らくだい魔女と私
まだ「推し」という言葉が浸透していなかった頃、大好きなキャラクターがいた。多分、いまの「推す」とは違う感情だったと思う。
この世界の中心というほどでもない。それほど熱狂するような、熱意や真剣さがあったわけでもない。でもたしかに、私の中には「好き」という感情があった。何度も小説を読み返して、彼のこの台詞が好きだ、と感じていた。新刊情報を見て彼が登場すると知ると、素直に嬉しかった。
小学生だった私にとって、「好き」と向き合うことは少し難しかった。クラスメイトが好きなもの、例えば嵐やKARAや少女時代、ちゃおの漫画。そういうものを好きでいないと誰かと仲良くなれない気がしていた。誰かと仲良くなるために何かを好きになるのも違う気がして、そもそも仲良くなりたい人なんていなくて、嘘、本当はいつも寂しくて。
らくだい魔女を通せば、遠い知らない誰かでも、すぐ近くにいるクラスメイトとも、何ともなしにお喋りできた。「好き」を媒介にして誰かと交流した、初めての経験だったのかもしれない。
らく魔女の新刊を買わなくなってから12年くらいの月日が流れた。その間にらく魔女シリーズからは4冊の本が出ていたけど、2013年を最後に新刊が出ることはなくなった。そして気づけば、私は大人になっていた。大人になった私の前に、あのときと変わらずキラキラした世界がもう一度現れた。
大好きだったキャラクターのアクスタやチャームが登場するだけでも驚くのに、それを前にした私の感情もどこかおもしろい。やっぱり、当時の「好き」は「推し」ではない。あのときの私は知らなかった。何かを驚くほどに好きになる感覚も、それに突き動かされるような衝動も。彼を好きだった感情は間違いなく私が「それ」を知る前の感情で、だからこそ、ただひたすらに月日の流れを思い知らされる。この10年で、私がいかに色んな感情に出会ってきたか、色んな世界に出会ってきたか。
14年前に出会ったキャラクターたちを前にして気づいたこと。14年前の私の「好き」がどれほど未熟で、ちっぽけで、幼いものだったか。それでも、その思い出がどれほど大切で、宝物のような記憶だったか。
EDで彼女ら/彼らのカットが映るたび、あのときの未熟な「好き」を思い出して、涙が出そうになった。古びたオルゴールの箱を開けるみたいに、あのときらくだい魔女を好きだった自分を思い出して、たしかにそこにあった感情に想いを馳せてしまった。
いま、自分が情熱を注いでいるもののようにらく魔女を愛せるかというと、少し難しい。完全にカテゴリが違う。でも、それに気づけたことに安心している。いまの「好き」という枠組みに無理やり当て嵌めず、当時の「好き」を思い出せただけ、素晴らしい体験をした。本当に、「好き」って難しい!色んなグラデーションがあって、1つの枠組みには収められない。ただこれだけは言える。私が「好き」を哲学するようになった原点とも言える作品、らくだい魔女という作品に出会えてよかった!