映画感想:『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』に感じた違和感と、愚かしさと「嘘」とご都合主義について。(ネタバレあり)
スパイダーマン・ファーフロムホーム(FFH)を見てきたよ。その感想をネタバレありで書いていこうと思う。作品の本質的にアベンジャーズ・エンドゲームのネタバレにもなってるからそこらへん気をつけて。
その前に私自身のマーベル作品もといスパイダーマンの情報量について書いておこう。サム・ライミ版は見たことあるし、アメイジング・スパイダーマンもこないだアマゾンプライムで見た。スパイダーマンスパイダーバースは素晴らしいアメコミ映画として真髄を極めた名作だと思う。PS4のスパイダーマンも操作性実に素敵だ。だいたいスパイディに関してはこんなもん。
一応前の記事。
マーベル作品特にアベンジャーズ関連については希薄だ。エンドゲームの話が出ていたから直前にインフィニティ・ウォーをデジタルコンテンツで見て、その翌日に劇場に最速で足を運んでエンドゲームを見終えるというやりかたをした。ははぁあのシーンやこのシーンはこういう場面なんだなぁ感で。
まぁ要するに、私はアメコミ原作のほうはちっとも知らないのだ。だから前知識もなく今回の彼に遭遇できたのはいいことだと思う。
そろそろ本題に入ろう。ネタバレの改行にはちょうどいい文量だろう。
どうにもしっくりこない作品だった。
確かにスパイダーマンでやりたいこと、ストリングアクションだとかド派手さとか、ピーター・パーカーとMJの修学旅行とその青春とすれ違いっぽいのとか、トニーへの思いとかその意志を継ごうとするとか、まぁあった。ちょっと青春のとこは食傷気味だけども。おデブの友達のほうが面白いじゃないかって思っちゃうくらい。
しかし、どうにもこうにも考えても、今回のストーリーの根幹部分に関わるあの描写が、すごく抵抗を覚えるものだったのだ。
ストーリーのあらすじをさっくりと書いておこう。
【アベンジャーズの最後の活躍から8ヶ月、5年間消失していた人類たちが戻ってきて混乱がまだ収束仕切っていない頃。スパイダーマンもといピーター・パーカーはアイアンマンの喪失を否応がなしに感じていた。しかし一方で学生としてのピーターはヨーロッパへの夏休み旅行を控えており、思いを秘めているMJに対してデートプランと告白を考えている。
しかしヴェネツィアを旅行中に現れたのは未知なる敵と見知らぬヒーロー、そしてS.H.I.E.L.D.の長官ニック・フューリー。ピーターの夏休み旅行は、ヒーローとしての責務に振り回されるものとなる】
こんな感じかな。そして次のセンテンスからFFHの違和感について書いていこう。ネタバレ満載だからバックするならここまでだ。いいね?
よし、いいと見たぞ。では。
・ピーター・パーカーが愚かしい
ピーターはヒーローであるが高校生だ。未熟な子供とも言える。だからこそ未熟な判断からの間違いをしてしまうし、しかし優しさと強さを秘めているからこそ彼はその間違いを取り戻すし、人に好かれる主人公として存在できる。はずだった。
今回ピーターがやらかした最大のミスは「トニー・スタークから受け継がれたイーディスを他人に渡してしまったこと」である。
イーディスとはメガネ型の超性能衛星通信端末であり、超高度なハッキングから衛星からのドローン操作での攻撃など、それ1つで世界を支配できるかもしれない力を持つトニー・スタークの遺産だ。
彼は最初イーディスを渡されるも、その扱いを誤って大惨事寸前の出来事を起こしてしまいそうになる。彼は辛うじて自身の手でそれを回避するも、自分に対する責任の重さを思い知る。
そこに現れたのが『ミステリオ』というヒーローだ。金魚鉢のような頭部カバーにマントにメタリックな甲冑。
ミステリオ、本名クエンティン・ベックは現在ある地球とは異なる地球からやってきた存在で、いうなれば並行世界からのヒーローだ。エレメンタルズという水、土、火、風といった属性の強力なヴィランたちと戦っているが、それらが彼の地球も滅ぼし、こちらの地球まで滅ぼそうとしている。
その戦いの最中、夏休み旅行のピーターが巻き込まれるわけだ。そして彼の尽力あってその怪物を倒し、地球にヒーローが数少ない状況もあってかニック・フューリーも彼をアベンジャーズに誘おうとしている。
そこでピーターは思う。このイーディスをトニーが託したのは「自分に」ではなく「自分から信頼できる人に」渡すように託したのではないかと。
そうであるなら子供で未熟な自分よりも、経験豊富な大人で自分よりもイーディスをかけた姿が似合うヒーローのミステリオ、ベックのほうがずっと相応しいのではないかと。そう信じきったピーターはベックにイーディスを渡してしまう。
