落ち着かないきみ
この日、わたしはどうしようもないほど落ち着かなかった。
冬の寒さが終わって過ごしやすくなってきた3月の下旬の週末。わたしは恋人に誘われて都内のラグジュアリーホテルに来ていた。
ドレスコードは無いと彼から話を聞いていたけど、カジュアルな服装では流石に恥ずかしいと思っていた。だから、今日のわたしはフォーマルまではいかないくらいの透け感のあるネイビーのワンピースにヒールの高いパンプスを合わせていた。ちなみに、普段より綺麗めな服装のせいで落ち着かないわけではない。
隣に居る彼は細身の体型に合わせた仕立てのいいスーツを着ている。あまりスーツ姿の彼を見たことがなかったわたしには、この時点でちょっとしたご褒美だった。
わたしは場違いなほど綺麗なエントランスを、腕を組んで半歩先を行く彼にエスコートされて進んでいく。そこまで目立つような容姿をしているわけじゃないのだけど、周りからの視線を感じた。自意識過剰というわけではないと思う。
エレベーターに乗り、わたしたちは上の階へ向かう。タイミングが良かったのか2人きりのエレベーターはとても静かで、わたしの落ち着かない気持ちが彼に伝わってしまいそうだった。
エレベーターは15階で止まり、降りてまっすぐ歩いていくとすぐに目的地であるバーに到着した。入り口のそばに立っていたスタッフさんへ彼が予約している旨を伝えると、スタッフさんはすぐに予約を確認する。
「矢本灯里様と沢田美波様ですね。お待ちしておりました、ご案内いたします」
彼とわたしの名前を呼ばれたので返事をすると、スタッフさんが深くお辞儀をしてわたしたちを席へ案内する。案内されたのは窓側のテーブル席で、テーブルの上に『予約席』と書かれた札が置いてある席だった。
わたしは案内してくれたスタッフさんに椅子を引いてもらって着席した。こんな経験は初めてだった。
顔を外へ向けると都内の夜景を独り占めにしたような気持ちになった。えらいところに来てしまったな、と改めて思う。しばらく目の前に広がる夜景に見入っていると「美波」と彼がわたしを呼んだ。
「何にする?」
わたしにメニューを渡しながら言った。渡されたメニューを見てみると、普段は居酒屋にしか行かないわたしには馴染みのないものばかり並んでいた。
「うーん……」
メニューを見ながら唸っているわたし。それに彼は「だよね」と言った。
「ねえ、とーりくん。よく分からないからさ、スタッフさんに聞いておすすめとかにしない?」
わたしは彼に提案する。彼も「それがいいね」と同意してホールのスタッフさんを呼んだ。やってきたホールのスタッフさんにお酒の好みを伝えてお勧めされたカクテルをそれぞれ注文した。
「流石に、場違いな感じだなぁ。ぼく、わりとビビってるんだけど……」
わたしをここへ誘った本人がここにきて何を言っているのだ、と声には出さずにつぶやいた。そんなことを言うのなら背伸びをしてこんなところに来なければ良かったのに。
そもそも、どうしてこんな所に来ることになったのか?
発端は少し前のこと。彼から改まって「話したいことがあるんだ」と誘われたことだった。
わたしも彼も同い年で今年で24歳になる。今は付き合い始めて1年半ほどだから、そこまで付き合っている期間が長いわけじゃないけど、短いわけでもない。そんな感じ。
だから、こんなに雰囲気のいい場所に誘われて、改まって話したいことがあるなんて言われたらプロポーズされるかもしれないと勘繰ってしまう。これが今日のわたしが落ち着かない一番の理由だった。
彼は地元で高校教師をしているけど、わたしは色々と訳あってまだ大学を卒業できていない学生の身だ。だから、プロポーズされるにはさすがにまだ早いとも思っていた。そんなことを彼に誘われてから今まで、わたしの頭の中で延々とぐるぐる思考が回っていた。
注文したカクテルが運ばれてきて、わたしの前にスッと置かれた。ドラマとかで見るような円錐のカクテルグラスに鮮やかなカクテルが注がれていた。
「乾杯」と言って、わたしはグラスに口をつけた。成人しているとはいえ、まだまだ舌は未熟なままだ。美味しいと飲みやすいくらいの言葉しか頭に浮かんでこない。ただ、このカクテルが普段から居酒屋で飲んでいるお酒とは違うジャンルのものに感じていた。
「おいしいね」
わたしは当たり障りのない言葉を選んで口にした。というか、このくらいしかわたしには言語化できなかっただけなのだけど。彼の反応はどうだろうと思い、わたしは彼が自分のカクテルを飲む様子を見ていた。
