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構ってほしいきみ

 今年は何も起こらず誕生日を迎えて、わたしは24歳になった。相変わらず自分の誕生日は好きにはなれないままだ。だから、同居している父とも過ごさず穏やかに1人で過ごしていた。父には申し訳ないとは思っているけど、そこは父も理解をしてくれている。
 そんなわたしの誕生日から数日経った土曜日。わたしと彼は約束していた温泉旅行へ行く日を迎えた。
 最寄りの駅から電車に乗って一度都内に出る。そこから特急電車で2時間ほど。着いた駅を出ると『矢本灯里やもととうり様』と書かれた札を持った温泉旅館の運転手さんが、大きな送迎車でわたしたちを待っていた。
 ここから温泉旅館までバスに乗ったりするものだと思っていたわたしは送迎車にまず驚いてしまい、この旅のためにと彼とお揃いで新調したボストンバッグを手から落としそうになった。そんなわたしとは違って、隣にいる彼は予約した本人だから涼しい顔をしていた。
 教えてくれてもよかったのに、と彼に言いたくなるがグッと堪えた。
 送迎車に乗り込む時にわたしが頭をぶつけないように運転手さんが手を添えてくれて、そんな経験の無かったわたしは送迎車の座席についても落ち着かなかった。
「ねえ、とーりくん。これってチップとかいるやつじゃないの?」
 わたしは隣に座る彼の耳元に顔を寄せて小声で言った。何を言ってるの、という顔をして彼はわたしを見ながら「大丈夫だよ」とわたしの耳元で言った。
 送迎車の中で2人、そんなことしていたんだけど。会話の聞こえない運転手さんからすればわたしたちは仲良く見えていたのかもしれない。
 送迎車に乗って30分ほど山道を走っていくと目的地の温泉旅館に到着した。旅館の中から送迎車まで迎えに出てきてくれた和服の女性に案内されて館内へ入っていく。
 チェックインを済ませて部屋の鍵を受け取ると、送迎車まで迎えてくれた和服の女性がわたしたちを部屋まで案内してくれるようで、わたしたちは彼女の後をついていった。こんなに立派な旅館に泊まったことのないわたしには、まだ到着したばかりなのに初めてのことだらけで新鮮だった。
 わたしたちの泊まる部屋は旅館の本館ではなく別館のようで、チェックインをした受付からは少し遠く感じた。部屋の前に到着して一度鍵を着物の女性に預けると、開錠して扉を開けてくれた。
「え、広い……」
 部屋に入ったわたしは、部屋の広さを感じたままの言葉を口にした。
 居間の広さだけでもわたしの部屋と比べても仕方ないくらいには広いし、置かれている重厚な座卓はわたしが使っているものの倍くらいの広さがあった。比べる対象が自分の部屋になるあたり、わたしの世界の狭さを痛感していた。
「それでは、食事は18時ごろにお部屋にお持ちします。それまではごゆっくりとお過ごしください。それと、何かございましたら内線からご連絡ください」
 そう言って着物の女性は深々と頭を下げてから部屋を出ていった。
「さて、さて……」
 わたしは居間の隅っこに自分の荷物を置いて、さっそく露天風呂を見に行くことにした。
 まず脱衣所に入った時点でわたしは「すごーい!」と声をあげてしまった。脱衣所も広く、洗面台も大きくてアメニティも充実している。それだけじゃなくて、美容室でしか見かけないような高級ドライヤーが置かれていて、この時点でもう満足度は高かった。
 わたしは脱衣所から露天風呂につづく引き戸を開けて外に出ると、目の前に石づくりの露天風呂が現れた。写真で見た印象よりも大きくて、彼と2人で使っても余裕があるくらいの広さだった。露天風呂を囲う柵もしっかりと設けられていて、どこからか覗かれる心配もなさそうだった。
「やば、テンション上がる!」
 わたしは早く温泉に浸かりたい気持ちでいっぱいになっていた。
「とーりくん、すごいよ!お風呂、大きいよ!」
 一度居間に戻ったわたしはうわずった声で彼に言った。テンションが上がっているのは自分でも分かっていた。
「美波、分かったから。落ち着いて」
 わたしとは反対に落ち着いている彼はわたしを宥めるように言った。
「移動、疲れたでしょ?お茶を淹れるけど、飲む?」
「ううん、お風呂入りたい!」
