中世の遺跡や農民信仰(口寄せ等)を再興した「斯波兼頼公」
山形県のオナカマサマの研究をされていた鳥兎沼氏は、口寄せの信仰が長く継承された背景に、室町時代に盛んな争いの地で衰退した遺跡や寺社などの再興に尽力をつくした「斯波兼頼」によると、言及されておりました。
例:山寺など
山形開祖と言われる初代最上氏。
斯波兼頼は、源氏の名族足利氏の流れをくみ、
八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫に当ります。
「斯波」の姓は、先祖の足利家氏が現在の岩手県紫波町を根拠地としたことによるものです。(1356・南朝正平11年)8月6日に山形に入部した。
この話から、口寄せのオカミサン(宮城県)とオナカマサマ(山形県)の交流が、どこかで斯波氏と繋がっている気がするのです。
山形城跡(霞ケ城)の鬼門にあるのが六日町の熊野神社であり、斯波兼頼公が行蔵院阿闍梨をつかわし、紀州熊野大権現を勧請し城内に祀ったことを草創としています。
しかし、そのことで口寄せとの交流が直接に関わっていたことを証明することはできませんが、父は大崎、子は山形という繋がりがあるのです。
大崎市の加美町と山形市は、友好都市になっています。※平成元年
山形へ入部した斯波兼頼の父、斯波家兼は、奥州斯波氏の祖となり中新田城跡(大崎市)に像があります。
加美町の熊野神社にも、斯波氏と大崎氏が拠点としていた地にあたります。
鬼門に祀る熊野神社
この山形市の六日町にある熊野神社は、山形城の「鬼門」にあたります。
山形城の鬼門に熊野神社である理由は、鎌倉幕府と同じです。
鎌倉には、「朝比奈熊野神社」があり、鎌倉幕府の鬼門となっている神社です。
朝比奈は、大和町(宮城)のダイダラボッチが朝比奈氏で、和田氏のルーツがあります。
→朝比奈義秀。
鎌倉時代初期の武将で父は和田義盛。
和田氏は熊野本宮の神職でした。
鎌倉の「永福寺」は、源頼朝が中尊寺の平泉を鎌倉につくりたかったが、実現できず。
口寄せの原点にあるのは、蝦夷鎮魂と言われます。
青森の『津軽外三郡誌』によれば、
アラハバキの祈神職は、イタコ・オシラ・ゴミソであったとされます。
そのようなシャーマニズムな巫女は、
シベリアシャーマン、オンゴン霊のモンゴルとも祈祷が共通しており、
日本だけが特別な口寄せであったということでもないのです。
争いが激しかった東北の地に限られていることを考えると、
蝦夷の地に語り部や口寄せが集まることは、不思議ではありません。隠れキリシタンもしかり。
斯波氏のルーツは、岩手県の紫波にあるため、
斯波兼頼公は、蝦夷の精神を受け継いでいたのかもしれません。