「おいしいな」
よかった、と同じようなことを言う彼に安心した。
「ええと、美波」
「なに?」
「ありがとう。実は、誘った時に『そんなに背伸びしなくていいから』って言われるんじゃないかって思っていたんだよね」
「あらそう。なら、言えば良かったかな。思うだけにして言わないようにはしていたんだけど」
わたしはいたずらっぽく答える。誘われた時にそう思っていたのは事実だった。
けど、彼が誘ってくれた場所なのだから、それがどこであろうとわたしは拒否するつもりはなかった。ちょっと重い女だと思われそうだけど。
「それで、もうすぐ美波の誕生日だよね?」
「そうだねえ」
わたしの誕生日が4月12日なので、まだ半月近くあるけどもうすぐといえばもうすぐだ。けど、正直なところ自分の誕生日はなくしてしまいたいくらい、いい思い出がない。むしろ忘れられないくらい嫌な思い出がある。
「うーん、でも……誕生日って好きじゃないんだよね」
「うん、知ってる。知ってるけど……それでも、ぼくは少しでも美波が誕生日を喜べるようになって欲しくて」
「うーん……とーりくんの気持ちは嬉しいよ。これは本当にね。でもね、無理なものは無理なんだよ……」
そう答えてグラスに口をつける。彼はわたしが自分の誕生日を好きじゃない理由は知っている。知っていて、少しでも誕生日に対するわたしのネガティブな部分を変えたいという彼の気持ちも想いもよく分かるし、その気持ちが嬉しいと感じている。それに、彼に対しては話せない事はないとわたしは思っているから、聞かれれば話すつもりだ。それでも、誕生日のことだけは……と、どうしてもなってしまう。
「ていうか、ここに来て改まって話したいことってさ。わたしの誕生日のことだったの?」
どうにか誕生日の話題から離れたいこともあって、わたしはそう彼に言った。彼は「ううん、違うよ」と言ってから話し始めた。
「時期的に近かったから誕生日の話をしただけなんだ。それで話したいことなんだけど。あのさ美波、温泉に行かない?」
一瞬、彼の言葉が頭に入ってこなかった。え、温泉……温泉って言ったよね、みたいな。
頭の中で彼の言った温泉という言葉を認識すると同時に、わたしの落ち着かなさの原因だったことがガラガラと音をたてて崩れてしまったような気がした。
「へ……温泉?」とわたしの口から間抜けな声が出た。
「そう、温泉。美波もここのところ忙しそうだったし、リフレッシュにならないかな?なんて思って。どうかな?」
彼の言うように、わたしはしばらく大学のこととかで忙しくしていたし、リフレッシュしたいとも思っていた。だから温泉に行くことは悪くないのだけど。
でもでも……と、何かわたしの中で湧き上がるものがあった。
「はああ……」
まずはゆっくりと深く息を吐いて、それからめいっぱい吸い込んだ。
「あのね、わたしがとーりくんに誘われてから今日までさ、どんな気持ちでいたのか分かる?分からないよね。こんなにさ、綺麗なところに誘われて話したいことがあるなんて言われたんだよ。そらさ、自惚れてると言われたらそうかもしれないけど。でもでも、わたしだってね、それなりには期待しちゃうんだよ。ううん、すごく期待しちゃってたかも。なのに、なにそれ?温泉に行こうってさ。そりゃ、わたしも温泉には行きたいよ。でもさ、今のわたしのこの気持ちはどこへ向ければ良いんだろう?ていうか、バカだよねわたし。とーりくんがクソボケなのは分かってるからさ、期待したところでそんな事はないって。そんなの、分かっていたはずなのに。ああもう、もしかしたらプロポーズされるかもしれないなんて期待しちゃってさ、舞い上がっちゃってさ。わたし、バカすぎるしすごく恥ずかしいよ!」
少し彼のほうへ身を乗り出して、出てくる言葉のすべてを彼にぶつけた。わたし自身、途中から何を言ってるのか分からなくなるほど感情のままに言っていたと思う。
彼はキョトンとした顔をしていた。わたしがこれだけのことを一気に言ったから驚いているのかもしれない。けど、そうじゃないんだよ。
「プロポーズって……ああっ……」
ここまでわたしにメッタメタに言われて、彼はようやく気付いたようだった。
だからクソボケなんだよ、もう……。
「ごめん、美波。君の気持ちに全く気づけていなくて。クソボケって言われても何も言えないよ……」
彼は額がテーブルに付くくらいまで頭を下げた。