 マイペースに畳の上に座ってお茶を淹れようとしている彼にわたしは答えた。旅館までの移動もそれなりに時間は掛かっているし、まずは休みたい彼の気持ちも理解できる。それでもわたしはお風呂に入りたかった。
 わたしは着替えの浴衣を探して2着出すと1着を彼に渡した。
「ありがとう、美波……て、美波。ちょっと待って、待って」
 浴衣を受け取った彼はわたしを見て慌てて言った。彼が慌てているのは、脱衣所に行かないでわたしが居間で着ていた洋服を脱ぎ始めたからだった。
 ちなみに、居間で服を脱いでいるのはわざとやっている。この前ホテルのバーで話をしたような距離感は、彼がわたしの身体にあまり興味を示さないことや積極的に触れようとしてこないことにも感じていた。そんなのわたしが欲求不満なだけでしょ、と言われてしまいそうだけど構わない。これで結果的に彼を焚き付けられれば良いのだから。この一泊二日の温泉旅行、楽しかったという感想だけで終わらせてたまるものか、というのがわたしが言葉に出さず心に決めていることだった。
 あわあわしている彼を気にもせずわたしは洋服を脱いでいく。もっと脱ぎやすい洋服を選ぶべきだったか、なんて思ったけど。彼の様子がちょっと可愛くて、これで良かったんだと思った。
 わたしが下着だけになる頃には、彼は座ったままわたしに背中を向けていた。こんなにも彼女の身体に興味のない彼氏はいるのだろうか。流石に少し不安になってしまう。
「ねえ、なんで背中向けてるの?」
 静かに彼の背後に膝をついて、覆い被さるように彼に抱きついた。不意をつかれた彼はビックリして身体をビクッと震わせた。
「ビックリした……」
「ビックリしたのはわたしだよ。なにそれ?」
 少しむすっとして彼に言った。彼は違うとばかりに首を横に振る。抱きつかれたわたしから離れようとはしないから、彼はわたしの身体に興味がないわけじゃないんだろうとは思う。
「あのさ、脱衣所あるんだし。ここで脱がなくてもいいんじゃないかな?」
「なんで?」
「なんでって……その、目のやり場に困るんだって」
「なんでよ、おかしいでしょ。わたしはとーりくんの彼女なんだよね?違わないよね?それにさ、この部屋にはふたりきりだし、鍵も掛けているし、外から覗かれることもないし。見る人なんてとーりくんしか居ないんだけどなあ」
「それはそうなんだけどさぁ……」
「ていうかさ。とーりくんはわたしの身体に興味がないってこと?」
 抱きついたままわたしは彼の背中に胸を押しつけてみる。ちょっと、と彼は言っていたけどわたしは聞こえないふりをして止めることはなかった。
「美波ってさぁ……こういうことするイメージはなかったんだけど」
「そうかな?とーりくんのそのイメージはさ、昔のわたしのイメージなんじゃない?さすがにさ、昔のままで変わらないってことはないよ」
「それはほら、昔のイメージと今の間がスッポリ抜けてるんだから。仕方ないって」
「それもそうだけど……なら、やっぱり分からせないとだめだよね」
 わたしは抱きつく力を強めて、ギュッと彼を抱き締めた。それでも彼はわたしから離れようとしない。やっぱり嫌ではなさそうに見える。それとも、単に動けないだけなんだろうか。
「ていうかさ、どうせ一緒にお風呂入るんだから。今脱ぐかどうかの差でしょ。ほら、とーりくんも脱ごうよ、お風呂行こうよ」
 彼に言ってからこれはセクハラになるんじゃないだろうか、と思ったけど気にしない。
「え、一緒に入るの?」
「えっ?」
 彼の言葉にわたしは言葉を失い脱力してしまう。抱き締めていた体勢からヘロヘロと畳の上にへたり込んだ。この状況でどうやったらそんな言葉が出てくるのだろうか。本当、クソボケすぎる……。
 わたしは額を彼の背中に乗せて息を吐いた。ガッカリしたという気持ちよりも、何か彼に対して無性にムカッとしてきて「ああもう」と吐くように言って立ち上がった。
「ねえ、とーりくん。恋人とふたりきりで温泉旅行に来てるんだよ?それもさ、お部屋にお風呂があって一緒に入れる状況なんだよ。なにそれ、一緒に入るの?って。意味わかんないよ、わたし。なんか馬鹿にしてる?」
 そう強く言い放ってからわたしは自分の脱いだ服をそのままにして、自分の浴衣だけ持って脱衣所に入ると扉をピシャッと閉めた。わたしは閉めた脱衣所の扉にもたれ掛かってため息をつくと、そのままずるずると膝を抱えてしゃがみ込んだ。
