推しを「愛している」と叫べるか ―推し続けて見えてきた新たな「愛」と向き合い方

こんにちは。ナトリウムという者です。オタクです。
推しを推すということについて、ここ数日考えていたことをまとめるべく筆を執りました。たいそうなタイトルの記事ですが、つまるところいちオタクの思考の覚え書きですので、適当にお付き合いしていただければと思います。

自己紹介

さて、私は物心ついたときから鉄道オタクでした。サブカルチャーに触れ始めたのは中学生頃から、その後いつしか明確な趣味となっていましたが、長年追っていたのは漫画やアニメなどのコンテンツで、アイドル等には全く目を向けていませんでした(アイドルアニメは見ていましたが)。
そんな私が「推し」と呼べる存在を持ったのは今から3年半前の2018年2月。前年の年末からバーチャルYouTuberというものがにわかに流行り始めており、私も当時はまだ数えるほどしかいなかった彼ら彼女らを広く追っていたのですが、その中である動画を目にして一瞬で心を奪われたのです。
…当時の心境は幸いにして衝動的に書いたブログ記事に残っていますので興味があればお読みいただければと思いますが、この日以来私はバーチャルYouTuberの一人であるときのそらちゃんを特別好きになり、「推し」として現在に至るまで応援してきたわけです。

まあここまではありふれたオタクの経験談だと思います。それ以前にハマっていたコンテンツとて、“一目惚れ”のような衝撃は無かったにせよ同じように特別好きになって追っていたわけですから。
ただ、私には飽き性なところがありました。生まれつきの鉄道趣味はともかく、コンテンツ趣味については一定の期間が経つうちに次第に熱が冷めてしまう、ということを繰り返し経験していました。そしてその期間というのは、思い返すと大体2~3年周期であるようでした。
「恋愛感情は2年で冷める」という言説を皆さんは聞いたことがあるでしょうか。2年ほど一緒に居ると関係に新鮮さを感じられなくなり、相手に飽きてしまう、というものです。コンテンツに対する「好き」は恋愛感情とは別物ですが、2年という数字の一致は偶然ではないと私は思いました。コンテンツに対しても、2年も追っていると新鮮さを失ってきますし、コンテンツ展開そのものの寿命も相まって、やがて飽きてしまう―むろん真偽は定かではありませんが、少なくとも自分の飽き性についてはこう解釈をすることにしたのです。

ところが、初めての「推し」であるそらちゃんに対しては、どうやら違うらしい、ということに私は最近気づき始めました。彼女を推し始めてから3年半経ちますが、概ね現在に至るまで彼女を推す熱量は変わらず持ち続けています。飽きるどころか、これからもずっと推し続けて行こうとことあるごとに心に誓っているほどです。
私はこれを「愛している」と呼ぶことにしました。自分でも初めて向き合うこの感情が何なのか、様々な「好き」や「愛」と比較しながら考えていきたいと思います。

前史:趣味愛はエロースではなくアガペーであるべき論

人が趣味に興じるのは、趣味対象のことが好きだからです。好きということは、そこに「愛」があると言い換えることができます。
古代ギリシャ哲学では、愛を4種類に分けて分析を試みていました。その中で私は、エロースとアガペーの2つに注目し、対立項として整理して解釈することにしました。
「エロース」は直訳すると性愛を指しますが、実恋愛における感情を指して「見返りを求める愛」ともされています。つまり、自分が相手を愛すると同時に、相手からも自分を愛してほしい、愛されたいと思うのがエロースです。独占欲を含む一般的な恋愛感情はまさにこれであると考えられましょう。本記事では「エロース」という言葉から性愛という意味を捨象し、「見返りを求める愛」という意で用いることにします。
一方「アガペー」は神の人間に対する愛、というのが原義ですが、それはつまり「無償の愛」であるとされます。神は人間からの見返りを求めて愛しているのではなく、ただ無条件で人間を愛しているとされるからです。そしてこのアガペーは人間の愛についても当てはめることができ、相手からの見返りを求めることなく、ただ相手が好きだから愛しているという親子の慈愛のような無条件で無償の愛をアガペーと呼ぶことができるでしょう。