「そんなに頭を下げないでよ」と彼へ手を伸ばして優しく頭を触り、頭を上げてもらった。彼のこともだけど、わたしは周りからの視線が気になっていた。だって、側から見たら何かやらかした彼氏が謝っているようにしか見えないのだから。実際、そういう状況なんだけど。
「とーりくん。わたしはガッカリはしたけど怒ってるわけじゃないよ。ていうか、周りから見られてて恥ずかしいんだけど……」
「ごめん」と彼はもう一度謝る。
こういう展開になるんじゃないかと、ある程度は予想をしていた。それで、やっぱりこういう展開になってしまって、わたしはやりきれない気持ちになった。
「良いんだよ、本当に。勝手にわたしが期待していただけって言ったでしょ」
「うん……でも、ぼくは美波をガッカリさせてしまった。それがすごく申し訳ないよ」
「いいのいいの。とーりくん、そんな顔しないでよ。わたしはまだ学生なんだし、まだ早いってことくらいは分かるから。それにね、わたしは待てる女だから。とーりくんがその気になるまで待っているよ」
シュンとしてちょっと泣きそうになってる彼の顔を指差しながらわたしは言った。
もちろん、今の言葉はわたしの本心に他ならない。というか、今のはわたしが勝手に空回りしただけだし。それでもこんな事も些細なことだと思えるくらい、わたしは彼のことが好きなんだから。
「うん、だからこの話はここまでにしてさ。とーりくん、温泉に行こうよ。その話しよ」
わたしは温泉の話をしたくて彼に言った。それはそれとして温泉には行きたいと思っていた。
「そうだね。前もっていくつか選んできたんだけど、どこが良いか一緒に決めたいんだ」
彼はそう言うと携帯電話を手に取って操作する。その様子を見て、わたしも自分の携帯電話を取り出した。
携帯電話の画面を見ると、メッセージアプリに彼が選んできたという温泉旅館のリンクがいくつか送られてきていた。それをひとつずつお互いの携帯電話で見ていった。
彼の選んだ温泉旅館には共通していることがあり、それは貸切温泉のサービスがある温泉旅館か客室に温泉が付いている部屋のある温泉旅館で、いずれも大浴場に行かずとも温泉を楽しめるということだった。
わたしはあまり女性の共用スペースを利用することが好きではないので、こういう彼の心づかいは素直にありがたかった。プロポーズのことは全く頭になかったのにね、と軽く悪態をつきたくなるが、話が進まなくなりそうだからグッと堪えた。
「どうだろう、どこか気に入ったところあったかな?」
「うーん……気に入ったというより、なんていうか。どこもびっくりするような宿泊料なんだけど……」
そう、彼の選んだ温泉旅館はどこもいわゆる高級旅館だった。貸切温泉の温泉旅館のほうがいくらか安いとはいえ、それでもリーズナブルとは絶対にいえない金額だった。
「ああ、宿泊料は考えなくていいよ。美波がここが良いって思ったところを選んでもらって構わないから」
涼しい顔で言う彼に、わたしは携帯電話の画面に表示されている温泉旅館の情報と彼の顔を交互に見ていた。こういう時、選んでって言われて選ぶことが苦手なわたしは、なかなか決められなくて答えられないでいた。
「じゃあ聞きかたを変えようか。貸切温泉と部屋にお風呂だったらどっちがいい?」
「……お部屋のお風呂」とわたしは遠慮気味に答えた。彼はうんと頷く。
「露天風呂と内湯だったらどっちがいい?」
「露天風呂、かな」
「うんうん。それだと……2番目に送ったところになるかな。ここはどう?」
彼に言われて、わたしは改めて2番目に送られてきたリンクの温泉旅館を見る。確かに客室に露天風呂が付いていた。
確かに条件には合うんだけど……。
「えっえっ、なにこれ……」
客室の画像よりも宿泊料に目が行ってしまい、驚いて声が出てしまった。ここに1泊する宿泊料で、ビジネスホテルだったら1週間くらい泊まれそうだったからだ。
「とーりくん、すごく素敵なお宿だけどさ。予算は大丈夫なの?ここ、めっちゃ高いじゃん……」
わたしがおそるおそる聞くと、彼は「もちろん」と即答した。
「今回の旅費はぼくがもつから安心してよ。これでも社会人なんだからさ。そこは遠慮しないで」
「そっか、ならありがたく……」
ここで遠慮するとわたしが折れるまで無限ループするのは目に見えていたから、彼の言う通りにした。これで、いつ行くかはこれからお互いの予定を合わせるとして、泊まる予定の温泉旅館はこれで決まった。
わたしはまた携帯電話に視線を落として温泉旅館の情報を見ていた。客室にある露天風呂はすごく大きいわけではないけど、彼と2人で入れるくらいの大きさはありそうだなと思っていた。