 もう……。
 わたしは昔のままで変わらないことはない、なんて彼に言ったけど。自分で言った言葉ほど変わったとは思っていなかった。2人で旅行する機会はこの先に何度だってあるんだと思うけど、わたしには次じゃ嫌だという焦りのような気持ちがあった。だから、わざとらしくこんなことをしているんだけど。
 というのも、彼と付き合い始めて1年半。本当に彼はわたしの身体にあまり触れようとしない。そりゃ、手を繋いだり腕を組んだりするけど、それ以上は彼からしてくれることはなかった。だから、キスをする時はいつもわたしからだった。
 だから、わざと彼が居るそばで服を脱いだりした。これで彼がその気になればわたしが感じているこの距離感も変わるかもしれない。なんて思っていたけど、はやくも心配になってきた。
 このまま考えていても仕方ない。とわたしは着ていた下着を脱いで雑に放ると脱衣所から露天風呂へ出ていく。身体を隠すためにタオルを巻いたりなんてしない、見られるとしても彼だけなんだから必要ない。
 湯船に浸かって足を伸ばしていたら「はあぁ……」と自然に声が出ていた。
「やば、幸せ……」
 この温泉に浸かっておいしい食事をしたら何もなくても満足してしまうかもしれない。そんなことが頭に浮かんでしまうほどだった。それではだめなんだけど。
「はあぁ……」ともう一度声が出る。
 わたしにとっては温泉に浸かること自体が久しぶりだし、ここは客室に付いている露天風呂なのにすごく開放感がある。だからわたしは、もうかなり気持ち良くなっていた。そんなとき、そーっと脱衣所の引き戸がゆっくりと開いて、腰にタオルを巻いた彼が現れた。
「ねえ、なんでタオルなんて巻いてるの?」と彼の姿を見てすぐわたしは言った。
「だって……あんまり見られたくないんだよ」
 彼はそう答える。それよりも、彼がわたしを直視しようとしないことが気になっていた。分かりやすく目のやり場に困っているという感じに見えた。彼はわたしをなるべく見ないようにゆっくりとわたしの隣まで寄ってくると、腰をおろして足だけをまずお湯に入れた。
 わたしは横目に彼を見ていた。彼が働く私立高校では運動部の顧問を任されるくらいだから、その身体は筋肉質で引き締まっていた。わたしはその筋肉につい見惚れてしまう。
「とーりくん、いい身体してるよね」と言いながらわたしは彼の脇腹を突っついていた。
「やめて、やめて。鍛えていても、脇はくすぐったいんだから」
 わたしが突っつくのを止めないでいると、彼はわたしの手をぱっと払った。脇は本当に弱いらしい、これは覚えておこう。
「ねえ、とーりくん。そのタオルはいつまで巻いてるつもりなの?」
「正直、外したくはないんだけど」
「外せばいいのに。ていうか、わたし見慣れてるし」
 数年前まで男だったわたしには、彼が恥ずかしがってタオルで隠しているものを別に見たところでなんとも思わない。それよりも隣にいるわたしを見てくれない彼に少し苛つきはじめていた。
「わたしの身体もちゃんと見てほしいんだけどな」と、つい言葉に出してしまった。もういい、思ってることは我慢しないで、このまま言ってしまおうと思って口を開いた。
「とーりくん、女の身体なんて見慣れてるしよく知ってるでしょ?まあ、わたしはニセモノだけどさ」
 言葉だけだとかなり酷いことを言った気がするけど、言ってしまったものは仕方ない。それでも彼は頑なにわたしを見ようとしない。本当にどうしたものだろうか。
 少し考えたけど何か面倒くさくなったわたしは、立ち上がって彼の前に立つ。彼と違ってわたしはタオルなんて巻いていないから当然全裸だ。
「ちょっ、美波っ」と彼は驚いて声をあげた。目の前のわたしから顔を逸らそうとする彼にわたしは「にげるな!」と強めに言った。ここまで言われてようやく彼はわたしに視線を合わせた。
「もう……わたしね、これでも自分の身体は気に入っているんだよ。そりゃ女のニセモノだし、身体にメスを入れたりもしたけど。それでもさ、今のわたしが一番わたしらしいって思ってるんだよ。だから、とーりくんにはちゃんとわたしを見て欲しいんだけどな……」
 わたしは言った言葉のように、彼に自分の身体を見せるように胸を張った。彼に見られていると、さすがのわたしも少し恥ずかしくなってきたから、恥ずかしさを隠すように座っている彼の膝の上に座った。
