第9話 噂になる君
夏休みが終わり、2学期が始まって間もない頃。
学校から帰宅したおれは珍しく姉に相談したいことがあった。お風呂を済ませたあと、姉にはおれの部屋に来てもらった。
「どうしたの?何かあったのかな?私に相談だなんて、そんなこともあるんだねえ」
姉自身もおれが相談することが珍しいことだと分かっているようなんだけど、相談に乗るというよりは興味津々といった様子だった。
姉はいつものようにベッドに座っている。おれもいつものように机の椅子を姉に向けて座った。姉の手がギリギリ届かない距離感で。別に何か警戒しているわけではないんだけど、なんとなくこの距離感になっていた。
「ええとね、相談したいことなんだけど」
「なにかな?」
「夏休みが明けてからなんだけど。おれ、学校で誰かに見られてる気がするんだ……」
「へっ?」
姉が思っていた相談内容とは違っていたのか、姉の口から間の抜けた声が出た。そしてすぐ眉をひそめて渋い顔をした。
「相談って、それだけ?」
「そうだけど。姉さんはそんなことって思ってるかもしれないけど。おれにとってはすごく気になることなんだよ」
「あははっ!いいね、みなと」
「そんなに笑わないでよ。おれ、本気で言ってるんだよ?」
「分かっているよ、あはは」
それでも姉はなかなか笑いが止まらずにいた。笑う気になれないおれは、姉を見ながらため息をついてしまった。
もしかしたら、おれは相談相手を間違ったのかもしれない。身近にいるからという理由で姉に相談したんだけど。こればかりは学校で堀田さんに相談したほうがよかったのかもしれないと思い、ちょっと後悔した。ここであかりちゃんの名前が出なかったのは、なんとなく姉と同じような反応をするんじゃないかと思ったからだった。
「見られているというのはさ、みなとがモテるからじゃないかな?」
「またそういう話なの……」
「そういう話だよ。みなとは可愛いからモテるんだよ。だから見られているんじゃないかな?」
「うーん……」
姉に言われても、おれはあまり納得できていなかった。それくらいのことで、とは思うし。それに、おれ自身が劇的に変わったわけじゃない。むしろ、変わっていないとすら感じているのに。
「それなら、なにか噂されているとか?何か思い当たることはない?」
思い当たること、どうだろう。あかりちゃんや堀田さんといった仲の良い女の子はいるけど、それくらいで噂になるものだろうか。
「噂かぁ、だったらやだなぁ……」
なんて、それもあまり納得していない感じで、この時のおれは答えていた。
「ねぇねぇ、湊くん。ちょっといいかな?」
昼休みになってお弁当を食べ終えた後、あかりちゃんがおれの席までやってきて声をかけた。
「どうしたの?」
「あのね、湊くん。なんか最近、視線を感じたりしない?」
ああ……。
あかりちゃんも同じことを感じていたみたいだった。おれだけじゃなかったと少しだけ安心してしまった。
「見られてる気はするよ。誰からとか、そういうのは分からないんだけど」
「やっぱり、同じだね。でさ、それって夏休みが終わったころからだったらしない?」
「うん、そう」
「そっかぁ、あたしだけじゃなかったんだ。なんなんだろうね?」
あかりちゃんは首を傾げていた。
おれとあかりちゃんが同じように視線を感じている。それも同じように夏休みが終わってから。ここまで同じことがあると、姉が言っていた噂ということもありえないことではないと思えてくる。
「なんか、嫌とかよりも気になっちゃうよね?」
「慣れたら平気になるのかなぁ?」
「それはないと思うなぁ……」
そう答えたおれは楽観的すぎたかもしれない。あかりちゃんは顔をしかめていた。
そんなふうに過ごしていると、パタパタと小走りで堀田さんがやってきた。いつも落ち着いている姿しか見せないから、思わず二度見してしまった。
「堀田さん、どうしたの?」
「どうした、じゃないわよ。本当、あなたたち……」
堀田さんはおれとあかりちゃんへ訝しげな視線を送った。何かあったんだろうか。様子からしてもおれとあかりちゃんが関係していそうなのは分かる。
「あなたたち、付き合いはじめたのなら私にも教えなさいよ」
「え?」