「美波、次どうする?」
彼に聞かれてすぐに何のことか分からなかったけど、空になったカクテルグラスを指さしていたので、お酒のお代わりのことだと分かった。
わたしたちはまたホールのスタッフさんに聞きながらお酒を選び、一緒に食べるものも何品か注文した。
「なんかさ、飲みやすいよね?」
空のカクテルグラスを指で突っつきながらわたしは言った。1杯目が終わるまで、結局美味しいと飲みやすいという感想しか出てこなかったのだけど、お酒だと感じないような飲みやすさをいちばんに感じていた。それでも飲んでいるものはお酒で間違いはないんだけど。
運ばれてきた2杯目のお酒は1杯目とは違うものを選んでいた。1杯目とは形の違う円筒のカクテルグラスには違う鮮やかな色のカクテルが注がれていた。1杯目のカクテルもとても飲みやすくて、一口飲んだつもりでもその一口の量はさっきよりも少し多くなっていた。本当に、飲みやすいのが良くない。
「ほどほどにしなよ、美波」
わたしの飲むペースが早くなっていることに気づいた彼がわたしに言った。わたしはお酒は飲めるけど、決してお酒に強くないことを彼はよく知っていた。
「うん。でもさ、少し飲みすぎちゃってもさ。優しいとーりくんが家まで送ってくれるんでしょ?」
「まぁ、送るけどさ……」
答えた彼は呆れた表情をしていた。
2杯目のカクテルを飲みながらそんな会話をしていると、注文していた食べ物が運ばれてきた。チーズにソーセージ、ピクルスの盛り合わせ。それらを2人が取りやすいところに置くと、わたしはまた一口飲んだ。わたしが一口飲むたびに彼がわたしをジッっと見てくることが気になったけど、まだ2杯目だし酔うほどじゃないでしょ、とわたしは思っていた。
「ねえ、とーりくん。わたしからも話したいことあるんだけど、いいかな?」
「……いいけど、何だろう?」
彼は意表をつかれたような顔をしていた。
わたしから何か話をするつもりで準備をしていたわけじゃないのだけど。せっかくの機会だからと話し始めた。
「わたしね、とーりくんのこと好きなんだよ」
「ありがとう。ぼくも好きだよ」
そう直球に返されると普通に照れてしまう。仕草には出ないけど、きっと顔には出てると思う。
「えへへ、嬉しいな。でもね、とーりくんとの距離を感じることがあるんだ。もしかして、わたしに遠慮してないかな?なんだろうね……恋人のはずなのに親友くらいの関係に感じることがあるんだよ」
「どういうこと?」
わたしの言いかたがあまり良くなかったのはあると思う。彼は首を傾げていた。
「そうだなあ。とーりくんさ、わたしに聞きたいことがあるのに聞けないこと、あるんじゃない?それが遠慮してなのか、わたしに気を使ってなのか。そのへんは分からないけど、あるよね?そういうこと。話してごらん、わたしはとーりくんになら何を聞かれても話すつもりだから」
一息で言って、それからゆっくりと息を吸った。それからグラスを手に取って一口飲む。もうグラスの残りは半分くらいになっていた。
彼を見ると少し悩んだ様子を見せたあと、口元をもごもごと動かしていた。言いたいことはあるけど、なかなか言い出せない。そんな感じだろうか。そんなふうに見える。
わたしはなかなか言い出そうとしない彼を待ちながら、気づくと2杯目を空けてしまったので、次のお酒を注文した。3杯目の飲み物がわたしの前に運ばれたころ、ようやく彼が口を開いた。
「聞きたいこと、あるにはあるんだけど。こんなこと、美波に聞いちゃダメだろって思っていて。それで聞けなかったことなんだよね。そんなことなんだけど、いいかな?」
「それって、とーりくんがわたしに聞きたいことを聞いたらさ。わたしが気を悪くするかもしれないって考えてるから?」
わたしが聞くと、彼はこくりとうなずいた。
「うーん……そう思われるのはさ、わたしにはあまり良くないかな?もちろんね、気を使ってくれてる気持ちは嬉しいし優しいけど。違うと思うんだよ、とーりくん。それはね、ダメな優しさだよ」
彼を指さして言った。わたしは優しくされるのが嫌だというわけではなくて、気を使われてわたしが気にしなくていいようにされる優しさは好きじゃない。もちろん、嘘をつかれるのも好きじゃないから嘘をつくくらいならハッキリ言って欲しいとは思ってる。
それにしても今日はなんだろう。わたしはもともと口数が少なくはないけど、口がよく回る気がする。それが飲んでいるカクテルが美味しいせいか、このバーの雰囲気のせいか、分からないけど。
