からだのおしまいに向き合う
※リアルすぎる書き方をしているかもしれないから読んでてきつかったら読むのをやめてください。
おばあちゃんが終末期に入ってしまった。
母から連絡を受けて、わたしと、わたしの母の妹のふたりで
東京から地元に駆けつけた。
前日自分で運転して美容室行ったぐらいなのに
歩けなくなり夜中に転倒したそう。身体が病に蝕まれていた。
翌日呼吸も困難で、私たち着いて30分後に本人の意思で救急車を呼び夜中に搬送。
そこから寝たきりになってしまった。酸素マスクつけて。
もういつどうなってもおかしくないと昨日お医者さんから説明があった。
でもまだ話しかけると応えてくれる。
意識もしっかりしていてこちらを見て一言二言ちゃんと返事をする。
本人は「まだ死にたくない!誰か助けて!」
と思っていそうで、そのもがきを横で眺めるのは痛い。
「最期は家が良い」と元気なうちからの彼女の希望で、来週家に帰ってくる。
今、母と二人で準備をすすめている。毎日感情も作業も忙しい。
とてもエネルギーを使う。
他者の死に対する霊的、タントラ的な理解が無いまま
その時がやってきそうで
今、自分のきもちをどこにどう置いて
どこに向けていけばいいのかわからず、辛い。
わたしが今この瞬間も呼吸を続けている
生きているという事実に対する愛と慈しみと喜びが完全に覆われて
もうすぐ大切な人を失ってしまう恐怖、無力感、不安、悲しみが全身を包んでいる
死への恐怖 ってなんだろ
今は、自分が死ぬことはそこまで怖くないけど
残されることがとても怖い
はじめての近しい家族の死だ
時間が迫っている
正直逃げ出したいし助けてほしい
母が再婚する前シングルで働いている間
じーちゃんばーちゃんが
ずっとわたしの面倒を見てくれてた
1歳から大学で上京するまで一緒に住んだ
母親のようなおばあちゃん
この間まで一緒にご飯を食べて
笑ってお話したのに
これからもうその時間はやってこない
そしてもうすぐ逢えなくなってしまう
それは確かに失うということだ
その時は過ぎ去ったということだ
味わったつもりだったけど
もっともっとトータルに
没頭して
一緒に過ごせる楽しい時間を過ごし切りたかった
死の持つ影の力はとてつもなく大きい
そこだけを見ていたらすぐに人間は破滅(or自滅?)してしまうだろう
と思うぐらい、今は自分も苦しさに押しつぶされそう
だけど、世界はそれだけでできているわけじゃない
それは一部であって全体ではない 本質ではない
その影を、一部をよく見ることができたら
それを備えたひかりすなわち美しい生が 全体が
もっとくっきり見えるようになるはず
今まだ同じ地上に居て
彼女の隣に居られること
一緒に生きて、呼吸していることを全身で味わいたいし喜び合いたい
このひとときが過ぎ去った時
きっと彼女は今よりとっても穏やかで楽で幸せなところに行けるだろうから
今の苦しみから解放されて楽になれますようにとも祈ってる
自分の内側のどの場所からおばあちゃんを視るか
やっぱりハートのスペースから視たい
嘆き悲しみ落ち込みの自分の感情に巻き込まれたままこの最期の貴重な時間を過ごすのはよくない
一度それらを味わってその奥にある空間を取り戻したい
瞑想したい
今日、おばあちゃんと腹で繋がって呼吸をしてみた
少し意思疎通もできてコミュニケーションできて
そのことを身体で味わったら、とても幸せだった
内側で繋がれた気がした
どんな状況であれ
外側で何が起こっていても
目の前の相手と一緒に呼吸する
その本質は、愛は、変わらない
最期のその時まで
一緒に人間をやって
生きるをやって
その喜びを一緒に感じたらいいのだ
そしてそれが終わったら
先にいく人を
喜んで送り出してあげたらいいのだ
おつかれさまよくがんばったねよかったねって
影に飲まれそうになりながら自分を保っているわたしを
助けてくれる気がして
少しずつoshoが死をテーマに語ったことを読んでいる。