趣味対象に対する「愛」はどちらか、これは人と場合によって様々だとは思いますが、私はどのような場合においても、趣味愛はすべからくアガペーであるべきだと考えています。
もし趣味愛がエロースであるということなら、それは趣味対象に見返りを求めているということです。自分が趣味対象である相手を愛する代わりに、趣味対象である相手からも自分を愛してほしいと願ってしまいます。これは実例としてよく見かけると同時に、危険なものであると私は考えています。
例えば私は生まれつきの鉄道オタクですが、鉄道趣味というのは基本的にどうあがいてもアガペーでしか成り立ちません。鉄道は鉄道趣味者のために存在するものでは無いので、鉄道趣味者がいくら鉄道を好きでも鉄道会社が鉄道趣味者に“見返り”を与えてくれることなどまず無いわけです。ところが、近年の趣味人口の増加によりエロース的な愛を持つ鉄道趣味者が増えてきたことが様々な問題を引き起こしています。写真撮影などの趣味活動におけるトラブルで鉄道会社側を不条理に責めようとする向きが存在するのは、“見返り”を求めようとしていることの現れであると感じます。
こうした現象はコンテンツ趣味やアイドル趣味でもしばしば見受けられます。ソシャゲ等コンテンツの運営に対して度を越えた要求をしたり、アイドルや声優に認知・反応されることを過度に求めたりするファンは、「自分はこれだけ好きで応援してきたんだから、相手にも自分に対して特別何かを与えて欲しい」と自らのエロース型趣味愛に対する“見返り”を求めているのだと感じます。
そうではなく、趣味愛がアガペーであれば、上記のようなネガティブな感情にさいなまれることはありません。自分が何故その趣味をするのか、原点に立ち返れば、ただ好きでいること、ありのままを受け入れ愛することで満足を得られるはずです。鉄道会社は鉄道オタクに何かをしてくれるわけでは無いし、ゲームの運営やアイドルが必ずしも自分が望む選択をしてくれるわけでもありません。それでもありのままの趣味対象を認め、その選択までも受け入れることができれば、自己の欲求に由来する憤りや哀しみを趣味活動から排することができるでしょう。むろん、趣味対象が道義を踏み外しそうなときまで肯定する盲信者に成れとは言いませんが、そうでない限りは、趣味愛はアガペーを持ち見返りを求めない無償の愛を趣味対象に捧げることが理想の趣味活動であると私は考えます。

オタク、観葉植物であれ

アガペーの趣味愛による趣味活動では、趣味対象に対し見返りを求めることはありません。したがって趣味対象に干渉しようとすることもなく、それはすなわちある意味で自己性、主体性が存在しないということです。極端に言えば、自身は主体的な実体を持たない純粋な観察者になり、「推し」からすれば自分など居ても居なくなっても変わらない、というような関係が究極形になるでしょう。
これはちょうど、百合やBLの趣味者の間でよく使われる「観葉植物になりたい」という表現と同じことを言っています。百合やBLといった関係性を趣味対象として愛する際には、趣味者の自己という存在はノイズでしかなく完全に不要です。したがって、自己性を完全に捨て去り、純粋な観察者として趣味対象(2人の関係性)を愛したい、ということを、自我を持たず部屋の片隅に置いてあるだけの観葉植物になぞらえているのです。

「観葉植物になる」ことは、趣味対象が百合やBLのようなコンテンツであれば容易に実現できるでしょう。当然の事実としてコンテンツの世界と趣味者の居るリアルの世界は構造的に干渉できないからです(コンテンツの作者が趣味者の言動に影響される、という可能性は無くはないかもしれませんが)。しかし、「推し」が趣味者と同じリアルの世界に存在する場合はなかなかそうはいきません。「愛する」ということ自体が能動的な行動なので主体性を完全に取り除くことは不可能ですし、その過程では様々な形で応援の声を届けようと干渉しようともするでしょう。ただ、大事なのは、先ほども述べたように見返りを求めないことです。たまたま相手が反応してくれることがあればそれはラッキーなことですが、前提としては応援の声が届かなくてもプレゼントを捨てられても構わない、「推し」にとって自分は居ても居なくても変わらないのだ、という自己性や主体性をなるべく減却した心持ちで居ることが、アガペーで愛するということだと思います。