「分かった、話すよ。それでも答えたくないってことだったら、答えなくてもいいから」
「大丈夫。わたしは何を聞かれても答えるつもりだよ」
そう答えてわたしは笑みを浮かべた。
彼は自分のグラスの残りを空けて、次の飲み物を注文してから話し始めた。
「ええと……美波ってさ。自分の性別の自認って、どうなってるの?」
日常生活ではあまり聞かれることのないことを彼はわたしに聞いた。わたしは、全く動じることなく静かにしていた。
なるほど、彼が聞きたいのはそういうことか、と心の中で声に出さずに言った。彼がそれをどうして聞いたらダメだと思ったのかは分からないけど、わたしには彼が聞きたかったことに対する答えを持ち合わせていた。
というのも、今でこそわたしは『ただの女』でしかないのだけど、数年前までは男だったんだ。だからわたしは、いわゆるトランスセクシュアルということになる。もちろん、目の前にいる彼もその事を知っているし、そのうえでわたしと恋人の関係になっている。
確かに自分の身体やら何やらと折り合いをつけた話はすでに彼にはしているけど、わたしの性別の自認についての話はしたことがなかったかもしれない。わたしがそれをどうでもいいことだと捉えているからかもしれないけど。
「ごめん。なんか、今更って感じちゃった。うん、こういう話って確かにした事なかったかもね」
わたしはそう答える。とはいえ、性別の自認なんて男か女かってことでしょ、なんて言えるほど単純なものとはわたしは考えてないし、わたしなりの考えはある。
だけど、わたしの素性を知ると軽い気持ちで聞いてくる人が少なくなくて。それが地味に悩ましいと感じていた。だから答えを2つ用意して、軽い気持ちで聞く人にはそれなりの答えをするし、真剣に聞く人にはしっかり答えるようにしている。彼の場合だともちろん後者になる。
「どう話そうかな……」
わたしは彼にどう話そうかと頭の中で考えていた。自分の顎に人差し指を当てて、頭の中で話そうとしていることを整理していた。
「もしかして、答えづらいことだった?」
「ううん、そんな事ないよ。どう話そうかなって考えていただけだよ」
わたしはそう答えてからひとつ息をついて「もしかしたら、まわりくどいかもしれないけど」と前置きをしてから話し始めた。
「まずね、わたしは自分の過去を否定しないし無かったことにもしないの。昔の男だったわたしも今の『ただの女』になったわたしも、どちらも変わらないわたしだからね。それに、今のわたしがいるのも昔のわたしが居たからなんだよ。これがわたしの性別の自認について話をする時の前提条件」
「ぼくのイメージだけど、トランスの人って過去の自分を捨てたい人が多いと思っていたよ。けど、美波は違うんだね?」
「そうだよ。過去なんてさ、どうやったって捨てられないしなかったことにも出来ないじゃん。そんなのってさ、現実逃避と変わらなくない?」
「そうだけど……随分とハッキリ言うね」
「ハッキリ言うよ、わたしは。どうやったって現実を生きているんだし。だからかな、心の性別みたいな言いかたをすることもすごく嫌い」
「そうなんだ?」
「そうだよ。心の性別なんてあるわけないって。そんなもの、妄言か何かと変わらないと思う。じゃあ自認とどう違うんだ?って聞かれると少し困るけど……そうだなあ、医療の都合で『性違和』って言葉が使われるから自認のほうがシックリくるだけだと思うな。わたしはね」
ここまで話して、わたしはいちど息を吐いた。口を動かしているとすぐ喉が渇いてしまう。だからわたしの手は自然とグラスへ伸びていた。
「それでね、ここからがわたしの自認の話になるんだけど。とーりくん、ここまでは大丈夫?」
「大丈夫、続けて」と彼が答えるのでわたしはこくりと頷いた。
「それで、はじめの話に戻るんだけど。男だったわたしと女になったわたし、どちらも同じくわたしなんだけど。そうすると自認している性別が男ともいえるし女ともいえるってことになっちゃうでしょ?だから、わたしなりの結論を言うと、男でもあるし女でもあるってことになるの。どうかな、ちょっとややこしいでしょ?」
また話を止めて彼を見るが、話についてこれないような感じは受けない。だからこのまま続きを話すことにした。
