実写版『リトル・マーメイド』に対する簡単な考察と感想
誰のためのアリエル?
実写版『リトル・マーメイド』を巡る論争
実写版『リトル・マーメイド』(2023)については製作決定のニュースがリリースされたときから、キャスティングの発表、公開後の現在に至るまで多くの話題を巻き起こしました。
とりわけその主たるものとなったのは、主人公のアリエルを演じたハリー・ベイリーのキャスティングについてであり、この論争については、彼女の人種についてのレイシズムの問題とルッキズムの問題に大別されるでしょう。しかしながらこの議論は、日本と外では異なった様相を呈しています。
海外のネット記事で話題にされるのは、たいてい黒人であるハリー・ベイリーに対する、アニメ版の『リトル・マーメイド』のファンの「自分が慣れ親しんできた白い肌に赤毛のアリエル像が壊された」という拒否反応と、その一方でハリー・ベイリーと同じ黒人の子供たちにとっては新たな希望になっている、ということについてだと思われます。その一方で日本において今回の実写版『リトル・マーメイド』に対して批判が出る時、ハリー・ベイリーの人種に対する拒絶と、それに加えて彼女自身の顔立ちに対する批判が多くあるように思います。
『シンデレラ』(2015)のリリー・ジェームズ、『美女と野獣』(2017)のエマ・ワトソン、『アラジン』(2019)のナオミ・スコットなど従来のディズニープリンセス映画を実写版にリメイクした作品に出演した女優を挙げてみると、原作アニメーションのキャラクターをそのまま現実世界に連れ出したような容姿を持つ女優が多く、それと比較すると実写版『リトル・マーメイド』で主人公のアリエルを演じたハリー・ベイリーがいくらか特徴的な顔の持ち主であることは、多くの方が認めることではあると思われます。
このキャスティングに対して批判的に考える人は、「彼女は目が離れていて(失礼だけれど魚に少し似ている)、丸顔で、アニメ版のアリエルとは似ても似つかない」と主張して、それについては私もおおむね同意しますが、この主張をする前に多くの人が、自分が人種差別主義者ではない、ということを強調するのは個人的に興味深いところです。そういう人たちは、自らが人種差別主義者でないことを証明する根拠として、「(実写化の情報が出た最初期の段階でアリエル役の候補として噂が流れた)ゼンデイヤだったら私は喜んで受け入れた」ことをあげます。
日本人の、ハリー・ベイリーのアリエルに対する拒否反応が実際のところレイシズムに基づくものなのか、ルッキズムに基づくものなのか、その両方なのか、ここで断定をするつもりはありませんが、海外の記事ではあまり見かけることのないハリー・ベイリーの顔立ちに関して、日本においてはここまで明け透けな主張がなされるのは非常に興味深いことです。
日本はやはりルッキズムに縛られた社会なのかもしれません(これは自戒でもあります)。
ちなみに、かくいう私自身も最初にハリー・ベイリーのキャスティングが発表されたときには、やはり彼女の特徴的な顔立ちに多少違和感を覚えました(彼女はやっぱり万人が納得する美人なわけではないと思います)。しかしながら、劇中の映像が公開されてからは好きになりました。
私が実写版のアリエルを好きになった一番の理由は、動いている彼女がとても愛嬌があって可愛らしかったからです。もちろん制作サイドがハリー・ベイリーのキャスティング理由を人種的な問題ではなくただその卓越した歌唱能力にあると発表したように、歌声の美しさはアリエルを演じるにあたって絶対に欠けてはならないポイントであると思います。
だけれど、これは全く個人的な意見になりますが、アリエルの魅力は愛嬌にあると思っているので(「鈴のように美しい歌声を持つ7人姉妹の末娘」という説明からもわかる通り、アリエルは作中において、他のプリンセスのように美人であるという描写が直接的になされているわけではありません)、ハリー・ベイリーの演じる愛嬌たっぷり天真爛漫なアリエルはまさに私の中のアリエル像、元いアリエルの概念とよく合致していて、仮にアリエル役が他の、ビジュアル的にアニメ版のアリエルにより似ている白人の女優が演じていた場合に、それが私のアリエルのイメージに合っていたとは必ずしも言えないのではないかと思っています。
実写版において変更された設定・演出
『シンデレラ』(2015)、『アラジン』(2019)は原作アニメ―ションからのストーリーの変更が見られた実写化リメイク作品でしたが、本作では『美女と野獣』(2017)と同じくストーリーの大幅な変更がなされなかったことも、アニメ版が大好きだった私はとても嬉しく思いました。
それでも本作においても、ストーリーの根幹を変えるとまではいかないものの、いくつかアニメ版から変更になった設定や演出はありました。それは以下のようなものがあげられるでしょう。
アリエルの姉たちのルーツがそれぞれ異なっている
エリックは孤児で、エリックの育ての親の女王は存命でしかも黒人
黒人と白人が共存するユートピアみたいな世界観、しかも黒人の方が王宮内で位の高い位置にいるように見受けられる
劇中挿入歌『哀れな人々』と『キス・ザ・ガール』の歌詞変更
→前者の「好まれるのは黙ってうなずき男の後ろを歩く」という一連の歌詞の削除 →後者の性的同意に基づく歌詞の変更(「何も言わなくていい さあ早く キスして」→「目を見て尋ねてごらんよ そして キスして」)アースラ の最期の言葉がアニメ版のように“So much for true love!”でない
→全体を通して若い女と男のラブストーリーより父と娘の愛に重きが置かれていた。例えば、アースラを倒した後、アリエルはエリックが漂流物にしがみついたのを確認して、トライデントを追って海底のトリトンのところへ向かった、など。宿敵・アースラ にとどめを刺すのがエリックではなくアリエル
→アニメ版よりアリエルが賢く勇敢に描かれた。アニメ版ではアースラから攻撃を受けてアリエルはなす術もなかったが、実写版ではその役割をエリックに譲り、アリエルは船のデッキを這って操舵輪まで辿り着き、アニメ版のエリックがしたようにアースラを不意打ちで串刺しにした。また冒頭でサメをやりすごすシーンではアニメ版のアリエルがまぐれのような形でピンチを切り抜けたのに対し、実写版では鏡をうまく利用して助かった。本編最後のクライマックスシーンにおいて、アリエルとエリックが二人でボートで「まだ見ぬ世界へ」向かう際、白人のトリトンが黒人のアリエルに「ずっと言えなくて辛かっただろうな」と言う
以上はこれまでのディズニープリンセスの実写化作品でも見られたようなポリティカルコレクトネス、所謂「政治的正しさ」に配慮したゆえの変更と言えるでしょう。
”すべての女の子のための”アリエル――アップデートの意義
私は、個人的に実写版『アラジン』のストーリー変更をとても受け入れることができず、今回の『リトル・マーメイド』もその点でとても心配に思っていたのですが、ポリコレ的な変更はあったものの、実写版アラジンを観た時に感じた拒絶感は本作に対して全くもって抱くことはありませんでした。
それはおそらく実写版『アラジン』において、その内容をフェミニズムの考え方にのっとってアップデートすることにこだわるあまり、逆にジャスミンが頭の悪い女のようになってしまったのに対して、実写版の『リトル・マーメイド』ではそのようには描かれなかったからだと思います。
例えば、実写版のジャスミンは「女の私にも国は治められる!」と声高に主張するくせに街の貨幣経済のことは知らなかったり、知識と主張がチグハグで、逆に権利だけをただ主張している世間知らずの女のような印象すら与えました。
実写版『リトル・マーメイド』を観て、私が最も感動したことは、子供の頃に初めて見てそれからずっと憧れていた世界が、この3次元の世界に限りなく現実の世界に近いような形で存在しているような錯覚を覚えたことです。
私は、ディズニーシーで会えるアリエルをそんなにアリエルと認識できておらず、アニメ通りのオーバーなアクションや表情のせいで「アリエルのクオリティの高いコスプレをしている人」のように思ってしまうのですが、ハリー・ベイリーのアリエルは、アリエルに大事な愛ぜんこう嬌とかちょっとした仕草は大事にしながら、そういう2次元のものをそのまま3次元の世界に持ってきたときに生じがちなわざとらしさを削ぎ落としたリアルなアリエルだったように感じました。
(この点については、アリエルが難破した船から助けたエリックを浜辺へ運んだあと岩の影から見つめる表情が「ターゲットを狙う暗殺者のそれだった」という批判を読んだので、色々な意見があるのでしょう)
だけれども、ともかく私の初めて実写版リトルマーメイドを見た時の「アリエルが自分と同じ現実の世界を生きている!」という感動は、今回の実写化で黒人の子供達が自分と同じ黒い肌をしたアリエルを初めて見た時の喜びに少し似ているようにも思います。
さて、すでに根強い人気を誇っていて、リメイクされた場合に印象が大きく変わることで批判が起きるような熱狂的なファンも存在するようなアニメーション作品をわざわざ実写化/リメイクする意義とは一体何なのでしょうか。
例えば、前項で挙げているように実写版『リトル・マーメイド』では『哀れな人々』の歌詞変更が行われました。男性に「好まれるのは黙ってうなずき男の後ろを歩く」女という表現が削除されたことで安心感を得た方も多いのではないでしょうか。かくいう私もその一人です。アニメの日本語吹き替え版においては該当部分は「おしゃべりな女は嫌われる」という歌詞でしたが、その言葉が幼心にも引っかかり、おしゃべりな私はきっと嫌われているに違いないと少しばかり傷ついてもいた自分の感情が間違いではなかったと救われたように感じました。
実写化/リメイクの際にこのような表現のアップデートが行われることで、小さな子供がそういう不要な悲しみ(この場合は生きていくうえで足かせにもなりかねない望ましい「女性らしさ」の価値観を植え付けられること)を経験しないで生きていくことができるのは非常に良いことだと思います。(もちろん、黙ってうなずきおとこのうしろを歩く女性が間違っているわけでもありません。おしゃべりな女性も聞き分けの良い女性も同じように、好かれることもあれば、嫌われることもあるでしょう)
「原作(アニメ)に完璧に忠実でないなら実写化なんてしなくていい」と言っているアニメ版のファンもいましたが、今回の実写版リトルマーメイドは、私にとっては、アニメ版をわざわざ実写化することがなぜ必要か考える上で、アニメ版を踏襲した部分と現代の価値観にアップデートした部分がちょうどよいバランスで共存している作品に思います。
ハリー・ベイリーのアリエルは、大好きなアリエルと肌の色の違うことで悲しんでいた女の子たちだけでなく、望ましい「女性らしさ」をうっすらと意識の奥深くに植え付けられてそれ以来窮屈に感じて生きていたすべての女の人たちのことも救ったといえるのではないでしょうか。