思いもよらないことを言われて変な声が出た。そしてあかりちゃんと同時にお互いの顔を見合わせる。
おれとあかりちゃんが付き合っているなんて。そんなことはないと思うんだけど。というか、そんな話がどこから出てきたんだろうか……。
「ちょっと待ってよ、千尋。あたし、なんのことだか。湊くんと付き合っているなんて、そんなことはないよ。ね?」
「うん。あかりちゃんとは仲はいいけど、付き合ってはいないと思う」
あかりちゃんに同意を求められて答えた後、おれも堀田さんへ言った。それでも堀田さんからは全く納得した様子が見られない。
「なら、なんで噂になっているのよ」
「噂?」
おれとあかりちゃんは見合ったまま首を傾げた。というか、噂って。まさか、本当に噂になっているなんて。
「あなたたちが付き合っているって、噂になっているのよ」
「ウソでしょ、なにそれ……」
あかりちゃんは驚いているようだけど、ウンザリした表情をしていた。噂の的になるのが嫌と言っていたから、そうなるのも分かる。おれもウンザリではないけど、苦々しい顔をしていた。
「もしかして、噂のことを知らなかったの?というか、大丈夫?ひどい顔をしているわよ、あなたたち」
「大丈夫じゃないよ。なんで噂なんかになるのよ……」とあかりちゃんが言う。
「あなたたち、いつも仲良さそうにしているし。噂になってもおかしくないとは思うけど?」
「そうかなぁ……そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ……」
「じゃあ、あかりは沢田君のことが好きではないということかしら?」
「ううん、そんなことはないんだけど……」
あかりちゃんはチラチラとおれの様子を伺いながら言った。
「噂かぁ……」とおれは声を漏らした。
「沢田君は噂のことを知っていた?」
堀田さんに聞かれて、おれは首を横に振る。
「知らなかったよ。だけど、姉からは噂になったりしているんじゃないの?って言われたから」
「待って、湊くん。それさ、お姉さんにあたしのこと話したってこと?」
さすがに言い方が悪すぎた。あかりちゃんがすごい顔をしておれを見るので、おれはすぐに「そうじゃないよ」と首をブンブンと横に振って否定する。
「ほら、さっきから話してた視線を感じるって話。それを姉に相談してたんだって」
「ああ、そういうことなのね。ほんと、ビックリした」
「視線を感じる?どういうことなの、それ」
堀田さんがおれに聞く。おれは「それはね」と前置きをしてから話しはじめた。
「夏休みが終わってからなんだけど、なんか学校で人の視線を感じるようになったんだよ。それで、気になるよねって話をあかりちゃんとしてて。なんでだろうって思ってたけど、噂の的ならそうなるよなぁ」
「他人事みたいな言いかたをしているけど、沢田君は無関係ではないのよ。分かっている?」
「分かってるよ。視線を感じるよりも、その原因が分からないことのほうが気持ち悪くて。その分だけど、少しだけスッキリしたから……」
「はぁ……まあいいわ」
堀田さんは呆れてはいないようだけどため息をついていた。
「それで、あなたたちはどうするの?噂は広まってきているけど、誰が広めたのかってまだ分かっていないようなのよ。あかりが噂になることが嫌なことは知っているけど、どうするの?噂が落ち着くまで沢田君とは距離を置く?」
堀田さんは真剣な表情であかりちゃんに言った。幼馴染なんだから心配なんだろう。あかりちゃんはすぐに答えないで「うーん……」と考えはじめた。
あかりちゃんの答えを待っているうちにチャイムが鳴ってしまい、あかりちゃんは「ちょっと考えさせて」と答えて、次の授業が始まる前に解散した。
その日の放課後、あかりちゃんが部活に行く前にまた3人で集まった。昼休みの時はおれの机だったけど、今度は教室の扉から遠い窓際の堀田さんの席だった。
「あのね、あたし考えたんだけど……」
早速、あかりちゃんがさっきの答えを話しはじめた。おれと堀田さんはあかりちゃんに視線を向けて続く言葉を待つ。
「湊くんとは、このままがいい……と思ってる。噂の的になっちゃったのはイヤだけど、湊くんと距離をとることのほうが今はイヤだから」
