武蔵野市住民投票条例案に関する用語法の不毛な議論:「参政権」「実質的な拘束力」
否決された武蔵野市の住民投票条例案ですが、本件に関連して用語法に関する不毛な議論がありました。
本質的でなく知識マウントでしかないような場合もあったので、ここで明示しておきます。
「参政権」と法的拘束力の無い住民投票
本件について【「参政権」と(法的拘束力の無い)今回の住民投票は違うのだ】という言説がありました。
主に共産党界隈から発せられていましたが、一部の法学界隈からも出ていました。
しかし、「参政権」は日本の法体系上の用語ではなく法学的整理概念に過ぎません。この文言がある法規はないハズです。
参政権は、選挙権・被選挙権が中核を成し、公務員の選定・罷免権も含まれるというのが確実な理解です。
加えて、憲法改正の国民投票・最高裁判事の国民審査・法令上の住民投票(リコールなど)もこれに含める立場があります。おそらくこの辺りまではコンセンサスの採れている理解。
更には公務就任権・請願権・選挙活動の自由も参政権に含める理解があります。ただ、公務就任権は職業選択の自由と捉えるのが最近の流れであり、請願権は参政権的機能を持つと言われていることから本来の参政権ではないとの意識があり、参政権は「国家への自由」であるという側面を考えると「国家からの自由」の要素のある選挙活動の自由は排除されることになります。
「法的拘束力が無い住民投票だから参政権ではない」と整理するのは勝手だが、今回のようなものを参政権と呼んだとしても、法学界隈の人間が嫌な顔をするくらいで、「一般人に誤解」が生じるとは言えないだろう。一般人からすれば「政治に参加する権利」くらいにしか思っていないわけですから。
そもそも今回の条例案、外国人への投票権付与が争点になっていますが、元は「住民自治の促進」が制度趣旨なわけです。住民全員を巻き込んで行政に投票事務を行わせて自らも投票をする行為が「政治参加」によるものではない、というのは、一般人の感覚からしたらおかしいでしょう。
ただの言葉遊びだということです。
それを「政敵が支離滅裂な反論をしている」という印象操作に使っているのは、本当に度し難いと思います。事実、そういう論法で朝日新聞が英語版で国内情勢を海外に発信しています。
実質的な(法的)拘束力・事実上の(法的)拘束力
11月中旬にも長島昭久議員の発言として「実質的には法的拘束力がある」という表現が表れた際に、「そういう書き方は良くない」という反応がありました。
この文言自体は武蔵野市の自治基本条例逐条解説にある「実質的な拘束力」に由来しています。
http://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/027/065/jk_chikujyo.pdf
とはいえ、「法的」拘束力は無いが一定程度それを実現させる方向の力が現実には・政治的には働く、ということを言いたい場合、法学界隈では「事実上の拘束力」と表現されるのが一般的なので「実質的な法的拘束力」「事実上の法的拘束力」という風に書かれると不安になって指摘したいというのも理解できます。
実際、Twitterやnote等で長島議員自身が書いたものは「実質的な法的拘束力」ではなく、武蔵野市の用語法通りに「実質的な拘束力」となっている。
附帯決議なんかは法的拘束力は無いが事実上の拘束力があるということの例として適当でしょう。現在設置されてる皇室に関する有識者会議も退位特例法の附帯決議が設置根拠。
この辺りは「法的拘束力の有無」についての感度というか、法的拘束力が有るとした場合に付される様々な効果を予想されることを避けることへの危機感が強い人と、そうではない一般人とで記述の仕方について感覚の違いが出ていると思う。法的拘束力の無い住民投票と、法定されている住民投票の違いを認識させる必要があるため、「実際には法的拘束力はあるでしょ」という書き方は不用意だと思う。
もっとも、一般人が投票結果を実現させる方向の力が現実には・政治的には働く、という側面を強調したくて言っているだけなら、そういう細かい点をいちいち指摘しようとは思わない。
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