星空のディスタンス
時刻は夕方から夜に差し掛かる頃だった。
私は駅からの帰路の途中だった。
当時住んでいたマンションは岩倉駅から徒歩5分程度の場所にあり、
居酒屋やスナックが建ち並ぶ駅前の通りを抜けて帰っていた。
夜になるといつもカラオケの音が漏れ聞こえ、酒の匂いを漂わせるスナック前は、
当時の私にとっては刺激が強く足早に通り過ぎたくなる道だった。
しかしその日はいつもと様子が違った。
店の前の路上で成人女性が2人、
大縄跳びをしていたのだ。
目的は分からない。
しかし女性達は笑い声を上げながら楽しそうに大縄跳びをしていた。
見た目は30代くらい。
恐らくこの店の従業員だろう。
当時の私は
“夜のお店で働く女性は元ヤンかワケアリ”
というド偏見を持っており、
目が合おうものなら何をされるか分からないと内心怯えていた。
決して日常的ではない目の前の出来事に対し
なんて事ないと言わんばかりの平然を装って、一刻も早くその場から通り過ぎたかった。
いつもとは違う緊張を感じながら
その道を通り抜けようとした時、後ろから
「ちょっとまって!」と声をかけられた。
最悪だ。
例えば不審者に遭遇した時、
すぐに大きな声か防犯ブザーを鳴らして近くのお店に駆け込みましょう
と小学生の頃から教えられて育ってきたけど、
大縄跳びを楽しむスナック嬢に絡まれた時の対処法なんて、学校で一度も習っていない。
しかしこの状況で『無視』を選択するのが悪手である事を悟った私は、
一体どんな言いがかりをつけられるのかとビクビクしつつも振り向いた。
「あなた可愛いね!うちでバイトしない?」
てっきり『何見てんだよ』と凄まれるかと思っていたのに、
掛けられた言葉は予想に反して友好的なのものだった。
話を聞くと、その店は従業員不足に悩んでおり、
開店前の時間を使って店の前で若い女の子をスカウトしていたらしい。
しかしこんな田舎町でスカウトなんて珍しく、
人通りも少ない為、若い女性が店前の道をしょっちゅう通るわけでもない。
人材を探す間の暇な時間を埋めるため、
大縄跳びをしていたそうだ。2人で。
2人で過ごす時間の使い方として
何故最も適さないであろう大縄跳びを選んだのかは今でも疑問に残るが、
私はその店に興味を抱いた。
不思議なママの明るさにも惹かれ、
私は週に数日だけそのお店でバイトをする事になった。
カウンター10席程度と4人掛けの小さなボックスが1つ。
料金設定も安く、所謂“場末のスナック”といったお店だが、
ママは当時30歳前後と地域のスナックの中では比較的若かった。
そしてどうやらイメージ通り、昔はレディースの総長だったらしい。
しかし今ではすっかり当時の牙は抜け、
従業員の女の子にも優しくいつもお客さんを笑わせて、
ママがいるだけでその場を明るくしてしまう。
とにかくパワフルでブッ飛んでる人だった。
さらに店にはママに負けず劣らず個性豊かな常連客が揃っていた。
大半が近所に住む地元のおじさん達である。
来ると毎回カラオケで
安全地帯の“ワインレッドの心”を入れて、
『いーま い〜じょっ、そーれ い〜じょっ』
と変なところを伸ばして歌うオジサンや、
沢田研二の“カサブランカ・ダンディ”を毎回歌うからという理由だけで
店でのニックネームが『ボギー』になったオジサン。
私が好きだったのはママの昔からの友人で
通称『おにいちゃん』と呼ばれていたお客さんで、
その人は聖闘士星矢の“ペガサス幻想”をよく歌っていた。
するとママや店の女の子達はカウンターの中で一列に整列し、
サビ最後の『はばたけ』の部分で
千手観音のように皆で両手を広げ、文字通り羽ばたくのだ。
初めて見た時腹を抱えて笑った私は、
そのパフォーマンスが見たいがために
おにいちゃんが来るといつもペガサス幻想をリクエストした。
元々人見知りが強い性格で当時は接客業にも慣れておらず、
大人のノリにうまくついていけなかったけど、
そんな私にもお店の女の子や常連さん達は皆優しくて、
なんだかんだいつも楽しく働いていたと思う。
常連に支えられていたこの店では、
枝でない限り新規客が来店する事は少ない。
地元に根付いたスナック店に初めて入るのは、やや勇気がいるのだろう。
枝…リピート客と一緒に来店する新規客のこと
しかし、ヤツは突然やってきた。
