ゴミですら、見てくれる人がいることを希望に
続けてやっていると報われることがある。たとえそれがゴミ袋への落書きだったとしても。
私は誰にも頼まれていないのに 娘が保育園に持っていくゴミ袋に絵を描き続けている。
「ゴミ袋」と言っているからお分かりいただけるだろうが、私が絵を描くキャンバスにしているのは汚れた服を入れるためだけの 本当に「ゴミ」となる袋だ。
当日か翌日には汚れた服、時にはオムツを入れられ即ゴミ箱行きになる袋に、私は毎日せっせせっせと絵を描いているわけだ。
誰のゴミ袋か分かるようにするためには単純に氏名を記入するだけでいいわけだが、一度絵を描き始めたら特に止める理由もなかったのでもうかれこれ半年続けている。
ちなみに娘は1歳なので絵が描いてあって嬉しいとか嬉しくないとかそんな反応は全くない 。
逆に言えば、自分の親がゴミに毎日せっせと絵を描くというくだらないことを続けていることにも気づいていないから好都合とも言える。
頼むからゴミに絵なんて描いてないで、仕事でもしてくれ、と言われたら悲しいではないか。
そんなわけで私が毎日ルーティーンとしている「ゴミへの絵描き」は、ゴミ袋を持参する本人である娘すら知らないところで続く習慣となっていた。
もはや誰がどうとか、何のためとか関係ない。ただ、自分がやりたいからやっているだけ。
しかしある時、娘の担任の先生から 「◯◯ちゃんの袋にはいつも絵が描いてあるから今日は何の絵かなって楽しみに見てるんですよ」と声をかけられた 。
ただ自己満足のためだけにやっていたものだが、先生がそれを見て「今日は何の絵かな?」とちょっと楽しみにしてくれていたという。
娘が服を汚すたびに、娘のロッカーから袋を取り出して「あら、今日はけろけろけろっぴね!」なんて先生がにっこりしてくれているというのか!
保育士さんて忙しくてそんな暇すらないのかと思っていたけれど、ゴミの絵を楽しむ余裕はあるようだ。
保育士さんの多忙さはさておき、「ゴミ袋ですら見てくれる人がいる!」ということに私は気づいた 。やり続けているとどこかで誰かが見てくれているわけだ 。
すごくしょうもないと思うことでも どこかで見てくれてる人がいるから発信するし続ける価値はある。
例え見てくれた人からの反応が悪い意見だったとしても、意見をもらえるならそれを改善し役に立つ方に進めることができる 。
ゴミ袋ですら見てる人がいるわけだから。
発信し続けることとは無駄ではない。
以下が私のゴミ袋コレクションの一例 (もちろん全てゴミになってる)
私はこのnoteの毎日更新して10日ほど経ったわけだが 、日に日に見てくれる方が増え、地味~にフォロワーさんが増えているという状況になっている。
たった10日間でも毎日更新することで、こうして反応を頂けているということである。
それが積み重なっていくと見てくれている人の数もどんどん増え、もしかしたら自分が思っていない方向へ展開していくかもしれない 。
最初に掲げた「noteの毎日更新の目標」は21日間なので 21日経ったら 更新頻度は少し下げるかもしれないと思っていた。
しかし、こうして少しずつでも進歩していくことが分かると 実験してみたいと思うのは人間の性だろうか。
「毎日続けること」の可能性を信じてみたい気持ちである。
ちなみに「ゴミ袋に絵を描くこと」は 娘が卒園するまで毎日続けるつもりだ。1歳から6歳までの5年間、毎日書き続ければ例えゴミ袋の落書きだとしてもゴミ袋アート(?)として 何かを確立できるかもしれないと密かに楽しみにしている 。
5年後このnoteを続けているのかどうかは分からないが 続けていた時には是非ゴミ袋アートの結末も楽しみにしていただきたい。
「たとえゴミ袋の落書きであってもコツコツ続けていることで反応してくれる人がいる」 ということは私にとって 大きな気づきであった 。
あなたが「何かをしてみようか」「どうしようか」と迷っている時には是非「ゴミ袋ですら誰かに見ていてもらえる」ということを思い出していただけたらありがたく思う。
書いた人(絵と文)
なつめももこ/webライター、管理栄養士
noteには私の日常、過去のこと、考えていることをゆるゆると綴っています。
今日ものんびりと、どうぞ。
Twitterもやってます。
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