「紅藍クロニクル」はバーチャルを生きるSorAZの覚悟の歌である

(2020/9/22 12:12加筆修正)

私は今感激しています。
2020/9/22にリリースされたときのそら・AZKiのユニット「SorAZ」による楽曲「紅藍クロニクル」を聴きました。SorAZでのオリジナル曲は「刹那ティックコード」に続き2曲目で、前作と同様スピード感のあるかっこいい曲に仕上がっています。またホロライブが誇る最高の「シンガー」であるAZKiと、「アイドル」にして今やその枠に留まらず「シンガー」の境地にも達したときのそらの競演が贅沢な一曲になっています。

ここでこの記事では、詞について注目していきたいと思います。前作同様「歌」という概念に真正面からぶつかっていく歌詞でありつつ、同時に「バーチャル」という世界に対しても向き合っているある意味攻めた歌詞に、私は感激したのです。黎明期からこの世界に身を置くAZKiが制作したというこの歌詞を、味わっていきたいと思います。

鎮魂歌/応援歌

ここからは最初に貼った動画の概要欄にある歌詞を追いながら読んでいただければ幸いです。
歌の冒頭、『雲間に隠れた無数の星』と『荒野を彷徨う無数の旅』という二つの言葉が出てきます。バーチャル界隈という文脈に照らし合わせたとき、これらの意味するものは明らかでしょう。

この厳しい世界で、無念にも“隠れた”星たちに対して、それでも輝きは失っていないはずだと信じ、また未だ“彷徨う”旅たちに対して、彼らもまた自分たちの力になっているのだと歌っているのです。つまりこれは前者に対する鎮魂歌であり、同時に後者に対する感謝を伴う応援歌でもあると捉えられます。輝かしい側面だけではないバーチャルの世界で、通時性/共時性、死/生という対比をも踏まえて、この世界全体を見渡していると2人は歌っています。

弱さ/強さ

他者に目を向けた1番に対して、2番Aメロでは己に向き合っています。彼女たちは黎明期から界隈を切り拓き突き進んできました。そうした一見の「強さ」の裏には誰にも見せない「弱さ」があることを認め、その「弱さ」をも受け入れることで真の強さを手に入れようとしている力を感じさせます。

バーチャル/リアル

直接的に核心に迫る歌詞が2番Bメロ部分。彼女たちは確かにバーチャルの存在です。しかし、「バーチャル」を見誤ったことによる哀しい事件もたびたび起きてきました。バーチャルは「リアル=現実」に対するただの「仮想」ではなく、バーチャルはつねに唯一無二のリアルと一対一の並列・併存関係にあることをここに主張しているのです。

藍/紅

1番のサビでは『藍』、2番のサビでは『紅』が歌われていますが、これらは言うまでもなくときのそらとAZKiを比喩していましょう。『悲しさや寂しさ』/『愛しさや切なさ』という心に迫るものまで受け入れて2人は歌を歌い続けるというのは、先述した“弱さを受け入れる強さ”に通じるものを感じます。

炎/花

Cメロの『美しく燃え上がる炎』『青空へと咲く花』という詞もまたAZKiとときのそらを暗喩していますが、ここにはさらにニュアンスが加わっています。それは、炎はいつか燃え尽きるものであり、花はいつか枯れるものである―2人の命はいつか終わりを迎えることが提示されているのです。だからこそ彼女たちは魂をかけて、悲壮的なまでに歌を歌うのです。でも、何がそこまで彼女たちを駆り立てるのでしょうか?

2人の覚悟

彼女たちが“歌を歌い続ける”理由、それはそれこそが『生きた証』であるからです。バーチャルというある意味で実体を持たない彼女たちが己の存在をリアルに刻み付けるため、命が燃え尽きるまで、枯れはてるまで、彼女たちは歌います。それはこの世界で彼女たちが身近に「死」を見てきたことも無関係ではないでしょう。
そしてまた、彼女たちは自分たちの“歌”がともすれば道標になることを分かっているような気さえしてきます。無数の星たちが隠れ無数の旅たちが彷徨うこの世界で、その先を切り拓き続ける彼女たちの足跡は、『消えない記憶』として永久の道標=クロニクル(年代記)になりつつあります。だからこそ彼女たちは強くあろうとし、道標、もとい足跡となる“歌”を歌い続けようという覚悟を決めている、そう私には感じられました。
SorAZの2人はこれからもこのバーチャルの世界で、世界を切り拓き足跡を残していく者として生き続ける―「紅藍クロニクル」はその覚悟を歌った歌なのだと私は思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?