あかりちゃんはハッキリした口調で言った。おれはあかりちゃんがどう答えるのか気になっていたので、このままがいいという答えを聞いてゆっくり息を吐いた。たぶん、距離を置くと答えなかったから安心したのかもしれない。
「良かったわね、沢田君」
「なんでよ?」
「ふふ、いいじゃないの」
堀田さんは笑って誤魔化した。よかったといえばよかった、ということなんだけど。さすがに堀田さんが居る前でよかったなんては言えなかった。
「だけど、噂のことはどうしよう。こればかりは我慢するしかないよね?」
あかりちゃんは同じ噂の当事者のおれに聞いた。おれは「うーん」と少し考えてから答える。
「噂が誰から広められたか分からないんじゃ、止めようがないもんね。我慢するよりは無視する感じ?あとは噂が落ち着くまで待つしかない気がする」
「そうよねぇ……」と答えて、あかりちゃんはため息をついた。
「でもさ、噂されてるのってあかりちゃんだけじゃなくて、おれもだから。ひとりより少しは楽なんじゃないかな?」
そうは言ってみたけど、すぐにそれがどうしたって感じだよなぁ、という気持ちになってしまった。もう少し気の利いたことを言いたかったんだけど。
「うん、ひとりで悩まなくていいのはあるよね。湊くんもさ、困ったらあたしに相談してよ」
「ねぇ、あかり。そういう時は沢田君に男らしく守ってもらえばいいのよ」
堀田さんがおれを見て言うと、おれからは「ははは……」という乾いた笑いが出る。おれが肯定も否定もしなかったから、そこで話が切れてしまい、しんと静かになった。
普段からおれに対して可愛いと言っているのに、こういう時には男らしくって言うんだ。なんて思ってしまったけど、口には絶対にできないなとも思った。
「別にあたし、守ってもらわなくてもいいよ。それに、そういうのはお互い様だと思うんだ。ね、湊くん?」
「だね」とあかりちゃんに同意を求められたので頷いて答えた。あかりちゃんが言うように、おれとあかりちゃんの間だと、お互い様っていうのがちょうどいいと思う。
「これで噂をどうするかは決まった、ということでいいのかな?」とおれは2人に聞いた。
「そうね。このあと部活のあかりをあまり引き留めてもいけないから、これでこの話は終わりにしましょう」
「うん。それじゃあたし、部活に行くね。またあしたー」
そう言って、あかりちゃんは勢いよく教室から出ていった。
「沢田君は帰って家事をするのよね?」
あかりちゃんを見送って、堀田さんと2人になる。少しの沈黙の後、堀田さんはおれに聞いた。
「そうだよ。堀田さんは部活?」
「私も部活には入っていないの。別に習い事があるから。何をしているかは教えるつもりはないのだけど」
「聞かないって。ただちょっと羨ましいかも」
「そう」と堀田さんはいつもの調子で言葉を返した。
どうしても家のことがあるから、おれは習い事とか部活動をしないようにしている。だから、そういうものに対して羨ましく思う気持ちはあった。
「それなら何か部活動でもやればいいのに。野球部とか?」
「それだけは絶対やだな。というか、やりたいって言えばやれるとは思っているんだよ。おれの姉もきっとやればいいって言うはず。でも、おれはそれで姉の負担を増やすのが嫌だから、やらないんだよ」
「そうだったのね。そう考えているのなら、無理に勧めることなんてできないわ。それよりも、沢田君にお姉さんがいたなんて、初めて聞いたわ」
「あれ、そうだっけ?」
堀田さんは家で家事をしてるってことは話しているから知っているし、姉のことも話していた気がしていたんだけど違ったらしい。でも、堀田さんなら知られてもいいという気持ちはあったから、これで構わない。
「それに、シスコンね」
「ああ……それを言われちゃうと違うとは言えないかも」
「ふふっ。安心して、誰にも言わないであげるから。それじゃあ、私たちもそろそろ」
堀田さんは鞄を手に取って、おれと揃って教室を出ていった。
隣を歩く堀田さんは春からまた身長が伸びたようで、おれとの身長差は広がっていた。学校を出て堀田さんと別れる時、おれは堀田さんの顔を少し見上げながら「それじゃ、またあした」と言って別れた。
噂の出所は分からないままだけど、視線を感じる原因が噂にあると分かれば、その視線を噂のせいにして気にしないようにするようになった。