ただしもう一つの事実として、アガペーで愛する趣味関係は実のところとても“ドライ”であるとも言えます。見返りという利益を求めず、なおかつ趣味対象にとって自分は居ても居なくても変わらないとしていることは、つまりもし本当に自分が居なくなっても自身にも趣味対象にも損失が発生しない関係であるとも言うことができます。したがってこの趣味関係の維持は趣味者の熱量のみに依存しており、その熱が冷めて飽きてしまえばそれで終わりです。もちろんそれは必ずしも避けるべき哀しいことではなく、寂しく思われるかもしれませんが一つの円満な関係終了なのです。

「動作としての愛」と、「状態としての愛」

さて、ここまでアガペーの趣味愛について話してきました。私は鉄道趣味に対しても過去追ってきたコンテンツに対しても、そして今の推しであるそらちゃんに対しても、先述したようなアガペーという見返りを求めない愛し方を心がけ、概ね理想的で健全な趣味活動をしてこられたと思っています。その一方で、過去のコンテンツ趣味に関しては、その趣味関係がアガペーによる“ドライ”なものであったため、2年ほどで飽きてくるとそのままフェードアウトしてしまうということを繰り返してきました。
ここで冒頭の話に戻りますが、初めての「推し」であるそらちゃんに対しては、どうやら今までとは何かが違うらしいということに私は気付きました。3年半経っても飽きる気配は全くなく、一方で一番最初に“一目惚れ”したときのような燃え上がる熱量がずっとあるというわけでもありません。これはいったいどういうことか。

今まで話してきたエロースやアガペーは、いわば「動作としての愛」でした。自身が何か/誰かを「愛する」という行動、その動作的な性質について論じています。しかし、私が今「推し」であるところのそらちゃんに感じているものは、それとは別の、「状態としての愛」であると理解したのです。
「attachment」という英単語があります。色々な意味を持ちますが、その中に日本語で「愛着」と訳されるものがあります。日本語で愛着というと「もの」に対する心情が思い浮かばれる気がしますが、「attachment」の場合人の人に対する心も表します。「愛着」の意味を辞書で引くと「なれ親しんだものに深く心が引かれること」(デジタル大辞泉)と出てきますが、人の人に対する愛着心というのは、長年連れ添った老夫婦が年老いてもずっと仲良しでいるような、あるいは家族や親友に対する慈しみであると理解されます。すなわち、attachmentは「愛する」という「動作としての愛」では無く、「愛している」という「状態としての愛」であると言うことができます。
私は、自分がそらちゃんに感じているものはこれであると気が付きました。3年半ずっと追ってきて、苦も楽も見守り、自分含めファン達とコメント等でやり取りする双方向コミュニケーションの中で、私はそらちゃんにattachment=愛着を抱いていることを悟ったのです。

「推し」にattachmentを抱くということは、趣味関係としては一種の“強さ”を持つことになります。ここまで来てしまえば能動的に愛する熱量を要さずともベースとして愛している状態になるため、先述したアガペーによる趣味愛での「飽きる」という関係終了が基本的に生じなくなります。だからこそ自分も、推しと出会って3年半経った今でも推し続けていられるのだと理解しています。
一方で課題も感じ始めています。アガペーのように“ドライ”ではないattachmentの愛では、エロースとともに捨てたはずの自己性が再び首をもたげてきます。見返りを求めることはありませんが、純粋な親切心や心配として、趣味対象の選択や行動が気になるようになってきます。あるいは、父親が娘に彼氏を連れてこられたときの感情や、親友に結婚を報告されたときのような、attachmentを抱く相手に対して複雑な感情を感じるシーンも現れるようになります。こうした主体的な感情は当然、オタクとして観葉植物を目指すにあたって望ましくはありません。

“信頼”と“祈り”によって主体性の減却を図る

attachmentを抱く推しに対して干渉しようとしてしまう主体的な心の動きをどう制御するか、これが目下の課題となってきます。
立ち返って考えてみると、エロースの際に議論したように、趣味対象が自分という趣味者個人に特別何か反応してくれることはまず無いものとする前提を置くべきです。これはattachmentの場合も同じで、この前提を改めて認めれば趣味対象に干渉しようとする自己的主体的な言動は意味を持たないことに気がつきます。まずはそれを認識した上で、ではこの行き場のない主体性をどのように減じていくか。
attachmentの場合、趣味対象に主体性を抱くのは見返りを求めるからではなく、愛着を持つ対象に対する純粋な親切心や心配であるとしました。そう、私は推しが心配なのです。
「心配だ」というのは大きく分けて二つあると考えます。一つは「相手が適切な選択肢を選ばない可能性がある」と認識していること、もう一つは「相手にとって如何ともしがたい大きな力によって押しつぶされてしまうのではないか」と思うことです。

