福島市茂庭の熊野神社【信夫佐藤氏兄弟の母:乙和御前】
福島市の飯坂温泉より西側に茂庭地区があり、信夫郡の領土を得た佐藤基治の妻、乙和の方を頼って名草の鈴木氏(藤白鈴木氏?)が建立した神社がある。
※茂庭は、伊達藩の家臣、鬼庭氏が領土を得ている。
(豊臣秀吉の命で名を茂庭に変えている)
熊野神社の由来
紀州名草の村長鈴木塞庫翁が紀伊国熊野神社に最も深い家系をもつ飯坂大鳥城々主佐藤庄司基治の妻、佐藤継信の母乙和の方を頼って直接熊野から
この茂庭秋庭の地に勧請した熊野神社である。
代々の天皇におかれても皇室の衰微を憂いてその改修を祭神イザナミ・スサノオに深く帰依するところが、あった如く一般庶民の間にも農耕の神、災いを転じて福となす神としての信仰が厚く、特にこの地においては、スサノオ命が八俣の大蛇を退治した勇神であったので、この神の神威に依って茂庭菅沼の七頭の大蛇の怨念を鎮める願いがこめられていたのである。
祭礼の日もまた菅沼大蛇退治の日、旧九月十九日であった。
祭祀の地、秋庭は往古の吾妻街道の道順にあたり、明き荷場と呼ばれて荷を下ろして休憩する要衝の地であり、寛文四年幕府領となった茂庭村にあって
代官国領半兵衛検地のときにこの神域が除地となったことをみて、
この神の由緒深い理由と村民の強い信仰のあらわれをうかがい知ることができる。
社殿の造営は、宝歴五年八月十九日であり茂庭域内の最古の造営物である。
明治4年神社の社格が制度化され、新たに村社の制度が設けられてその座を白鳥神社に譲るまでは治承以来八百年茂庭村の総鎮守として信仰の中心になってきた。(熊野神社の由来より)
乙和子姫のこと
「乙和御前」ともよび、藤原清綱(亘理権十郎)の娘。夫の基治は、大鳥城に居住した信夫郡の佐藤氏一族。
「信夫庄司」と呼ばれていたが、飯坂温泉の湧く地であるため「湯の庄司」とも呼ばれた。
信夫佐藤氏の後見人として外戚関係をもち、『尊卑分脈』(日本の系図表)では、藤原秀衡の舎弟が俊衡(火爪氏・樋爪氏・日爪氏とも書く)
でその妹とある。
武士の歴史において奥方など女性たちの系譜がほとんどわからないので、
熊野信者であったかどうかは不明。
奥州藤原氏は、複数の家臣と婚姻関係をもっており親族を増やしているので、信夫佐藤氏だけが特別奥州藤原氏のご加護を得ていたわけではないと思う。
また、秋田藩の佐竹氏や石川氏のとの系譜の関連もあり、
石川有光(住陸奥国)の妻が「清衡女」とあり、石川氏との婚姻関係もあった。※奥州石川氏(有光の孫:光義、秀康)の兄弟のうち、
秀康が平泉の側に取りこまれて文治(1189年)奥州合戦に敗れ頼朝軍に誅殺された。
乙和御前の伝承
各地を点々としていたと言われる乙和。
乙和の痕跡は、新潟県、山形県、宮城県北部に至る。
佐藤兄弟(継信・忠信)の妻たちが夫の基治と息子を失った義理母の悲しみに元気づけようと甲冑の姿になって迎えた話がある。
医王寺には甲冑を来た娘たちの像が置かれており、白石市の甲冑堂にもある。その道は、奥州街道。
佐藤基治について(吾妻鏡より)
『吾妻鏡』より八月八日(文治5年1189年~)
「藤原泰衡(四代目)の郎従である信夫佐藤庄司(基治)は、叔父の河辺太郎高経、伊賀良目七郎高重らを率いて、石那坂の上に陣取った。
~(省略)伊達郡沢原の辺りに進みでると先頭を切って矢石を放った。
佐藤庄司らは死をいとわず挑み戦った。
~佐藤庄司をはじめとする主な者十八人の首を
為宗兄弟が獲り、阿津賀志山の上の経岡にさらしたという。」
信夫郡と名取老女
『名取の古文書(第六集)』(名取の古文書を読む会)より、
信夫郡からも名取の熊野三社に参拝している内容がある。
桃野亀一氏の物語の中に(年代不明)「伊達郡信夫之里の人々が」名取の熊野山に参拝し、熊野三所権現に祈ったことが書かれている。
~その昔、用明天皇の頃、紀州熊野より分霊、長岡へ建て、名取老女は草庵を構え生活しており、その名取老女とは前田村の烏ヶ宮のことであると。
『名取老女由来記』には、
藤原基衡より前田の荘の寄付を受けるとある。
※鎌倉幕府に荒れた土地を奉還するが私有地の衰退により、神社などの信仰の地になっていく。
「用明天皇」については、高舘山にあった「物響寺」が用明天皇の時代となっている。信夫郡と似ている名取の熊野三社。
信夫佐藤氏と奥州藤原氏一族の信仰が、角田~名取の熊野信仰に伝播しているようだ。
茂庭の天王寺も「用明天皇」の時代とあり聖徳太子の由縁がある。
※用明天皇 585年~後に蜂子皇子が出羽三山を開山。
四天王寺の一寺という事なので、
「乙巳の変」の頃に蘇我氏・物部氏らが逃れてきており、蜂子皇子も関係すると思う。
東北の地に、藤原不比等を遠祖とする藤原家(北家側)がきているから藤原利仁・茂庭の大蛇伝説(藤原秀郷のこと)が伝わっている。※守家も太子信仰がある。
天王寺奥には、奥州札所三十三観音十一番札所(聖観音)があり。
また、名取の熊野神社については、文治5年1189年、藤原泰衡後見「熊野別当」同年10月の条「囚人佐藤庄司 名取郡司 熊野別当」とあり、この時代からすでに熊野神社があったことが示されているとも。
奥州藤原氏に関わる家臣たちが、信夫郡~名取郡へ熊野信仰を深めていたことはあり、敗者の武士の奥方の行く末は、尼になる他なかったため、
弔いの御堂をつくり供養をしてきた。
その道は、ずっと平泉まで続いている。