「あの、美波さん?」
「なんか座りやすそうだったから」とわたしは答えた。
 まあいいか、と彼は呟く。わたしは彼の手を取って自分の腰に回した。こういうことをさ、わたしがやるんじゃなくて彼からしてくれれば良いのにな。不満はあったけど、それはそれとして彼の膝に座るのは悪くなかった。
「ねえ、そろそろお湯に浸かろうよ」
 わたしは彼の膝を離れて隣に座り、彼の顔を覗き込んで言った。彼が頷いて同意をするのを待ってから、一緒に湯船に浸かった。
「はあぁ……幸せだなあ……」と気の抜けた声でわたしは言うと、彼はわざとらしく「温泉が気持ちいいから?」と言った。
「それ、わざと言ってるよね?もちろん温泉も気持ちいいけどさ。わたしはね、とーりくんと一緒にお風呂に入れるのが幸せって言いたいの」
 わたしは彼に身体を預けるように寄りかかる。幸せという言葉通り、わたしは緩んだ表情をしていた。
「なんか嬉しそうだね」
「まあね、うふふ」
 変な笑いかたをしていると、彼がわたしをじっと見ていることに気づいた。
「どうしたの?」
「あ、いや。なんて言えばいいんだろう。人体の不思議、かな?」
「なにそれ、どういうこと?わたし、失礼なこと言われてる?」
 わたしは彼にそう聞くと彼は違うとばかりにブンブンと首を横に振った。自分の身体に対して人体の不思議だなんて初めて言われたんだけど、もう少し言いかたってものはあると思うんだけどな。
「ぼくさ、トランスの人の身体を近くでよく見る機会はなかったから」
「えっち」
 わたしはわざと言って、寄りかかっていた彼から離れると自分の身体を両手で隠した。
「いや、そういう意味じゃなくて」
 なんて言いながらあたふたしている彼が可愛い。なんだよ、愛おしいな。
「うふふ、冗談だよ。分かってるって」
 わたしはそう言って、さっきよりも身体を密着させて彼に寄りかかった。
「とーりくんは本当、可愛いなあ……」
「なにそれ、美波。というか、可愛いのは美波のほうだって」
「やだなあ、うれしいなあ」
 たぶん彼以外には見せないし見せれないほど緩んだ顔をしていたと思う。
「でもね、人体の不思議ってとーりくんは言うけどさ。わたしは何もしないでこうなったわけじゃないよ?」
「そうなの?」
「そうだよ、当たり前じゃん。やっぱりさ、わたしなんかでもまわりからは綺麗とか可愛いって思われたいし、見られたいんだよ。それってさ、ファッションとメイクだけじゃやっぱりダメなんだよ。だから筋トレもするし、食事も気をつける。こう見えてさ、わたし結構がんばってるんだよ」
 わたしは両手で自分の胸を持ち上げてみる。彼はじっとわたしの胸を見ていた。
 やっぱり見ちゃうよね、とわたしは口にはしないで呟いた。
「自分の胸とかはさ、やっぱり女性ホルモンの効果が大きいけど。あ、豊胸はしてないよ。それにね、調べて出てくる情報ほど女性ホルモンって劇的な変化はしないんだよね」
「そうなんだ?」と彼は意外そうだった。
「うん、わたしみたいに女性ホルモンで変わることってさ。一番分かりやすいのは胸だけど、あとは贅肉が付きやすくなったり筋力と体力が落ちたり、貧血気味になったり。どっちかというといい面のほうが少ないんじゃないかな?」
「知らなかった。」
 わたしが女性ホルモンで現れる影響について話しをすると、彼は少し驚いていた。
 まあ、そういう反応にもなるよねって、とは思う。トランスの当事者のブログやSNSを見ていると『魔法のくすり』みたいに大袈裟でいい加減なことを書いてあるものをわたしも見たことはある。そういう情報に踊らされてしまう人もいるから良くないよなあ、とは思うけど。
「だからね、元々の骨格とか顔つき、あとは声かな。そういうのはどうやっても変わらないんだよね。声なんかはさ、ボイトレをして声の出しかたを変えることはできるけど、あとは美容整形しないとどうしようもないんだよね。顔いじったり、骨削ったり。あ、整形もしてないからね」
「美波は昔から可愛かったから、整形してるとは思わないし。それに必要ないでしょ」
「でも、したいなあって思うことはあるよ?」
「ええっ、十分でしょ」
「ぜんぜんだよ。物足りないよ、もっと綺麗になりたいもん」
「へえ、意外だった。美波って、美意識高いんだな」
「えへへ」
「ちなみに、その声は?」
「わたしは何もしてないよ。声変わりはしたんだと思うけど、ずっとこの声だから」
「そっか。いやでも、大変なんだな」
「そうだねえ……」
 わたしはそう答えたけど、彼が大変なんだなと言って想像していることよりも、実際はもっと大変なんじゃないかなって思っている。思っているっていうのは、わたしはそれほど大変だと感じていなかったからなんだけど。
「あとね、トランスの人で見た目が全てじゃない、みたいな言いかたをする人がいるけど。ああいうの、あまり好きじゃなくて」
「またハッキリと言うね」
「言うよ。もちろん価値観の部分だから、否定はしないけど。ほら、人の視覚情報ってすごいでしょ。わたし、見た目からインプットされる情報って物凄く大きいと思っていて。それに声だったり仕草、雰囲気を加えていくイメージかな?そういうところで、相手をどう認識するかって決まると思うんだよね」
「それってさ。例えば美波と初対面の人がいて。その人が見た美波の印象が女だったら美波を女としか認識しなくなる感じ?」
「そう、その感じ。だから見た目が全てじゃないっていうことには肯定できないんだよ。もちろんね、その人がどう在りたいか次第だと思うけど。わたしの場合はさ、いつも言ってるけど『ただの女』でいることだからね。わたしはニセモノの女だから、結構必死なんだよ」
「すごいな、そうは見えなかった」
「だって、そう見られないようにしていたからね」
 彼は感心しているようだった。思えばこういう話もしたことなかったかもしれない。というか、彼があまりわたしの身体に興味を示してくれなかったから話しようがなかっただけかもしれないけど。
「ねえ、とーりくん。ちょっとピンチ」
「どうしたの?」
「あのね、のぼせそう……」
 そう言ってわたしは湯船からあがって腰を掛けた。彼に身体を見せるだけのつもりだったけど、思いのほかしっかり話をしていたから湯船に浸かっている時間が長くなっていた。
「じゃあ、一度あがろうか。またいつでもお風呂には入れるしね」
 彼も立ち上がり、わたしたちは露天風呂から出ていった。
 浴衣に着替えて髪を乾かしてスキンケアをしたあと、彼が淹れてくれたお茶を飲みながら並んで座って休んでいた。
「ねぇ、美波。メイク落としたの?」
 彼がわたしの顔をじっと見ているからなんだろうって思っていたけど、聞かれたのはメイクのことだった。お風呂からあがった後、髪を乾かすついでにメイクも落としていた。
「落としたよ。ほら、とーりくん。彼女のすっぴんだぞ」
 わざとらしく言って彼に顔を寄せると、彼はわたしの顔をじっと見たまま「可愛いよ」なんて言った。わたしは急に恥ずかしくなって顔を背けてしまった。
「美波、なんでそっぽ向いちゃうのさ」
 そう言って彼はわたしの頬に触れて、彼にまっすぐ向くようにわたしの顔を向けた。なんだよ、急にちょっと積極的じゃないか。
「なに……?」と言う。なんか恥ずかしいし、頬に触れている彼の手がほんのり温かい。
「ぼくは美波の顔はキレイだと思っているから。今も昔も変わらずね。それと、それが好きだな」
 彼は空いた手の人差し指をわたしの右目のすぐ下にある泣きぼくろに向けた。いや、そう言われるのは嬉しいけど。メイクを落とした後のすっぴんの顔でやらないで欲しいとは本気で思う。顔がキレイと言われたこととは関係なくすっぴんの顔を彼に見られることがやっぱり恥ずかしくて、わたしは顔が赤くなっていたし少しほてっていた。
 わたしは我慢できなくなったから彼から逃げるように座り直して、自分の湯呑みに口をつけてお茶を飲んだ。
「ごめん。やっぱり、すっぴんの顔だけはあまり見ないで欲しいな」
「そのままでも可愛いのに……」
「それでもだめ、すっぴんはだめ……」
 彼は少し渋ったけど頷いた。そのままでも可愛いと言っていたけど、そういう問題じゃないから。
 結局のところ、ファッションにしてもメイクにしても自分を見せるための武装なんだってわたしは考えている。だからすっぴんでも可愛いとか、そういうことは関係なくて、武装していない無防備な状態を見せたくないだけだ。今は彼だからすっぴんを見せているけど、それでも見られることに抵抗はある。
 そうやって休んでいるうちに夕食の時間になった。部屋まで料理が運ばれてきて座卓に配膳されていく。どう座るかと聞かれたので、わたしは彼と横並びでと答えた。
 配膳が終わると、さっきの和服の女性が部屋に残っていた。ちょうど部屋の入り口を入ってすぐのところで正座をしていた。あまりの姿勢の良さにわたしも背筋が伸びてしまう。
「ご挨拶、遅れました。私が当旅館の女将でございます」
 そう言って女将さんは深々と頭を下げた。わたしたちよりは年上だけど、それでもまだ30歳そこそこに見える。若い女将さんだった。
「お風呂はもう入られましたか?」
 女将さんに聞かれて彼が「はい、とても良かったです」と答える。
 それから女将さんは食事が配膳された座卓まで進み、配膳された料理の説明をとても丁寧にしてくれた。料理の説明をした後は、おすすめのお酒について話をしてくれた。ひと通り説明を終えた後、女将さんはまた入り口近くに座り直して口を開いた。
「若くて素敵なおふたりですね」と微笑みながらわたしたちを見て言ったあと、
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」と言って頭を下げた後、部屋から出ていった。
 静かになった部屋で、すぐにわたしも彼も何も言わないで黙っていた。
「あの人、女将さんだったんだね。綺麗な人だったなあ」
 わたしは女将さんの姿を思い出しながら言った。
「うん、綺麗な人だったし凄く上品な感じがしたよね?」と言う彼には少しそっけなく「うん」と答えた。彼は鼻の下を伸ばしたりすることはなかったけど、女将さんの姿を目で追っていた彼をわたしは見ていたから少しだけモヤっとした気持ちになっていた。
「ねえ、わたしもあのくらいお淑やかな感じになったほうがいいのかな?」
 わたしは何を言ったんだろう。一瞬、自分でも理解に苦しんだけど、それはきっと些細な嫉妬だったんだと思う。隣の彼はわたしから聞かれて唖然とした表情をしていた。
「急にどうしたの?」
「いやね……どうやってもさ、なれないよなあって思っちゃって。ごめんごめん、今の忘れて。それより食べようよ」
 わたしはそう言ってから冷酒の瓶を手に取り適度に冷えたお酒を彼とわたしのグラスに注いでいく。食べ始める前にわたしは携帯電話で配膳された料理の写真を忘れずに撮る。SNSで公開するためではなくて、父へあとで送るために。それくらい目の前に配膳されたのは見た目に華やかな懐石料理だった。
「いただきます」とふたりで手を合わせてから食べ始めたが、わたしは先日のバーで舌が未熟なために美味しさを表現する言葉が出てこなかったことを思い出してしまう。
「美味しいね」とやっぱりわたしの口からはこの言葉しか出てこなかった。横目に彼を見ると彼は小鉢に箸をつけていた。まだ彼の口からは何も言葉は出ていない。
「ねえ、美波。この小鉢、お酒に合うよ」
「え、ほんと?」
 彼に言われてその小鉢を見た。内心では美味しい以外にも、お酒に合うって言いかたがあるのか。覚えておこうなんて思っていた。
「ほんとだ、美味しい」と、わたしの口から出る言葉に変わりはなかったけど、彼の言う通りお酒に合う塩気のきいた料理だった。
しばらくはお互いにあれが美味しい、これが美味しいと言い合いながら食事をしていた。1本目の冷酒が空いて2本目を開け始めた頃、彼が「ところでさ」とわたしに聞いた。
「美波、聞きたいことがあるんだけど」
「なあに?」
「お風呂の時にさ、美波は自分のことを『ニセモノの女』って言っていたよね?あれって、どういう意味なんだろう?」
「ああ、それね。いいよ、話すよ」
 わたしは答えてから少し頭の中を整理する。こういう話ほどちゃんと話さないといけないと思っているから、どうしてもいきなり話しはじめることができない。それでも、半分くらいはその場の勢いで話してしまうのだけど。
「ニセモノの女って、本当に言葉の通りなんだよ。わたしはさ、どうやったってネイティブの女にはなれないんだよ」
 ネイティブの女なんて表現が正しいかどうかは分からないけど、伝わりやすいと思ってそういう表現をわたしはした。
「ちゃんと考えれば分かるでしょ。わたしは元々男だったんだし、その時点でネイティブにはなれない。そら、今のように『ただの女』として生活をしていてもだよ。どうやったってさ、ニセモノの女以上にはなれないわけ。僻みとかそういうのじゃないよ、そうでしかないんだから。まあ、これもわたしの価値観でのことなんだけどね」