それが、最悪の大ミスであったことを知らずに。
・ミステリオは偽物であった。
ミステリオの超常の力は超高性能なプロジェクターの投影によるもの、つまりハリウッド映画のような作り物。
当然、彼と対峙する敵エレメンタルズも虚構のものであり、リアルタイムで映像を作り出して「虚構のヒーロー」を自分たちの利益のために演出していた偽物である。
その来歴もかなりユニークなもので、トニー・スタークの元で働いていたがその思想の危険性からクビにされて彼に強い恨みを抱くホワイトカラーである。トニーが死した今、彼の代わりに世界のヒーローとなって頂点に立とうとする。その嘘のためならば街だろうが人だろうが傷ついても構わないという、実に姑息で安っぽく危険で迷惑な悪役(ヴィラン)なのである。ある意味サノスの後にこいつを出したのは面白いまでもある。
どうやら原作コミックでもミステリオはそういうヴィランであったらしいが、幸か不幸か原作の知識がない私にとっては実に新鮮な気持ちでもあった。
「いやいやピーターこんな奴信用できんだろ、怪人と戦いながら自分でヴェネツィアの美しい鐘楼をぶっ壊してしまってる迷惑な奴なんだし」とか「おぉーいピーター、トニーの遺産を譲るなよ! 真意を知れ!」とか「ほらやっぱりィィィィィ!」とか心の中で思いっきりツッコミを入れていた。
かなり前置きが長くなってしまったな。
ともかくベックはミステリオにより本物の力を与えるために、トニーがピーターに残したイーディスを手に入れたい。そのためにピーターを騙し、大成功したのである。
ヴィランであるベックが騙し、主人公であるピーター・パーカーは騙された。
これは、ハリウッド的な脚本術としても、基本的なキャラ造形にしても、主人公としては致命的な愚かしさであったように感じるのである。
拙論において「主人公は有能でなければならない。あまりに愚かしい主人公は誰からも応援されない」というのがある。
裸の王様やミスタービーンみたいな、主人公を笑うためのコメディであるなら話は別ではあるが、肝心なところでいつも間違えてばかりであったり成長のない人物は共感を持たれず、それは面白く感じないのである。
今回のピーターの大ミスはそれに匹敵するようなものに感じられたのである。その理由を列挙してみると
・トニーが託した思いを理解できていなかった
・ピーターの大ミスによってロンドン橋周辺が破壊された
・後述する「大いなる責任」を背負いきれなかった部分もある
ざっくりこの3つかな。解説していこう。
・トニー・スタークの真意を蔑ろにしてしまった
ここの部分は、ピーターが散々打ちのめされた後、ハッピーさんに救われて飛行機の中で反撃の狼煙をあげる場面において「トニーはいつだって君のことを第一に思っていた」とピーターに語りかける一見感動的に見える箇所がある。
ピーターはまだ未熟なヒーローではあるものの、心優しい少年である。しかし、そうであっても、「ピーターが信じきれなかったから大ミスをした」とも取れる展開にするのはさすがにレッドゾーンギリギリの采配に感じたのよな。 個人的にはレッドカードだ。
「トニーはピーターを信じたのに、ピーターはトニーが信じたピーター自身を信じきれなかった」というのは取り返しのつかない後に続く失敗にすべきではなかったとは思う。
今後も新作マーベル映画が出るたびに言われ続けるんじゃないかな、これ……
・ピーターの大ミスがもたらしたロンドン橋の破壊
そんなこんなでピーターはスパイダーマンとして、ミステリオの虚構に立ち向かいそれを壊し、彼の凶行を止めることに成功はする。主人公としての体裁を守りきれた……
とは、ならないと思う……
ミステリオがイーディスによって操った無数のドローンで、ロンドン橋は多大なるダメージを受けた。もしあれで死傷者が一人も出なかったというなら別であるが。
もしピーターが「食い止めた」というのであれば、ロンドンへの被害を一切出してはならなかったと思う。その前に食い止められなかったのなら半熟にも程がある。ベルリンのシーンで食い止められなかった時点で失格だったのではないかなとね。
その展開にしてしまったのは「ドローン相手にロンドン橋を縦横無尽に飛び交い戦うスパイダーマン」というストーリー映えする絵を撮らなければならない理由があったように推測する。
ハリウッド的な映像作品のために、ピーターはハリウッドらしからぬ主人公として半熟にさせられてしまうのは、あまりに整合性がつかないと思うのである。
・背負わされた「大いなる責任」
そんなこんなでなんとかミステリオの凶行を止めたスパイダーマンだが、ニューