうっとしていた。
「お父さん…。」
アリスがどんなに話しかけても、笑いかけても、父親のエールは無関心だった。
ただ「アリス」と呟いて空を眺めるだけ。
そんな日々が続いた。
ある日のことだった。
アリスは、ビールとエールが二人で話しているのを物陰から見ていた。
「いい加減、慣れることだ。あれは、間違いなくお前の娘だ。姿は違ってもな。何故、受け入れない?ここ数週間でお前は随分とやつれたな。せっかく娘が生き延びたというのに、お前が死ぬようなことにでもなったらどうする。」
「兄さん…。どうしても受け入れられないんだ。僕には、あの姿が…、綺麗なアリスの遺体が目に焼き付いて…。」
「あれはただの肉体だ。精神は今も生きている。何故それを信じようとしないのだ。大切なのは、魂だ。目の前の姿形に騙されるな。お前には物事の本質を見抜くことが出来ないようだな。」
「それは違うよ。体と心は同じだ。切り離して考えることは出来ないよ。アリスはあの姿と心があってこそ、アリスなんだ。僕の娘なんだ。今生きているあの子は別人だ。僕にはあの子を愛せない。」
それを聞いて、アリスの心に冷たい刃が刺さるようだった。
(お父さん…。)
生まれ変わったアリスには、父親の記憶が途切れ途切れに戻ってきていた。そして、父親への愛情が生まれていた。可愛がってほしかった。
しかし、どんなに求めても、エールは構ってくれなかった。エールの心には、別の「アリス」が既に住みついて離れなかった。
(あたしは何なんだろう…?)
アリスの心は孤独感に満ち溢れた。
心が壊れるような思い。
痛い。悲しい。
アリスは、小さな体を丸めて、静かに泣き出した。
泣いているうちに、胸の奥が熱くなってきた。
そして、意識が遠のいていった。
廃墟。目覚めたアリスの周りは滅茶苦茶だった。
人間の死体が幾つも倒れていた。
何が起こったのか。
「寒い…。」
気が付くと、アリスは裸だった。
何も思い出せない。
「ア…アリス…。」
名を呼ぶ声がした。その方へ行ってみると、一人の人間が倒れていた。体はぐしゃぐしゃに潰れていた。
「お父さん!!」
エールだった。エールは、アリスに向かって、手を伸ばしてきた。
「…やはりお前は…アリスじゃ…ない…。化け物…。」
そして、手がだらりと地面に落ち、エールは息絶えた。
アリスは、死んだエールの手を握った。その瞬間、自分がこの廃墟を作り出したことを悟った。
人間を踏み潰し、建物を壊した記憶が、突如頭の中に浮かび上がった。
――お前は「化け物」なのだ。
「アアアアアアアーーーーーーーー!!!」
その叫びは、アリスの心を破壊した。
アリスは二度、死んだ。
一度目はビールの手によって。
そして二度目は、死んだ父親の手によって。
「アリス!!」
フィンが叫んだ。
巨大な魔物と化したアリスは、赤い目をギラギラ光らせて、滅茶苦茶に暴れていた。
フィンたちは、アリスから離れた所へと逃げ出した。アリスの動きから身を守ることで精一杯だったのだ。
「アリスちゃん…。」
フィズは赤い石に変化して、フィンの手の中にいた。
「あれがアリスちゃんなの…?」
「アリスは魔物に変化する。感情の爆発が引き金になるようなんだ。」
フィンが口早に説明した。
「あたしが現れたから…。」
フィズは、突然フィンの手元から離れて、赤い少女の姿になった。
「おい!今は危険だ!俺でも手が付けられない状況だ!どこへ行く!」
「アリスちゃんを止めるわ。」
「…アリスに入り込むのか?」
「あたしは…。」
フィズは、そう呟いて、目を伏せた。
「…お願い。連れてって。アリスちゃんの所に。」
そして、再び石の形に戻った。
「……。」
フィンは黙って、石を手にしてアリスの所へと走った。
「アリスちゃん!」
フィズが叫んだ。その声は、アリスに届いていないようだった。
「あたし…あなたにあげる…あたしの命を。」
そして、フィズは赤い石の形のまま、フィンの手を離れて、アリスに向かって飛んでいった。
アリスの巨大な足が、それを踏み潰し、石は粉々になった。
粉々になった石は、きらきらと赤い光を散りばめながら、淡く消えていった。
(あたしは運命を受け入れるわ。それがムーの民の生き方…。少しでも希望を持って生きられたから…満足よ…)
光の中に、フィズの声が響き渡った。
その優しい光が、凶暴な魔物に降り注ぎ、いつしか魔物は、元の幼い少女の姿に戻っていた。