「それでも、ぼくは美波のことを女としか認識していないのだけど」
「そうなんだ?」と言ってわたしはワザと浴衣をはだけさせて彼に身体を寄せた。
「ちょっと、美波」
 彼が驚いた声で言うので楽しくなってきてしまい、より身体を彼に密着させる。
「なに、その反応。さっき、裸だって見たじゃない?」
「そうだけどさ、着衣は着衣でさ……」
「えっち」
 わたしは彼の耳の近くで囁いて、えへへと笑いながら座り直した。
「わざとやってるよね?」
「わざとやってるよ。じゃないと、とーりくんはわたしに興味をもってくれないでしょ?」
 そう答えると、彼は返す言葉がないのか黙ってしまった。
「ごめんね、とーりくんの反応を見るのが楽しくて。それでさ、話を戻すけど。わたしはね、ニセモノの女にしかなれないって思ってるからなんだけど。それが共用スペースが苦手っていう理由のひとつにはなっているよ」
「ああ、そういうことだったんだ。しっくりきた」
「うん。それでまあ、結局のところだけど。わたしはネイティブな女にはどうやってもなれないからね、それなら完璧なニセモノになってやろうって思ってるんだ。それがわたしにとって理想の形かな。それもまあ、この前のバーで話をした内容と同じでわたしの立ち位置になってるかも。それにね、ニセモノっていってもネガティブな面ばかりではないよ。ネイティブじゃないぶん、わたしには人生で男だった時間があるからね。今こうしているわたしは女に見えるかもしれないけど、大学でのわたしは結構男っぽい振る舞いをすることがあるよ。やっぱり負けたくないし、ニセモノでも女だからって舐められたくはないしね」
 わたしは少し早口で彼に話した。それから彼の様子を伺いながらお酒に口を付ける。
「大学では男っぽいって意外かも」
「やっぱりさ、負けるのって嫌なんだよね。だからさ、ずる賢くわたし自身を利用してるんだよ。男っぽい考え方とそうじゃない考え方をその時その時で自由に出し入れする感じでね。へへっ」
「それって、ある意味強みだよね?」
「うん、そうだよ。ネイティブな女になれない分、わたしにはそういうことができるってわけ」
「やっぱり美波はすごいな。本当によく考えてる」
「えへへ、褒めても何もないからね。そうだ、浴衣脱いであげようか?」
「なにがそうだ、なんだよ。もしかして、もう酔ってる?」
「ええ、あなたに酔ってるわ」
 なんだろう、少し前にも同じことをした気がする。隣で彼がため息をついていた。
「美波、今日は泊まりだから別にお酒を止めないけどさ。適度にね」
「わかってるよ」とわたしは答えた。
 せっかくの泊まりなんだ。このままお酒に潰されて終わりました、なんてことにはしたくない。だから、今は飲みすぎないようにしているつもりだった。
 つもりだった、という程度ではお酒を飲みすぎないようにすることなんてできるわけがなくて。食事が終わるころにはわたしはギリギリ立てるくらいの状態になっていて、彼に支えられながら窓際の椅子へ運ばれていった。
「大丈夫?」と彼がお水の入ったコップをテーブルの上に置きながらわたしに聞いた。わたしは無言のままゆっくりと頷く。
 食事を終えた後、旅館の人が部屋に来て食事の済んだ食器を片付けて2組の布団を並べて敷いてくれた。ふわふわの掛け布団を見ていると、無性に布団へ飛び込みたい気持ちになる。
「ねえ、とーりくん。少し横になっていいかな?」
 テーブルを挟んだ対面の椅子に座っていた彼にわたしは言って、彼の返事も待たずに布団へ飛び込んだ。そして目を瞑るとすぐに眠ってしまった。

 目が覚めても部屋には電気がついていた。そんなに長い時間寝ていたわけではないのかもしれない。うつ伏せになっていたわたしはころんと横を向くと、さっき彼が座っていた椅子に彼の姿はない。どこへ行ったのだろうと反対側を向きを変えると隣の布団に彼が居た。
 彼も横になっていて、眠っていたわたしを見ていた。わたしを見ている彼の表情はいつものように優しかった。
「起きたね」
「おきたよ……わたし、どのくらいねむってた?」
「ええと、1時間くらいかな。そのまま朝まで寝るつもりだった?」
「そんなわけないじゃん、しつれいしちゃうな」
 ちゃんと答えているけど、わたしはまだ寝ぼけた声をしていた。
「どう?少しは酔いは覚めたかな?」
「どうかなあ」と答えたけど、いくらか酔いは覚めていた。
