【能】護法(ごおう)の名取ノ老女と世阿弥
先日、仙台在住の能楽師、山中迓晶(やまなかがしょう)さんと名取熊野勧請900年実行委員会とお会いする機会があり、『護法』についてこの本を紹介して下さいました。
かなり古い本ですが、謡曲の本で最後の方に『護法』がのっています。
『護法』により「名取」の「老女」が都で流布し、
熊野堂縁起は、この『護法』を基につくられたと言われています。
世阿弥が創作したものを音阿弥が演じた記録がありますが、
護法は廃曲となり上演されなくなり、600年近く埋もれていたそうです。
江戸時代にほんの一部だけやっていたそうですが。
護法が廃曲になった理由のひとつに、主役が2人いるため、演じられる人が少ない時に、非常に困る・・・といったことがあったかもしれません、との事。
擬似天皇大家族制を取り入れたもので、その多くは世襲制で、
自然と長男は、宗家(そうけ)になったそうです。
2人のシテが必要だったことと、あまりポピュラーではなかった為か、だんだんと演じられなくなり、
廃曲となるのですがその『護法』がまた活発になる時がありました。
この型に関心をもったのが役者ではなく「研究者」だったと言われます。
日本の能楽研究者「横道 萬里雄」氏(1916~2012年)
が「元々、シテ(主役)は複数いた」と発表し、
その代表として『護法』を提唱したことから、再び、研究者の間で有名になります。
そして復曲ブームに。
後、『世阿弥』の著を書かれている堂本正樹氏が
名取老女のシテ型をつくりなおしたとされ、後、複数の研究者の間で作りなおされます。
ところで、徳川家康が観世流に興味をもっていたそうです。
流派は多くある中で、なぜ、観世流なのでしょうか?
ちなみに、喜多流は、徳川秀忠、
宝生流は、徳川綱吉といったように将軍により
好みがあったと言われます。
一番の謎は、名取老女を描こうとした世阿弥。
世阿弥の最期は「佐渡に流された」こと。
真相は定かではないですが、2つの対立した観世流があった為
世阿弥は佐渡へ離れた?説。
佐渡は、徳川家康の直轄領です。
残念ながら、最後の世阿弥がどうだったか知るすべはないのですが、
世阿弥は家康よりも前なので、世阿弥に関心があったのでは?と、考えるとロマンがあります。
実は、能の世界は政治に深く関わってきたそうです。
亡くなった後に、世阿弥が現代によみがえり有名になったのは、
「記録を残した」ことだそうです。
『風姿花伝』があるように。
この時代は、南北朝の時代。
観世流は南朝側。
『護法』にある「りよしんを以て」という言葉。
何の意味かちょっと不明なのですが、信じること、というような意味とも。
名取熊野神社御創建900年祭の年、
いろんな姿をもつ名取老女が「浪漫(ロマン)を以て」
再び、新しい型で復活する年と言えそうです。
ご協力頂きました山中迓晶(やまなかがしょう)さん、ありがとうございました。