「これ、人によって捉えかたはあると思うんだけどさ。わたしはね性別が男と女のゼロイチではないって考えているの。わたしの場合だとほぼ真ん中の50:50みたいなところになるかな。そういうのを両性みたいな呼びかたをする人はいるけど、わたしはちょっと違うかなって思ってるから男でもあるし女でもあるって言うけどね」
「それってさ、男のぼくも100:0とは限らないって事だよね?」
「うん、そういうこと。察しがいいね、とーりくん」
この通り、彼とは話がよく噛み合う。今に限らず彼とどんな話をしていても、よく分からないまま会話が終わるという事がほとんどない。
「どうかな、とーりくん。自分だったらどんな感じになりそう?」
「うーん……そうだなぁ。70:30くらいかも」
彼は少し考えてから答えた。
「うんうん、なるほどね。とまあ、こんな感じで自認する性別なんて男女の ゼロイチにはならないと思うの。というのがわたしの考えかた。どうかな、分かりづらかったかな?」
「ありがとう、分かりやすかった」
彼は首を何回か縦に振りながら言った。言葉にも仕草にも納得している様子は感じた。
「でもね、自認する性別がゼロイチじゃなくなると困る事もあるんだよ。それって何か分かるかな?」
「困る事かぁ……そうだなぁ、さっきの温泉の話になるけど、大浴場のような男女それぞれの共用スペースとかかな?」
ほんと、彼のこういう察しの良さというか勘どころの良さというか。こういうところがわたしはとても好きなんだ。でも、とことん察しの悪いこともあるからプラスマイナスゼロにはなってしまうけど。
「すごい、よく分かったね。その通り。いくら自認する性別がゼロイチじゃないからといって、社会の構造がそうなっているとは限らないからね。というより、いまの社会構造は男女のゼロイチが前提で作られているし、これはこの先もそう簡単には変わらないってわたしは考えていて。そうすると、ゼロイチじゃない性別の自認とゼロイチな社会構造とで辻褄が合わなくなっちゃうよね?」
「確かに。もしかして、SNSとかで炎上したりニュースになるのって……」
彼に聞かれてわたしは頷いた。
「すべてがそうだってワケじゃないと思うけど。ゼロでもないと思うよ」
「そうしたらどうするの?というか、美波はどうしてるの?」
「わたしには自認する性別とは別に、社会生活を送るために表現する性別っていうのがあるんだよ。ほら、わたしが言う『ただの女』ってやつあるでしょ?性別の自認は男でも女でもあるけど、社会生活では『ただの女』だからね。乱暴な言いかたかもしれないけど、それぞれが持ってる性別の自認はどうだってよくて。ただ、それを社会生活に持ち出すな、主張するなってことだとは思っているよ」
ここまで話をして、わたしはいちど深呼吸をした。彼を見ても難しそうな顔をしていないし、視線をわたしに向けている。きっとわたしの話は彼に伝わっているんだろう。
「すごいね、美波。こんなに考えてるなんて」
「うーん……すごくはないと思うよ。これはわたしがわたし自身と折り合いをつけるために、自分の立ち位置をハッキリさせたくて考えた結果なんだから」
これだけじゃないんだけどね、とは口にしなかった。今話していたことの他にも、わたしが自分と折り合いをつけるために考えてきたことはある。それも聞かれれば話すつもりではいる。
わたしはずっと話していたせいで手をつけられなかったチーズを口に運ぶ。普段食べているチーズとは違って味というか旨味なんだろうか、よく分からないけど濃厚な味がする……ような気がした。
「ところでさ」と彼が言った。わたしはチーズの隣のお皿に盛られているソーセージを一口大に切っていたが、その手を止めて彼を見た。
「美波に限らず、トランスの人ってそういうことを考えたりするのかな?」
「うーん……それはどうなんだろう」
わたしは答えながら切ったソーセージを口に運ぶ。これもチーズと同じように普段食べているものとは違う味がした。美味しくないワケではない。美味しいのだけど、舌が未熟なわたしには美味しいということしか言葉で表すことができなかった。
「他の人のことは分からないっていうか……他の人を知らないんだよね。わたしってさ」
「あ、そうなんだ?」
「そうなんだよ。わたしって、今に至るまでの過程がイレギュラーだったと思っていたから……って、そんなに意外だった?」
彼が意外そうな顔をするから、わたしは思わず聞いてしまった。
わたしが言ったように、わたしはあまり他の人と関わらないまま『ただの女』になったから、他の人のことなんて本当に考えたことがなかった。もちろん、わたしのことを助けてくれる人は居たのだけど。
