アニポケの主人公が変わることで気付いた「推し」の基準

今、私には推しと呼んでいる人が2人いる。
1人は大好きな小説家で、もう1人はゲーム実況者。
他にも場面によってはあと小説家を2人くらい推しと呼ぶ。

何をもって「推し」と呼ぶのかは人によって違うとは思うけれど、お金を出すハードルが低いとか、なるべく彼らの出すコンテンツを追いかけたいと思うとかそういう特別さを持った人のことを「推し」と呼ぶようにしている。


とはいえ他にも好きな人、モノはあって、その一つがポケモン。

ゲームは対戦こそしないけど本編と言われるシリーズはほぼやってきたし、アニメも一通り見ている。

そんなアニメ、ポケットモンスターの主人公がサトシから変わるらしい。

アニポケのシリーズが変わるたびそんな話はあったからまた勝手な想像だと思っていた。
でも本当らしい。
サトシは新無印と呼ばれるシリーズで各地方のチャンピオンたちに勝ち、最強と名高いダンデにも名勝負をして勝った。
そして新主人公も発表された。

今サトシとピカチュウの旅が描かれる「めざせポケモンマスター」というシリーズを1クールだけ放送中だ。
OPは初代を思わせる映像の「めざせポケモンマスター」だし、EDも最初の「ひゃくごじゅういち」。
タケシやカスミも登場して、最近のシリーズではなかったロケット団との「お約束」な展開もある。
かつてアニポケを見ていた子どもだった人たちへのシリーズと言っても過言ではない。

これはきっと、ずっとアニポケを見ていた人たちがサトシとピカチュウにさよならを言うための時間なのだと思う。

それが、私には、しんどい。

サトシが推しだなんて思ってこなかったけど
生きてきた人生の大半にポケモンは存在していて、TVシリーズも映画も含めてサトシの冒険をずっとみてきた。

無茶苦茶な戦法、たくさんのポケモンとの出会いと別れ、困ってる人やポケモンのためなら後先考えずに動く優しさ、勝つために頑張る姿。
いろんなサトシを見てきた。

そんなサトシが見れなくなる?

いなくなることで生まれる喪失のことを考えてしまう。

いっそそんな時間はいらなくて、パッと新主人公で新シリーズが始まってしまえばいいのに。
さよならを言うからさみしくなるんだ。

アニメを見る度に、アニポケ主題歌集を聞く度に、さみしくなってこころが縮こまる。

こんなことが起こるなんて思ってもみなかった。
こんなに私にとって特別なキャラクターになっているとは思っていなかった。
この特別さを「推し」と呼ばずになんと呼ぶのだろう。

サトシは私にとって「推し」なのかもしれない。

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