「フィズちゃん…。」
アリスは呟いた。次から次へと、涙が止まらない。温かい優しさの光に包まれて、アリスの心は穏やかさを取り戻したようだった。
「あたし…なんてことを…。」
アリスは我に返り、自らのしたことを後悔した。
フィズを殺してしまった。
そして、思い出した。過去の罪を。
満たされない思いから、魔物になって、人を殺した。
愛情を与えてくれない父親を、殺したのだ。
思い出したくもない過去を、思い出してしまった。
思い出さなければよかった。
アリスは、ただただ、泣いていた。
この世界のどこにも、自分の居場所がないと思った。
誰もいない。あたしは一人。
罪を背負って、それでも生きていかなければならない。
アリスの小さな体に、それは重すぎた。
「アリス…。」
アリスの肩に、温かい手が置かれた。
ジンジャーだった。
「自分を責めるな。お前は悪くない。悪くないんだ。」
「ジンジャー…。」
アリスは、ジンジャーの体にしがみついて、泣きじゃくった。
テキーラも、アリスの傍に身を寄せて、アリスの頭をくしゃくしゃと撫で回していた。
そんな三人を、遠くからフィンは眺めていた。
その目には、何の感情もないように見えた。
「これで一応、決着か…。」
フィンはその場から立ち去ろうとした。
「待て!」
フィンの前に、ジンジャーが立ちはだかった。
「何だよ。」
「どこへ行くんだ?まさか、俺たちから逃れようというんじゃないだろうな。」
「そのつもりだ。アリスは記憶を取り戻したようだし、お前ら三人、仲良くやっていけばいいじゃないか。」
「そうはいかない。アリスはお前を必要としている。それに、まだブランデーのことがある。フィズの思いを無駄にするのか。フィズは、ブランデーに会いたがっていた。それなのに、自らを犠牲にして、アリスの命を優先したんだ。俺たちが、フィズの願いを叶えるんだ。本物のブランデーに会いに行こう。」
「義理堅いことで。俺にはもう、関係ないことなんだが。」
「何でお前はそうやって、本音を隠すんだ!!」
ジンジャーは、フィンの襟首を掴んだ。
「お前は本当は、そんな奴じゃないだろう!なのに何故、隠す!俺には、無理に他人との関わりを拒絶しているように見える。お前の使命ってのに、俺たちは邪魔だってのか!」
「その通りさ。俺にはやらなければならないことがある。これ以上の他人との関わり合いはゴメンだね。」
「そうか…そこまで言うのなら…仕方ないな。お前を見損なったぜ。」
ジンジャーは、軽蔑の目をフィンに向けて、アリスのもとへと戻っていった。
「フィン!」
アリスは突然顔を上げた。
「どこなの!?どこに行ったの!?」
アリスは、急いで走り出した。慌てていたためか、勢いよく転んだ。
「アリス!もうあいつを追うな。あいつは…。」
「いやよ!フィン!」
アリスは、ジンジャーの言葉を遮り、再び走り出した。
どこにもフィンの姿がない。
泣いている間に、どこかへ行ってしまった。
「フィン!行かないで!」
アリスは泣きながら走った。無我夢中で。フィンの後を追いかけて。
「アリス…!」
ジンジャーの声も、アリスには届いていない。
アリスは走った。すごい速さで、駆け抜けていく。
――心が冷たい。まるでフィンと出会う前の自分のよう。
何故こんなにも、フィンが愛しい。
冷たかった。誰かに手を差し伸べて欲しかった。
そこへ現れたフィンは、温かい光に見えた。
それから全てが動き出した。
アリスの壊れていた時計の針が、ゆっくりと動き出した。
そして生まれていった絆。
全てはフィンとの出会いから始まった。
フィンを失いたくない。
脆い心がまた壊れてしまいそうで怖かった。
自分を見てくれなくても、それでも構わない。
傍にいてほしい。
アリスを追いかけながら、ジンジャーは思っていた。
(アリスには、フィンが何よりも大切なのだ。
それをフィンは分かっているはずだ。それなのに、フィンは冷たい態度をとる。それはわざととしか、思えない。心からアリスを嫌っているとは思えない。何故、フィンはアリスだけでなく、俺たちにもそのような壁を作り出すのか。フィンは、大事な使命があると言っていた。そのために、人との関わりを拒絶するのか。フィンの使命とは何だ?何がフィンを締め付けているのか。俺は知りたい。フィンの使命とやらを。)