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毛虫
タマスダレの花が咲きました。鋭く尖った花弁が、どことなく秋の寒さを感じさせます。
フランスの近代詩人アンドレ・ジイドの『新しき糧』にこんな一節があります。
「"よく己を知ろう"と苦心する毛虫は、いつになっても蝶にはならないはずだ。」
ジイドの作品は、一貫して「観念からの解放・それによる自己の確立」を謳ったものが多いです。寺山修司の引用で有名な、「書を捨てよ町へ出よう」なんかもそういった意味が込められていると感じています。
たしかに、私たちは日々過ごす中で、印象や固定観念に縛られて物事を決めていることが多いと思います。わかりやすい例で言えば、幼少期の「友達は多くいるのが普通」だとか、学生の頃の「高校に進学するのが普通、いい大学を目指すのが普通」だとか、大人になると「いい歳してるんだから結婚するのが普通」、「結婚したなら子供を拵えるのが普通」だとか、いつ誰に刷り込まれたかもわからない「普通」だの「常識」だのという言葉に縛られ、私たちは必死にそれに当てはまるように苦心していると思います。そうして、それらはただの主観でしかないにも関わらず、「普通」や「常識」という言葉・観念から外れた人、即ち自分たちと相容れない価値観をもつ人だったりを「異常」だの、もっと言えば「悪人」だのと決めつけたり、「人格・人柄」というレッテルを貼って好きこのんだり、はたまた排除したりするようになる事があまりにも多すぎると感じます。
私は昔から他人と仲良くしたり、敵対したりすることが苦手でした。なんだか演技臭くて嫌気がさしてくるんです。逆に、そういった営みを平然と行っている人達を見ると、その一挙手一投足に「はい、これこれこういう手筈をふんだので今から君を友達という役割に振り分けたからね。/ 僕に相対する言動を持っている君は敵だね。」という心の声が滲み出ている気がして、むずむずしてきます。
もちろん、これは人間関係の話だけでなく、普段の思考パターンや、日常的な所作などにも、無意識的な演技性が介在していると思います。人間という生き物が他の生物と異なる点というのは、「演技」ができるかどうかなのかもしれません。一定のプロセスを踏んで、人と関わったり、誰かを好きになったり、そうして自己を確立した気になったり、逆に一丁前に悩んだりして自分たちは生きているのだと思うと、すこし虚しいですが、それと同時に人間が長い年月をかけて育んできた合理的な円環の中に私もいていいんだという安心感が与えられたようで、有難くも感じます。そう思うと、やっぱり固定観念から抜け出すことって到底できない気がします。
自身の頭の中より外にあるものを知るには、その頭蓋の外、言ってみれば、本を捨てて、部屋を出て町に行くこと、そうして自分とは異なった世界に生きている他者と関わる他ないのかもしれませんが、やっぱり本の中の世界は気持ちがいい。頭の中は母親の胎内にいるようで、安心出来る。それに、他人と関わることで自分の中の世界がどんどん崩れていって、元の自分ではなくなってしまうのではないかという恐怖が、私をこの頭蓋の内に閉じ込め続けている気もして、中々前に進めません。それも、ジイド曰く、「僕が複雑だと感じるものも、実は常に僕なのである。」とのことですが。
私という毛虫はいつになったら、蝶へとなるのでしょうか。それとも、蝶になれないまま死んでしまう哀れな毛虫なのでしょうか。はたまた、自分が蝶になれると思い込んでいる紙魚か何かなのかもしれません。そんなことを考えながら、今日も言葉という何の毒にも薬にもならない葉っぱを食べて生きています。
最後に、最近作った短歌二首を上げて終わりにします。今回も読んでいただき、ありがとうございました。
・我がこころ、この頃なりて虫食ひの跡は無きやと胸を探りぬ
・玉すだれ プレスコードに偲びかねて 秋の風にしその刃研ぐらむ