でも、どうなんだろう……。
わたしのようなトランスに限らず、同じセクシュアリティの人同士で繋がりを持ってつるんだりするんだろうか。わたしは知らないので、よく分からないなとしかいえないけど。
「意外だったというか、ぼくは美波の他にトランスの人と出会ったりする事はこれまでにあったんだけど。みんなトランス同士で繋がっていたりしていたからさ、美波もそうなのかなって勝手に思っていたんだ」
「なるほどね。わたしはほんと、イレギュラーだったと思っているから、そういう繋がりってないんだよね。それにね、同じトランスの人と知り合わなくても困ることなんてなかったし。あと、繋がりがあったとしても多分合わなかったと思うな」
わたしは答えた。トランスの時点でいわゆる一般的な生きかたから外れてしまっているから、誰か話ができる人が居てもらえるほうが良いのは分かる。それでいうと、わたしにだってそういう人は居たのだから。それが同じトランスの人ではなくて中学生の頃からの親友だっただけで、その違いでしかない。
彼はわたしが答えたことに納得してそうだった。そんな彼の顔を見ながらわたしは「ねえ」と声をかける。
「なに?」
「もう一杯だけ良いかな?」
わたしは空になったカクテルグラスを突っつきながら言った。わたしの話を聞いていても表情は変わらなかったのに、彼はここでようやく顔をしかめた。
「美波、大丈夫?少し飲み過ぎじゃない?」
「大丈夫だよ、大丈夫。いいお酒だからなのかな?まだあまり酔った感じがしないんだよね。えへへ」
わたしは笑って答えた。酔いをあまり感じていないのはそうなんだけど、全く感じていないわけではなくて。少しだけふわっとして良い心地にはなっていた。
「わかった。でも、次で最後にしなよ」
「うん、約束する」
そう答えてわたしは次のお酒を注文した。今飲んでいたカクテルが美味しかったから同じものにした。
「それでさ、少し話を戻すんだけど。わたしの今に至るまでの過程がイレギュラーだったって言ったじゃない。これってね、はじめに話した性別の自認の話にも関係はするんだよ」
「え、そうなの?」
彼がそう言葉を返したところで、注文したお酒が運ばれてきた。わたしは一口飲んでから口を開いた。
「関係するというか、なんだろう。ひっくり返すほどじゃないけど、そんな感じかな」
わたしは話を止めてチーズに手を伸ばして口に入れる。うん、やっぱり美味しいな。
「でね、わたしがイレギュラーだと感じてることってさ。わたしは別に女になりたくて今のわたしになったわけじゃないってことがひとつの理由になるんだよね。とーりくんは昔のわたしを知ってるから分かると思うけど」
そこまで話して彼の顔を見た。彼はわたしの言葉に同意するように首を縦に振っていた。わたしたちは付き合い始めて1年半だけど、出会ったのは中学生の頃だったから、彼は昔のわたしを知っている。
「それで、これからどう生きてく?って決断する時にはもう女で生きていくことにシックリきたからってだけ。まぁ、その時にはもう男のまま生きていく状態にはなかっただけでもあるんだけどね」
彼は少し首を傾げたあと「待って」と言った。
「美波、それだとさ。さっきの性別の自認の話と違和感があるんだけど」
「うん、そうだよね。だから、わたしなりに考えてああいう結論にしたんだよね、折り合いをつけるために。そうやってわたしの立ち位置を確立させたってこと。まあ、その結論ってのは後付けだし、違和感を上書きしてなかったことにしているみたいだけどね」
そう言ってわたしはえへへと笑った。
「なんかさ、ここまでわたしが話してきたけど。結局のところ、わたしにとって一番シックリくるのが『ただの女』であることだった。それだけのことなんだよ。なんかいい加減に聞こえるかもしれないけど」
「いいや。いい加減だなんて思わないよ。こういうこと聞いたことなかったし聞けてよかった。でもね、美波。ひとつだけ教えてもらえないかな?」
「なにかな?」
「ここまで話してくれたけど、ぼくにはどうしても気になることはあって。美波はさ、後悔とかはなかった?」
彼の言葉を受けてわたしはゆっくりと目を瞑った。後悔は全くなかったとは流石に言えない。ただ後悔って、その時の自分の環境とか状態で変わると思っている。だからどう答えたものだろうかと少し考える。
「ないよ」とわたしはハッキリと答えた。少し考えた結果がこの短い言葉だった。