その日は私が出勤する頃には珍しく、
カウンターに1人見知らぬお客さんが座っていた。
“新規で1人って珍しいな”
そう思いながらカウンターの裏に回り身支度を整えていると、
ママがそっとやってきて、小声で話しかけてきた。
「あのお客さん、なんか変わってるわ」
出勤時に一瞬姿を見ただけなので、
私はまだどんな人なのか分かっていなかったけど、
これまで幾人もの接客をしてきたママが開口1番にそういうのだから、相当変わっているのだろう。
息を呑みつつ店内へ繋がる暖簾の下をくぐると、
私は一目見てママの言葉を理解した。
その新規客は金髪ロングの巻き髪に、
大きめのサングラスをかけ、
外は真冬の寒さにも関わらず
一糸纏わぬ上半身を露わにし、
襟元にファーのついたジャケットを
肌の上に直接羽織っていた。
いわゆる裸ジャケットである。
この世で裸ジャケットする人を
T.M.Revolution以外に初めて見た。
普段なかなか味わう事が出来ない濃度、パンチ力。
特にこんな田舎町にはあまりにも不釣り合いで、店内には謎の緊張感が走っていた。
奇妙な出立ちの男をよく観察すると、
わざとらしいほど光沢感のあるその髪は明らかにウィッグだった。
私は自己紹介を済ませると、まずは彼のファッションについて話を振ってみる事にした。
「すごいオシャレですね。ウィッグですか?」
当時は私もファッションとしてウィッグを被る事があったので、
ひとまず共通点となる話題を探し、相手の出方を伺う。
明らかに安物で毛質が悪く、毛先がボサボサに絡まっていた男のウィッグだが、
接客業に従事するものとして ありのままに伝えるわけにはいかない。
「毛質めっちゃいいですね。どこで買ってるんですか?」
一見クソつまらないウィッグトークだがその男にはハマったようで、
それから男は自らのファッションを嬉々として語ってくれた。
そして話題はファッションから音楽へと移り、
男は自らの過去を語り始めた。
元々音楽活動をしていた事、
そして当時仲が良かったという有名アーティストの名を誇らしげに並べた。
その話は、あまりにも信憑性に乏しかった。
しかし接客業に従事するものとして、感じたままに伝えるわけにはいかない。
「え〜!すごいですね〜!」
1mmも感情の篭っていない言葉だとしても、
なんとか目の前の強敵を相手に場を持たせるため必死だった。
続けて男は、
自身が音楽活動をしていた当時世話になり、憧れていた先輩の話をした。
「俺はさ、THE ALFEEの高見沢さんにすごい世話になったんだよ。
今でも仲良くしてて、よくメールしてるよ」
その言葉を聞いて、改めて男の姿を鑑みる。
金髪カール、サングラス、
ファーのついたジャケット…
お前、たかみーやないか!
男の奇妙な出立ちは
たかみーへの最大のリスペクトを表していた。
それから男は『たかみー』と呼ばれるようになった。
その後来店した常連のお客さん達は皆、
カウンターに座るたかみーの姿にギョッとしたけど、
たかみーがカラオケでTHE ALFEEを歌うと思わず吹き出した。
ちなみにたかみーの歌はリズムも音程も取れておらず、どちらかというと下手だった。
来店当初は 椅子の上に斜めに腰掛けて、
やけに気取った話し方をしていた たかみーだったが、
酒が進み酔いが回ると 口数も多くなり、
呂律が回らず何を言っているのか聞き取りにくかった。
それでも音楽好きなたかみーには、
会話に詰まったらとりあえずカラオケを薦めておけば、なんとか場を繋ぐ事が出来た。
たかみーは気持ち良さそうに
“星空のディスタンス“を歌っていた。
その日以来 私はたかみーに気に入られ、
出勤する日を教えてほしいと連絡先を交換し、
出勤日には必ず開店時間からたかみーが店にやってきた。
たかみーのファッションセンスは相変わらずで、
周囲に差をつける裸ジャケット以降も
真っ赤な特攻服やベリーショートの短パンなど、
毎回バラエティーに富んだ衣装を私達に披露してくれた。
その度に、私とママはたかみーにバレないようにコッソリ笑った。
そんな奇人・たかみーでしたが、
ドリンクなどは割と気前良く女の子に振る舞い、
初回来店時の頃に比べれば、何回か接客してるうちに接し方も少しは分かるようになってきた。
*
