【紀州】熊野本宮大社旧社地「大斎原」の音無川
和歌に多く詠まれる「音無川」
名取老女が勧請した由縁では、名取川を熊野川に模している。しかし、芸能の世界では、音無川としたい理由があった。
名取川を音無川と模した理由は、大斎原による。
つまり、「禊」のこと。
国立能楽堂にて開催された(2016年)
復曲能「名取ノ老女」より、
長年途絶えていたものを東京国立能楽堂が、
「復興と文化」と題して約130年ぶりに復活させた。
復曲能のために作成された部分もあるが、
歴史というより能から生まれた芸能であり、
名取老女が文化であることを物語る背景を考察すべき内容である。
なぜ、名取老女が能になったのか。
その謎を解く鍵のひとつ、能の「シテ」は亡霊であること。
つまり、亡くなった人が主人公であり、
ワキがそのシテの声を聞いて供養を行うといった形式がとられる。
その特徴を考えると、名取老女は、
亡くなった人たちの姿に変え、あるいは、代弁してきたと思う。
熊野の浄土思想、末法の世、
1120年~1123年という縁起年代を考えれば、
多くの人が金採掘に従事してきた陸奥開拓の歴史が
長い間、営まれてきた時代である。
平泉の浄土思想には、金と関わってきた歴史があり、熊野信仰が寛容であるが為に、すべての罪を許してきた名取老女という巫が見えてくる。
名取熊野本宮縁起
能に登場する音無川は、能の「下歌(さげうた)」の部分、
老女が
「ここは名を得て陸奥の、名取川の川上を、
音無川と名を変えて」
と、名取川の「川上」を音無川であるとしているので、
名取熊野本宮縁起には、それを象るために音無川を置いている。
禊となる音無川を名取川と合流させ(通して)
熊野三社の参拝を促していることにある。
名取熊野本宮の縁起によれば、
1120年(保安元年)四月八日に創建。(鳥羽天皇の御代)
名取川を紀国の熊野川に見立て、社地の前を流れる小川を音無川に
象り、熊野坐大神の鎮り坐すにふさわしい地とした。
元は、500m上の台地にあった「小館」から現在地へ移す。
大斎原になぞらえて大原と称していたとある。
橋がなかった音無川
東北の伝説には「橋をかける」話が多い。
対し、音無川には橋がなかった。
熊野本宮大社はかつて、
熊野川・音無川・岩田川の合流点にある
「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にあった。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、
参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、
着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりであったという。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、
神域に訪れた。
明治22年(1889年)の大水害により被害を受け
社殿の多くが流出したため、
水害を免れた4社を現在の高台にある熊野本宮大社に遷座した。
現在、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられている。
江戸時代まで音無川には橋が架けられず、
参拝者は音無川を草鞋を濡らして歩かなければならなかった。
濡藁沓(ぬれわろうづ)の入堂とも言われ、
清める必要があったから、あえて橋をかけなかった説がある。
音無川は別名、密河といった。
「密」と言われたからなのか、音無川の和歌には、罪や、別れの内容が散見される。
「音なしの川のながれは浅けれど
つみの深きにえこそわたらね」『拾遺和歌集』
恋(こひ)わびぬ音(ね)をだに
泣かむ声立てていづこなるらん音無の里『拾遺和歌集』
「音無の川とぞついに流れける 言はで物思ふ人の涙は」(清原元輔)
「君こふと人しれねはや 紀の国の音無川の音だにもせぬ」(紀貫之)
など、音無の里があり、音がない、音信不通というように、
音無川は、他の川に比べて和歌として多く用いられた文化的な川になる。
みちのくの伝説では、橋をかける話が多いが、主に熊野信仰によりもたらされたものと考えられ、そのひとつ、「阿胡耶と松」も能になっており、藤原実方が関わる。
ところで、音無川が「密川」とよばれていたことからか、
「密語橋」という言葉が東北にある。
もうひとつ、名取と関わりをもたらしている伝説から、
東北では「橋をかける」意味を、紐解いてみたい。
参照:熊野本宮大社公式サイト