少なくとも過去に後悔したことはあった。だけど、今のわたしにはその時の後悔も許容できるから、今ではもう後悔はないということにしている。
「後悔はないよ、後悔した時期はあったけど。でもね、これは結果論だとは思うんだけど。わたしはこうやって『ただの女』でいることを選んだ。それで、今はこの通りとーりくんの恋人になった。わたしにはさ、これだけで十分なんだよ」
自分でもなにを言ってるんだろうと突っ込みたくなるようなことを言っていた気がする。決して酔いから変なことを口走ったわけではないのだけど。
「美波さん、地味に恥ずかしいこと言ってるけど、もしかして酔ってる?」
「どうかな?わたしはあなたに酔ってるよ」
「あぁ……本当に大丈夫?お水もらおうか?」
彼は心配して言うけど、わたしは大丈夫としか答えなかった。それでも彼はどうやっても心配なようで、ホールのスタッフさんに水を頼んでいた。
運ばれてきた水を彼に促されるまま飲む。酔いが覚めるということはないけど、少し頭がクリアになったような気がした。
「ちょっと、お手洗いに行ってくるね」
わたしはそう言って、鞄からポーチを取り出すと席を立った。すぐにお手洗いの場所が分からず、ホールのスタッフさんに聞くとお手洗いの前まで案内してくれた。
案内してくれたスタッフさんにお礼を言ってからお手洗いの中に入る。用を足したあと、メイクを直すために鏡を見ていた。
うん、うまくないねこの顔は……。
鏡に写るわたしの顔にそんなことを思いながらメイクを直していく。手早くメイクを直し終わってからも、しばらくそのまま鏡に写る自分と向かい合っていた。ため息をつくと鏡の中のわたしも同じようにため息をつく。メイクは直したけど、見て分かるくらい疲れた顔をしていた。
聞かれれば話すよ、なんて自分から言っていたのにこの有様だ。でも、話をしたくないわけじゃないし、彼には話すことを知っていて欲しいと思っているから話をした。だけど、話したなりにわたし自身がダメージを受けてしまう。これは避けられないことだった。
折り合いがついたとわたしは話していたけど。どこか自分の深いところではそうじゃない部分があって、それでダメージを受けるのかもしれない。だから話をして受けるダメージを感じるたび、わたしはなんともいえない気持ちになる。
だけど、彼にこの疲れた顔を見られたくないし、そのせいで無理をしてわたしが話をしたと思われたくもない。無理して話をしていることは全くないのだけど。とにかくわたしには、彼を心配させたくない気持ちがいちばんにあった。
わたしはもうひとつため息をついてから「よしっ」と自分に言って、席に戻っていった。
「大丈夫、美波?なんか疲れてるように見えるんだけど」
席に戻ってすぐ彼はわたしの顔を真っ直ぐ見て言った。
ああ、心配させたくないと思ったのにすぐこれだ。こういうところに彼は本当によく気づくなあ。
「うん、ちょっと酔ってきたかも……」
だからわたしはそう答えて、お酒のせいにすることにした。彼を心配させたくないから。こういう嘘はわたし自身が好きじゃないのに、嘘をついてしまうわたしが少し嫌になる。
「なら、早めに帰ろうか?」と彼は優しく聞いた。
わたしがいつもよりはやいペースでお酒を飲んでいたことは、彼はあえて言わないでいるようだった。
「いいの?せっかく来たのに」
「いいんだよ、また来ればいいだけだから」
「じゃあ、次はプロポーズかな?」
「それだとネタバレになっちゃうよ」
「そっか、そうだよね。なら楽しみにしているよ」
「それ、地味にプレッシャーだなぁ……」
彼は頭をかきながら答えた。そんな、プレッシャーだなんて感じなくてもいいのに、と思いながらわたしは彼を見ていた。
「じゃ、行こうか?」
「うん。あれ、でもお会計は?」
「たぶん美波が戻ったら帰るだろうなって気がしてね。済ませておいたよ」
わたしがお手洗いに立つ前から彼はわたしの様子に気づいていたんだろうな。わたしがどうにか疲れている顔を彼に気づかれないようにしてたのに、意味がなかった。
「ありがとう。でも、わたしは無理して話をしたわけじゃないからね。本当だよ?」
「うん、分かってる。というか、美波じゃなくてもああいう話をすると疲れると思うよ。さっ」
そう言いながら立ち上がってわたしの側までくると、手を差し出した。わたしはその手を取って立ち上がる。それから、来た時と同じように腕を組んでバーを後にした。
ホテルを出ると涼しい風が吹いていた。お酒を飲んで少し火照った身体に、その風はとても気持ちのいい春の夜風だった。