それでも噂は落ち着くことなく、広まるようなこともなくという感じで。そんななかで過ごしているうちに、2学期の中間テストが終わっていた。
「湊くん!見て見てー」
休み時間になるなりあかりちゃんがおれの席に来た。なんだろうと思って見てみると、あかりちゃんはおれに向けて中間テストの成績カードを向けていた。
「あ、すごい!10位以内になったじゃん。おめでとう、あかりちゃん」
あかりちゃんの持つ成績カードに書かれていた順位はクラス8位だった。
「えへへ、ありがとう。でさ、湊くん。あの約束は覚えているよね?」
「約束?」と言われて首を傾げる。だけど、すぐに思い出した。夏休みの課題をするため図書館に行った時、クラスで10位以内になったらお祝いをするという約束をしていた。
「じゃあ、お祝いをしないとね」
「うんうん。あたしね、今度のお休み空いているんだよね」
そう言いながら、あかりちゃんはおれの顔を覗き込んできた。言わなくても分かるよね?という無言の圧力を感じる。
「土曜日と日曜日、どっちがいい?」
別におれだって何か予定があるわけではない。というより、姉にどこかへ連れていかれるなら、今はあかりちゃんと過ごすほうがいいと思っている。
あかりちゃんは笑顔を見せて「うーんとね……」と考えていた。
「日曜日がいいかな?」
「じゃあ日曜日で。場所は考えておくよ」
「ありがとう。でも、あたしも考えたいな。だから土曜日に電話してもいい?」
「うん。なら土曜日に決めようか。前日だけど」
「前日でもいいって。あたしと湊くんのふたりだけなんだし」
それもそうか、と思いながらおれは「そうだね」と答えた。
これまであまり友達と出かけることがなかったから、休日になっても家にいることが多かったのだけど。夏休み以降、まだ回数は多くないけどあかりちゃんと出掛けるようになった。他の人からすれば当たり前のことなのかもしれないけど、おれにとってはそれが新鮮なことだった。
日曜日になって、あかりちゃんと待ち合わせたのは駅前のあれだった。
今日は初めてあかりちゃんより早く待ち合わせ場所に着いて、あかりちゃんが来るのを待っていた。
前日の電話で、なぜか着ていく洋服の色を合わせたいという話になって、今日はどこかに緑色を取り入れるってことになった。
だから今日のおれはカーキのくるぶし丈パンツにタンクトップを着て、その上から日焼けしたくないからオーバーサイズのパーカーを着ていた。
「おまたせ、おはよう湊くん」
あかりちゃんは涼しい顔で言った。髪が乱れていたから走ってきたんだろうけど、夏休みのおれのように息が上がっているような様子はなかった。
「今日は湊くんが早かったね」
そう言ってあかりちゃんはおれに背を向けて、乱れた髪を直し始めた。ちゃんと鞄に手鏡が入っているあたり、女の子だなと感じた。
「ねぇ、大丈夫かな?変じゃないかな?」
髪を直してまたおれに向き直すと、おれに聞いた。
「うん、大丈夫。ええと……可愛いと、思う」
「なんか無理して言わせちゃった感じするなぁ……」
あかりちゃんは照れくさそうにしていた。それから顔から足元までおれの姿を見ていた。
「緑色はズボンに使ったんだね」とあかりちゃんはおれの履いているパンツを指して言った。
そんなあかりちゃんは、緑色をパーカーに使っていて、シフォン生地のふわっとしたロングスカートと合わせていた。可愛いけど、パーカーがある分アクティブな感じがして、あかりちゃんらしい。
「もしかしたら、湊くんは羽織るものを緑色にするかも?なんて思ったんだけど、外れちゃった。でも、ふたりともパーカーで同じだね」
「だね。おれあまり肌とか見せたくないし。あと、日焼けしたくないから」
「……なんだろ、それ。湊くん、女子力高い……あたしじゃ勝てない気がする」
何を言っているんだろう。日焼けが嫌なんて男女関係ないと思うんだけど。
「女子力って……おれ、男だからね?」
「知ってるよ、ふふ」とあかりちゃんは笑った。
もしかして、おれに『おれ男だから』って言葉を言わせたいたいだけなんじゃないか。そうではないと思いたいけど。
「さ、湊くん行こう」
あかりちゃんはおれの手を引いて歩き出した。なんかおれ、いつもあかりちゃんに手を引かれている気がする。
