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ともに幸せになるということ

ちゃんと幸せになれそうだ、と思える相手とパートナーになった。今回はその背景にある話を。


「なっちゃんには、もっといい相手がいるよ」

これは、付き合っていた相手から別れを切り出されるたびに言われた言葉だ。

社会学の研究をしています、複数の地域のまちづくりの仕事をしています、それらを通して「既存の地域社会でないがしろにされているものを大切にできる仕組み、人のつながりを作り出す」ことをやっていきたいです。とにかく色んなことを考え、たくさんのものを抱きしめようとする感性の持ち主です。こういう思いを持って二足の草鞋を履いてるので、仕事とそれ以外の境界が曖昧で、ハードな生活です。

こういう自分のことを受容し、理解し、肯定してくれる相手はなかなかいなかった。ある人は心配しすぎて自分の人生を棒に振り、ある人は否定し、自分の価値観を押し付けようとした。
そんな人たちから毎回別れを切り出されるたびに、どうして自分は「普通」になれないんだろう、「普通」を幸せに思えないんだろうと自分自身と自分の価値観を否定しまくった。

おかしいのは自分だから「普通」になろうと頑張ったら身体が拒絶反応を起こして色々大変なことになってから、自分はひとりで生きていった方が幸せなのかもしれないと思うようになっていた。

でも、そんな自分を「ふたりなら、幸せになれると思うんだ」と優しい言葉をかけてくれた相手がいた。

相手も二足、三足の草鞋を履く生活をしている。名前を検索すれば華々しい実績が見える人だ。
告白をされた時、自分みたいな無名に近い人間と一緒になって幸せなのか?と思ってしまった。自分が若くて外見が良い方だから好きになってるのでは?と思ってしまった。

でも、そうではなかった。
相手は、自分のやっていることというかは考えていること、大切にしていることに惹かれていて、外見だけでなく内面を丁寧に見てくれる人だった。

振り返れば、高校時代から自分のやっていることと肩書に対してすごく気をつかう生活だった。
通っている学校、活動、経験、コミットしているコミュニティ..。とにかくとにかく、やっていることと肩書がしっかりしていなければ社会からも人からも認められないと思っていたし、実際そういう世界にいた。 

でも、肩書を良くも悪くも失う経験をして、やっていることも外に表現することがかなり難しい活動をしていて、「ありのまま」に向き合うことができて、自分の内面を大切にできるようになった。

そして、それが相手に魅力だと映り、自分が無理に「普通」にならなくても生きていける関係性をむしろ求めてくれた。

やっと、「普通」の生き方をおさらばして、自分の大切にしたいことを大切にすることができる気がした。
そう、それが「幸せ」で、ともにその幸せを守ることができるはずだから。


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