ある日いつものようにたかみーの接客をしていると、ママにレジカウンターまで呼ばれた。
私はつい会計ミスでもしてしまったのかと思いママの元に向かうと、
ママはレジカウンター上に置かれたメモ帳を指差した。そこには
『たかみーの手の甲のタトゥーって、
包茎ち◯こ?』
という文字が書かれていた。
チラッとたかみーに目をやると、
確かに左手の親指付近にタトゥーが彫ってある。
私はたかみーの席に戻ると、
「その手のタトゥーって何?」と聞いてみた。
「これ?これはサソリ。スコーピオン」
とたかみーは答えた。
しかし私にはもう包茎ち◯こにしか見えなかった。
*
ある日、たかみーからメールが届いた。
『次の出勤日に飲みに行くから、閉店後アフターに行かないか』
という内容だった。
アフター…営業終了後のプライベートな時間を使って、客と食事に行くなどの交流を持つ事
私は普段からお客さんとアフターに行く事はなかった。
たまに行ってもママや店の女の子など複数人いる場合のみで、個人で交流を持つ事はしなかった。
しかも今回はよりにもよって、相手がたかみーである。
たかみーとの会話は聞き取れない事も多いし、時々内容自体がよく分からない。
いくら贔屓にしてくれるお客さんであろうと、
私はたかみーに対して一向に警戒心を解けなかった。
行きたくないなぁと思い、私は適当に会話をはぐらかした。
するとたかみーは得意げに
「駅前のガスト遅くまで空いてるやろ?なんでも奢るから」
と言った。
何言ってんだコイツ?これを書いている今でも怒りが込み上げてくる。
ガストでアフター誘ってくんじゃねぇ。
私はその時点で完全に行く気を失い、
『次の日朝早いから』と断った。
そして出勤日。
その日のアフターは断ったものの、たかみーは店にやってきた。
そしてメールではなく、今度は直接アフターに誘ってきたのだ。
しかし私の返答が変わる事はなかった。
それでもたかみーは引き下がらず、
『今日が無理なら明日や明後日はどうだ』としつこかった。
日にちの問題ではない。
お前と一緒にガストに行く時間がないのだ。
しかしそうハッキリと伝えるわけにもいかない。
私は接客業に従事しているからである。
断り続けても埒が開かない状況をなんとかしようと
「とにかく今日は無理。次の時に都合が合えばその時に」
と無理矢理 会話を終わらせた。
この日を境に私はたかみーに対して、より一層警戒心を強める事になった。
まだこの時点では明確な何かがあるわけではなく
ちょっとした違和感のようなものだったけど、
たかみーを少し遠ざけないといけないような気がしていた。
次の出勤日、たかみーは開店時間に現れなかった。
しかし出勤前には相変わらずメールが届き、この日もガストに誘ってきた。
どんだけガストが好きなんだよ。
私は仕事中でメールに気づかなかった事にしようと、
たかみーからのメールに返信せずにそのままにした。
営業開始から数時間経った頃、
店内には常連客が数人と、ママ・私・女の子の5〜6人しかいなかった。
カラオケを歌うような騒ぐノリではなく、
有線のみが流れる静かな店内で皆で他愛もない雑談を交わしていた。
すると、そんなまったりとした空気をぶち壊すように、
突然店のドアが大きな音を立てて勢いよく開いた。
そして扉の向こうから
いつもの金髪ウィッグを脱ぎ捨てた たかみーが
ガラ悪く声を荒げながら乗り込んできた。
たかみーの後ろには
吉本新喜劇でしか見ないような真紫のコテコテチンピラスーツに身を包んだ背の低い男性がついてきていた。
店に入るやいなや
「責任者出せ!ケツモチ教えろ!」と捲し立てるように大声を発するたかみー。
そしてカウンターにいる私に向かって
「お前無視しやがって!!」と怒号を浴びせた。
店内にいた男性客がなんとか宥めようとするも、
たかみーは異常に興奮した様子でなかなか収まらない。
そしてそんな時に限って
トイレで用を足していたママは出るに出れなくなっていた。
店内はたかみーの襲来と共に
一瞬にして地獄へと変わった。
たかみーは来店時からずっと物騒な言葉を羅列し騒ぎ続けている。
共に来店した背の低いチンピラスーツの男は
その間一言も喋る事なく、ただたかみーの隣に立っていた。
サングラスを掛けていたため表情も見えない。
というかどちら様?