待ち合わせをした駅前のあれを出発して、駅から離れる方向へ歩いていく。駅から少し歩くと広い産業道路が通っていて、その産業道路沿いにあるファミレスに向かっている。
駅前にもファミレスはあるけど、いつも混んでいるし知り合いに会うかもしれない。だから、駅から離れたファミレスに行こうってことにしていた。
出発して20分ほど歩いて目的のファミレスに到着した。思っていた通り店内は空いていて、おれたちは産業道路に面した窓側の席に案内された。
先に2人分のドリンクバーだけ注文して、飲み物を取りに行く。
「湊くん、温かいの飲むの?」
ティーポットにお湯を注いで紅茶を淹れていたら、隣で冷たいブレンド茶をコップに注いでいたあかりちゃんに聞かれた。
「冷たい飲み物って苦手なんだよね。お腹壊しちゃうんだ」
「そうだったんだ。お母さんも同じことを言っていたかも。やっぱり、女子力高いって」
「はいはい」
またさっきのように女子力高いと言われたから、試しに塩っぽく対応をしてみる。というか、そんなことでも女子力とか言われてしまうのか。もう、なにが女子力なのか全然分からない。
「もう、ひどいなぁ」
「だってさ。おれに女子力って言われても困るから」
おれがそう答える頃にはあかりちゃんもコップを手にしていたので席に戻った。
窓際の席に対面で座って「それじゃあ」とおれは言ってから、
「あかりちゃん、おめでとう」と言ってドリンクバーの飲み物で乾杯をした。
「ありがとう、嬉しいな。あたし、湊くんにお祝いしてもらいたくて頑張ったんだから」
あかりちゃんはおれに向けて小さくガッツポーズをとった。頑張って結果が出たんだから、嬉しい気持ちはよく分かる。おれまで嬉しい気持ちになった。
「あとはこの調子が続けばいいね」
「それって、またお祝いしてもらえるってこと?」
「なんでよ……それはないから」
「ふふっ、分かってるよ。ていうかさ、あの噂だけど。すぐに落ち着くと思ってたのに、全然だよね」
笑顔からうんざりした顔に変わってあかりちゃんが言った。その言葉通りで、夏休みが明けて噂のことを知ってから、いまだに噂はゆっくり広まりつづけている。
噂の内容だって、あれ以上に何かあるわけじゃなかった。だからなんで広まるのか、なんて感じるところはあった。ただ視線を感じることだけは前ほど気になるようなことはなくなった。ただ慣れただけかもしれないけど。
「やっ」
噂の話をしていたら、誰からか声を掛けられて顔を向けた。
「げっ、森田……」
相手の顔を見るなりあかりちゃんが言った。心底面倒くさそうな顔をしている。
突然現れた森田くんは学校指定ではないトレーニングウェアを着てイヤホンを首に掛けていた。もしかしたら自主練をしていたのかもしれない。
「ひどいなぁ、そんな言いかたすることないだろ?」
「いやだって、せっかくのお祝いなのに……はぁ……」
大きくため息をついて、おれには見せたことのないような出来る限りの嫌そうな顔をして、あかりちゃんは森田くんを睨みつけていた。
「お祝いってなんだよ?どう見たってデートじゃないか。やっぱりあの噂、本当だったんだな」
「違う、違うって。森田くん、そんなんじゃないから」
森田くんから噂という単語が出たから思わず否定した。森田くんはおれの言ったことを信じてなさそうな様子でおれを見ていた。ここで折れてしまうと噂のことを認めてしまうことになりそうで、おれは森田くんの顔を見返していた。
「……そっか。なら、あの噂はウソなんだな?」
「そうよ、当たり前じゃない。あたし達だって迷惑しているんだから」
「それなら、いいか……」と小声で言って表情を緩めた。それがおれには森田くんが噂が嘘で安心したように見えた。
「それで、お祝いってなんなんだ?」
「中間テストで成績が良かったらお祝いしてあげるって約束をしてて。それが今日ってこと」
まだあかりちゃんは森田くんを睨みつけているから、おれが森田くんに話した。
「そうか、なら僕も少しだけ……」
そう言いながらおれの隣に座ろうとした森田くんに「ダメ!」とあかりちゃんが声をあげて制止した。
「なんだよ?いきなり大声で、ビックリするだろ。てか、何がダメなんだ?」
