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エピソード12「卒業」(前編)

某年、3月初旬。

私はいよいよ、小学校卒業の日を迎えた。

卒業式では、卒業生は皆、中学校の制服を着る。私も、その制服に袖を通した。まだ慣れないセーラー服。だが、悪くない。

辛くても、苦しくても、何とか終えられた小学校生活。そして、これから始まる中学校生活。辛いことがほとんどだったので、今更寂しさは感じない。あるのはただ、生きて卒業式の日を迎えられた達成感、そして、中学校生活への僅かな期待だった。


卒業式前の教室は、紙でできた飾りや、卒業する私たちへのメッセージで満たされていた。最後の一年を過ごした素朴な教室は、今まで味わったことのない、祝福のムードに満ちていた。そのムードに、私は思わず心が躍った。相変わらず話し相手はいなかったので、一人で胸を弾ませていた。

そこへ、担任の先生が、美しい着物姿で教室に入ってきた。小学4年生の時から、偶然にも3年間私たちの学年の担任を務め、長く一緒に過ごした先生。その日ばかりは、とても煌びやかに見えた。

先生はいつも、とても厳しかった。しかし、その日はとても優しい笑顔で、私たちに挨拶をした。いじめられていた私を助けてくれた時の、あの笑顔だった。

先生が朝の挨拶を終え、いよいよ私たちは、卒業式が行われる体育館へと向かう。いつもと同じように2列に並び、先頭に先生が立つ。

列に並ぶ私は、緊張感を覚えた。なぜ緊張するのだろう。卒業証書をしっかり受け取れるかどうか?卒業生の言葉をしっかり言えるかどうか?卒業生の歌をしっかり歌えるかどうか?

それらは全て、今までしっかり練習してきたから、きっと大丈夫。私は心の中で、そう言い聞かせた。


「卒業生、入場。」

体育館に流れ始めた『威風堂々』と、在校生、先生方、保護者の方々の温かい拍手に包まれ、私たちは会場に足を踏み入れた。少し緊張はしていたが、私は怯むことなく、堂々と花道を歩くことができた。そして、私たちは席に着いた。

「一同、起立。」の声で素早く立ち、姿勢を伸ばす。「礼。」でゆっくりと上半身を下げ、百一、百二と頭の中で数えてから、ゆっくり頭を上げる。「着席。」ですっと椅子に座る。6年間同じようにやってきたので、それらの動作は自然と身体に染みついていた。


「卒業証書、授与。」

先生が私の名前を呼び、「はい。」と大きな声で返事をして、すっと立ち上がる。そして、卒業証書を受け取る前に、私たちにはすることがあった。それは、保護者に向けて、将来の夢を一言で発表することだった。夢が既に決まっていた人たちには何てことはないのだが、夢が決まっていない私には、これを考えるのに一苦労した。悩んだ結果、私はその場限りの夢を発表した。

「私は将来、声優になって、アニメや映画でたくさんのキャラクターを演じたいです。」

私が自信を持てる唯一の特技が、声の演技だった。絵本の読み聞かせや児童小説の朗読、教科書の段落読みなど、声を使った発表が周りの人に褒められることがよくあった。それで、声優なら目指せるかもしれないと思い、こう発表した。

無事に発表を終えて、校長先生の前まで姿勢を正しながら歩き、校長先生に一礼する。そして、肘を伸ばして、ゆっくりと卒業証書を受け取った。そしてまた一礼し、ゆっくりと自分の席に戻る。

よし、練習通り上手くできた。


続いて、在校生と卒業生による別れの言葉。

6年間ずっと同じ、別れの言葉。在校生の言葉は、各学年から数人の代表者を選出して発表するのだが、私が選ばれることは5年間一度もなかった。だから、一人一言発表する卒業生の言葉で、初めて自分の言葉がもらえたのが、嬉しかった。ちなみに私の言葉は、

「団結力の強さも、忘れられません」

という言葉だった。私自身が団結したかどうかは自信がないが、言葉はしっかり言うことができた。

よし、これも練習通り上手くできた。


最後に、卒業生による合唱だ。曲名は、『最後のチャイム』。

ソプラノとアルトの二部合唱で、クラスごとにパートが分かれている。私のクラスはアルトを担当したが、主旋律はアルトの方が多くまわってきたので、少し嬉しかった。曲の一番盛り上がる所では、主旋律をソプラノに持っていかれてしまうのだが、それに対するハーモニーを奏でるのも楽しかった。

そして、そのハーモニーがあまりにも美しすぎて、それと同時に辛い生活を乗り越えた達成感が胸の中から溢れ、私の瞳は思わず潤んでしまった。


まさか、父の葬式でも泣かなかった私が、ここで涙を流すのか?小学校生活なんて、ろくなものでもなかったはずだ。それなのに、どうして?今この瞬間は、父の葬式よりも悲しいのか?

そう思うのと同時に、こう思った。

父の葬式では涙を流せなかったけど、今なら涙を流せるかもしれない。私は涙を流せないほど、冷たい人間ではないのかもしれない。私にも、涙を流せる心があるのかもしれない。


その2つの思いが心の中でぶつかっている間に、曲は2番に差し掛かった。落ち着きを取り戻したメロディと共に、私の心も落ち着きを取り戻した。そうしたら、今にも瞳から零れ落ちそうだった涙が、すっと引っ込んでしまった。

私は、驚きを隠せなかった。やはり私は泣けなかった。我慢しているわけでもないのに。

こうして、私はまた、己の心の冷たさを知った。

ともあれ、合唱も練習通り上手くできた。


そしてそのまま、

「卒業生、退場。」

の言葉で、卒業式の終わりが告げられた。在校生による『Believe』の合唱が響き渡る中、私たち卒業生は、ゆっくりと退場した。

冷え冷えとした私の心を、卒業式の祝福ムードだけが、温かく包み込んでいた。

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