 わたしは彼が横になっている隣の布団までコロコロと転がっていって、そのまま彼に抱きついた。なんだろう、彼に甘えたいとは少し違う。シンプルに彼が欲しくなっているという感情に支配されそうになっていた。
「美波、どうしたの?」
「幸せだなあ……」
 そんなわたしに気づく様子のない彼の言葉には答えず、わたしはその感情を噛み締めるように言った。言葉にすると、もう自分に歯止めが効かなくなるような気がしていた。
 彼は抱きついてきたわたしの頭を優しく撫でていた。それにわたしは言葉にできないような心地の良さを感じている。こういうのを多幸感というのかもしれない。
「ねえ、とーりくん。このあと、どうする?」
 わたしは彼に聞く。我ながらすごくナイスなアシストだと思った。だけど……。
「寝るにはまだ早いし、もう一度お風呂に入る?」
 そんな言葉が彼から出てきた。お風呂も悪くないけどそうじゃないんだよ。そこでわたしは我慢の限界を迎えてしまった。
 わたしは抱きついていた彼から一度離れてから、勢いよく横になっている彼を押し倒してその上に跨った。いきなりのことに驚いた表情を見せた彼は、目をパチパチさせながらわたしの顔を見ていた。
「美波……」と彼がわたしの名前を口にする。
「とーりくん、いきなりごめんね。でも、わたしもう我慢できないんだ。言ってる意味、分かるよね?」
 わたしは彼の顔を見下ろしながら言う。彼はわたしに視線を合わせたまま何も答えなかった。
「あのね、わたしたちってさ。付き合うことになった時、わたしから告白したよね?そら、昔とーりくんから告白された時にわたしが断ってるって事情はあるけどさ」
「そうだったね。またぼくから告白しないとって思ってたのに、また断られたらって考えたら怖くなっちゃって」
 彼が答えた。わたしはその彼の顔を見下ろしたまま続ける。
「それはいいの。でもね、告白から先はね、わたしはとーりくんのタイミングに任せようって思っていたの。そしたらもう一年半だよ、一年半。さすがにね、とーりくんが変わらずにわたしを好きでいてくれるのか自信が無くなってくるし、不安にもなるんだよ。でもねでもね、わたしからアプローチするのってさ、ほら、その……なんか卑しい女みたいに思われそうだから。そんなわたしが彼女だなんて、とーりくんも嫌でしょ?ああもう、なに言ってんだろ……わたし」
 わたしはなかなか積極的になってくれない彼に対して、これまでに溜め込んできたものを言葉にして吐き出していた。
「美波……ごめんね……」
 少し間をおいてから、彼はわたしに謝った。
 違うんだよ。わたしはあなたに謝って欲しいわけじゃないんだよ……。
 わたしは彼に跨ったまま、身を屈めて彼にキスをした。一度離れて、わたしはすうっと軽く息を吸ってからもう一度キスをする。今度は強引に舌を入れていく。はじめは抵抗して口をきつく閉じていた彼だが、気づけばお互いの舌を絡ませ合っていた。
「ははっ、いいね。とーりくん、いいよ」
 彼から離れてまた彼を見下ろしながら、彼に見せたことがないようなニヤついた顔でわたしは言った。彼もまた、わたしが見たことのないような表情をしていた。
「ねえ、とーりくん。もう一度言うよ。わたしね、もう我慢できないんだよ。待てないんだよ」
「分かってる」
 わたしの言葉に彼はそうハッキリ答えると、わたしの身体を軽々と布団に倒した。さっきまで見下ろしていた体勢のが逆転してしまった。分かっていたけど、男の力なんだからわたしの力でかなうわけがない。
 体勢が逆転した彼はわたしに跨って、わたしの両手を掴んで押さえつけた。こうされてはもう、わたしには逃げることはできそうにない。そもそも逃げるつもりのないわたしは、じっと彼の顔を見つめていた。
「美波、いいの?」と彼はわたしの顔を見下ろしながら聞く。
「ははっ。今更、何を言ってるの?そのつもりじゃないと、こんなことしないって」
 わたしは笑いながら答えると、今度は彼からキスをしてきた。ああ、ここまで本当に長かったなと。そんなことを思いながら、わたしはひとつ彼にお願いする。
「とーりくん、ひとつお願いがあるんだ」
「なに?」
「電気を消して欲しいの」

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