森田くんは驚いて座ろうとしていた姿勢からまた立ち上がった。それに続くようにあかりちゃんも立ち上がる。
「あんたはこっち。なんか、湊くんの隣に座られるのがヤダ」
あかりちゃんは森田くんをおれの対面側の席に押し込んで、おれの隣に座ると満足そうに「これでいいの」と言った。
森田くんはおれの対面に座ったけど「これ、どういうことなんだよ?」と困惑気味だった。
「ところで、森田くんはどうしてここに?」
おれは森田くんが少し落ち着いてから聞いた。森田くんが現れてからずっとなんでだろうと思っていた。知っている人に会わないようにこのファミレスを選んでいたから、まさか知っている人に会うなんて、思いもしなかった。
「ああ、そのこと。この産業道路、僕のロードワークの通り道なんだ。それで、ここを通り掛かったら沢田君を見つけたんだよ」
「それなら見なかったことにしてくれても良かったのに」とおれは言葉を返した。ごもっともなことだとは思う。
「そうよそうよ、なんでわざわざ来るのよ!」
あかりちゃんがおれに続けて言った。なんか少しずつ喧嘩腰になってきた気がする。それでも森田くんはあかりちゃんをスルーしておれだけを見ていた。
「ずっと目をつけていたからな、沢田君のこと」
「うわぁ……なにその言いかた……」
「なんだよ、ちゃんと答えたのにこれかよ。でもマジだからな。てか、矢本。お前はいい加減落ち着けって」
「あたしは落ち着いてるよ」とは答えたけど、まだどう見ても落ち着いた様子ではなかった。あかりちゃんは、ゆっくりと深呼吸をして冷たいブレンド茶を飲んだ。それからもう一度ゆっくりと深呼吸をして、ようやくいつもの表情に戻っていった。
「ちょうどいいから聞かせて欲しいんだけどさ。森田は噂のことをどう聞いてるわけ?」
あかりちゃんが森田くんに聞いた。それはおれも気になっていることだった。だいたいこんな噂というのは聞いているけど、おれもあかりちゃんも当事者だから、それ以外のことがいまだによく分かっていなかった。
「2人が付き合っているって内容なのは知ってるだろ?」
森田くんに言われて、おれとあかりちゃんはほぼ同時に頷く。
「僕だって知っているのはそれくらいだけどさ。それで、矢本は陸上部でも目立っているし、男子からは人気あるからな。そのへんは噂の前からだったから、関係ないんだけど。ただ、野球部で矢本のことを好きだったやつはショック受けてたぞ」
「まじで!あたし、そうだったんだ」と驚くあかりちゃん。それを見て森田くんは呆れ顔で「お前なぁ……」と言った。
「お前モテるんだからな、自覚しろよ。でさ、モテるってこととは違うかもしれないんだけど、沢田君のこと可愛いって言ってる女子はうちのクラスにもいたりするんだ」
「うわぁ……やだなぁ……」
森田くんに言われて驚いたおれが何か言うよりも早くあかりちゃんが言った。少し嫌悪感のある言い方だったけど。
「ほら、沢田君って部活やってないし、これまであまり目立たなかっただろ。だから、そんな可愛い子が居たんだって。これはクラスの女子から聞いたんだけどな」
「そっかぁ……大変だな」
ようやく言葉を発したけど、あまり聞きたくないような話だったから他人事みたいな言い方になってしまった。
というか、可愛いでもモテるのか?そんなもんなのかなぁ……。
「それもしかして、湊くんのことで別な噂になってたりしない?」
「いや、そこまでじゃない。噂になりそうなのは分かるけどな。男の僕だって、沢田君のことは可愛いって思ってるんだぜ」
「うわぁ……森田、ちょっとそれはどうなの?ていうか、あんただってそう変わらなくない?」
「それはないって。僕は童顔なだけだから」
森田くんはそう言い切った。確かに童顔で済まされるなら、それがいい気がする。
気になっておれは携帯電話で自分の顔を見てみた。森田くんの言うようにおれも童顔だからといえるかなと思ったけど、自分ではよく分からなかった。
隣でおれの様子を見ていたあかりちゃんが「湊くん?」と聞いた。おれは携帯電話をテーブルの上に置いて「ええと……」と言ってから続けた。
「おれも森田くんみたいに童顔って言えばいいのかな?なんて思って。それで自分の顔を見てたんだけど、よく分からなくて。ははは……」