まず前者ですが、これは考えてみればいささか失礼な話で、相手が望ましくない選択をするかもしれない、と不安がるというのは、つまるところ相手を信頼できていないということになります。「推し」を信じ、ファンを裏切るような選択をすることは無いと信頼することができれば、この心配は解消されます。一つ実例を挙げると、そらちゃんと同じ事務所に属している夏色まつりちゃんというVtuberが居るのですが、彼女はよく男性配信者とコラボしたり男性のマネージャーとの交流をファンに報告したりしています。異性と絡むと何かと言われがちなVtuber界隈の中で、しかし彼女とファンの関係が荒れることが無いのは、ファン達が彼女を信頼している証だと私は感じます。男性と交流したところで、まつりちゃんが自分たちファンを裏切るような選択は絶対にしない、と信頼しているからこそファンは安心して話題を聞けますし、おそらくばまつりちゃん自身もまた「ファンが信頼してくれていること」を信頼してそういった内容の活動をしているのだと思います。美しい信頼関係、かくありたいものです。

続いて後者についてですが、相手自身の言動ではなく、相手にとってどうにもできない何かが降りかかることでつらい思いをしてしまうのではないか、と不安に思うことがあります。ただ、これについてはもうどうしようもないのです。当事者にとってどうにもできないことは当然ファンにとってもどうにもできません。どうにもできないことをどうにかしようとあれこれ思索を巡らせるのは正直言って建設的ではありません。とはいえ、それでは「どうにかしてあげたい」と感じる主体性は抑え込めません。
人類は古くから、「どうにもできないけれどどうにかしたい」と感じる情動に対して、一つの受け皿を用意してきました―それが宗教です。科学が発展した現代においても、科学の観測対象外である分野については宗教が人々の不安の受け皿として機能しています。
宗教をやれと言いたいわけではありませんが、「どうにもできないけれどどうにかしたい」という情動に対する向き合い方として、宗教のこうした性格は非常にためになるものだと感じます。その中でも、“祈り”という行動は私たちオタクにとっても重要な示唆を有しています。「推し」にどうにもできない何か大きな力が降りかかろうとしたとき、私たちにできること、すべきことは、せめて少しでも良きように収まることを祈るだけ、それが必要十分なのです。どうにもできなくても、きっと少しは心が救われることと思います。

以上をまとめると、attachmentによる見返りを求めないものの趣味対象に干渉しようとしてしまう感情、すなわち「心配」に対しては、趣味対象に対する“信頼”と“祈り”によって己の主体性を減じ干渉を控えることができると考えられます。attachmentを趣味愛として持つ上では、“信頼”と“祈り”が大切になってくるのだと思います。

推しへの「愛」を叫べ

ここまで色々と議論してきましたが、改めて感じたのは「愛」という言葉の意義です。「愛」なんてたいそうな言葉、日常生活はおろかSNS上でもなかなか使わないと思います。好き、とか推している、と表現しがちですが、その原動力として必ず「愛」は存在しているはずです。「推し」に対する「愛」の存在を改めて認識し、さらにそれがどういった「愛」なのかを顧みる(あわよくば言語化して再構築まで)ことは、推し活をしていくオタクにとって有意義なことになるのではないかと思います。
私自身も、過去にガチ恋を拗らせかけて苦しんだり、最後の章の“祈り”という解にたどり着くまでは主体性の減却に苦慮したりと、推し活において様々な課題に面してきました。オタク趣味というのは厄介なもので、推しを推すことは必ずしも楽しいことばかりではありません。それでも、推しの存在は人生を豊かにするかけがえのないものです。話題がいろんな方向に取っ散らかった記事だったと思いますが、「推し」を持つあらゆるオタクにとって少しでも参考になるところがあれば幸いです。

最後に、記事中で散々名前を出しておいて紹介しないのもあれなので、私の推しであるときのそらちゃんを宣伝しておきます。横浜アリーナでのライブを目指すアイドルで、突き抜けるような高音域が魅力的な歌唱力とステージでのパフォーマンスはもちろん、実直で思いやりがありちょっとだけ悪戯っぽいところも素敵な人です。元気と癒しをくれるときのそらを何卒よろしくお願いします。



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