不審者に遭遇した時、
すぐに大きな声か防犯ブザーを鳴らして近くのお店に駆け込みましょうと習ってきたけど、
店内で遭遇した時の対処法なんて、学校で一度も習っていない。
暴走するたかみーに手がつけられないでいると、
用を足し終えたママがようやくトイレから出てきた。
ママ、もっと早く出てきてほしかった…。
たかみーはママに一言二言文句をつけると、ようやく店から立ち去った。
嵐が過ぎ去った後の店内は、さっきまでの緊張と緩和からか、なぜか皆異様なテンションになっていた。
その後の営業は何事もなく終わり、
私達は店の看板を落として閉店作業をしていた。
その間の話題はやはり『たかみー、襲来』に関してである。
皆で話をしながら掃除やレジ締めを行っていると、
店の外からエンジン音と共に赤く光るブレーキランプが差し込んだ。
営業中であれば、店に呼んだタクシーが店前に停まる事もあるが、
すでに営業を終えたこの時間に車が停まる事は、まずあり得ない。
嫌な予感がした私たちはすぐに鍵を閉めて店内の電気を消した。
音を立てず、ヒソヒソ話で外の様子を伺う。
車は店前から離れる事なく、扉のすぐ向こうで今もずっとエンジン音が聞こえ続けている。
真っ暗な店内に差し込む赤いランプの光が、一層恐怖心を煽った。
そのままどのくらい過ごしただろう。
しばらく経って、ようやく車が離れたようだ。
私達は少し時間を開けてから、ドアをゆっくりと開き店の外に出た。
幸いは店前には先程までの車は停まっていないようだった。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、
少し離れた場所に停まっていた車のライトが突然点灯し、
一方通行を逆走しながらこちらに向かって急発進してきた。
そしてその車は私達のすぐ隣に停車する。
ピンクのヴィッツから降りてきたのは、
先ほど店に現れた たかみーだった。
相変わらず興奮状態のたかみーは
もはや何を話しているのかさえ分からなかった。
私はすぐに携帯で110番に電話をかけた。
しかしその様子をたかみーに見つかり、
「お前何しとるんじゃ!」と怒鳴られた。
なんとかママが穏やかな口調でたかみーの話を聞こうとするが、
たかみーは支離滅裂な怒号を浴びせるばかりだった。
数分後、パトカーが到着した頃には たかみーはもういなかった。
私たちは駆けつけた警察官に今日起きた出来事を全て相談した。
その日以来たかみーは店に来なくなり、メールが来る事もなくなった。
それでも私はあの日の出来事が忘れられず、
街中でピンク色のヴィッツを見かけると
たかみーが乗っているような気がして怖くて身がすくんだ。
あの出来事から数週間経った頃、
店に出勤するや否や、ママが待ってましたと言わんばかりに私に話しかけてきた。
「線路の向かいの◯◯ってスナック分かる?
あの店のママから聞いたんだけど、
たかみー、うちに乗り込んだ後にその店にも行ってたみたいよ。
そこでも訳わからないこと言って騒いで、お店のお客さんと喧嘩になったんだって。
そしたらたかみー、『殺してやる!』って
突然プラスチックのおもちゃの包丁をカウンターに投げ込んだって。」
話を聞いていても、全く意味がわからなかった。
だけどとにかく、たかみーがヤバイ人であるという事だけは分かった。
やはりあの奇妙な出立ちや虚言じみた言動など、最初に感じた違和感は正しかったんだ。
“ちょっと変わり者だけど扱いさえ分かれば平気“
なんて分かったような気持ちでいた自分は、
なんて考えが甘かったのだろうと改めて痛感した。
小娘だった私は知らなかったけど、
世の中には自分の予想を超えるような人たちが多くいて、案外近くにいたりするんだ。
無事でいれて良かった。心底そう思った。
最後にママは、こう続けた。
「そこのお店でも通報されて警察の人がきたんらしいんだけど
そのあとたかみー、どうなったと思う?
覚醒剤で捕まったらしいよ。」
〜 星空のディスタンス・fin 〜