おれは笑っていたけど、あかりちゃんは難しそうな顔をして「うーん……」と声を漏らした。答えづらそうに見える。
「沢田君はさ、童顔とは少し違うと思う。やっぱり、童顔じゃなくて可愛いんなんだよな。矢本も分かるだろ?」
「あ、うん。そうなんだけど……」とあかりちゃんは答えた。
「あとなんだろうな。雰囲気なんだと思うけど、沢田君ってなんか守りたくなるんだよな」
「うん、それはあたしも分かる気がする。けど、それを森田が言うのはちょっとキモい……」
「うわ、マジかよ」
「そうよ。だから、そっちに座らせたんだし」
「マジかよ……それ、流石にショックだな」
森田くんは分かりやすく肩を落とした。少し俯いていたけど、すぐに立ち上がった。
「なんか、沢田君と話したかっただけなのに、僕は邪魔しただけみたいだな。しかもキモいとか言われるし。はぁ、へこんだから今日はもう行くわ。沢田君、また学校で」
そう言い残して森田くんはファミレスから出て行った。対面に座っていた森田くんは居なくなったけど、あかりちゃんはそのままおれの隣に座っていた。
「あーーもう……」
少しの間お互いに黙っていたけど、急にあかりちゃんが大きい声で言ったあと、勢いよくテーブルに突っ伏した。
「あかりちゃん?」
ビックリしてあかりちゃんに声を掛けた。あかりちゃんはそのまま動かないで応答もなかった。「大丈夫?」と少し間を置いてからまた聞く。それでも応答はなく、流石に心配になってきた。
それからすぐ、あかりちゃんは突っ伏した姿勢のまま顔だけをゆっくりおれに向けて「あたし、ダメだなぁ……」と弱々しく言った。
「なんかね、ほかの女の子が湊くんのこと気になってるって聞いて、あたしすごく嫌だなぁって思っちゃった。そんなこと思っちゃうあたしも本当に嫌……」
「あかりちゃん……」
「いいの、湊くん。あたしがひとりでやだなぁって感じてただけなんだから」
あかりちゃんはゆっくり息を吐いてから身体を起こした。その顔に笑顔はなかったけど、おれに顔を向けると笑顔を見せた。
「あたしさ、なんか湊くんと付き合ってるって噂になっちゃうの、分かる気がするなぁ……でもなぁ……」
自分にも言い聞かせているような言い方をしたあかりちゃんを見ていると、おれにもちょっと分かるような気がした。
「あのね、あかりちゃん。ええと、なんで言えばいいかなぁ。その……あかりちゃんがそう感じていたとしても、それなら付き合うってことになる必要なんてないと思う。それこそ、噂通りってなるだけだし……って、違ってたら、ごめん」
きっとそういうことを考えていたんじゃないだろうかと思っていた。だからその通りに言葉にした。あかりちゃんは無言のままで頷いた。
「そうだよねぇ……なら、別に今のままでいいんだよね?あたしたち」
「うん」とおれは短く答える。
今のままということに異論はないんだけど。それはたぶん、おれとあかりちゃんの人との付き合いかたが同じ立ち位置だから成り立つことだと思っている。だから、この先どちらかの立ち位置が変わると成り立たなくなるはずだ。そんな脆い今のままだけど、おれはそれでいいと思っていた。
「じゃあ、このお話は終わりにしよ。せっかくのお祝いなのになんか変な感じになっちゃったなぁ。ごめんね、湊くん」
「ううん、いいって」
「ていうか、森田のせいで食べるものまだ頼んでないじゃん」
あかりちゃんはメニューのタブレット端末に手を伸ばしてメニューをおれにも見えるようにテーブルに置いた。
「せっかくだし甘いものでも食べようよ、湊くん。それでお祝いを仕切りなおしにしよ」
「そうだね、何にしようかな」
小さいタブレット端末を、身を寄せ合って2人で覗き込む。どれにしようか話しながらパフェを注文した。
「楽しみだね」
タブレット端末を置きながらあかりちゃんは言った。その後もあかりちゃんはおれの隣に並んで座ったまま、運ばれてきたパフェを食べてお喋りをして過ごしていた。
そんなおれたちは、周りからはどう見えているんだろう。仲のいい友人同士なのか、そうではないのか。気にはなるけど、気にしすぎるとそればかり考えてしまいそうだった。それではいけない。
視線を横に向けると、美味しそうにパフェを食べているあかりちゃんがいる。その姿を見ていると自然と言葉が出た。
「楽しいね」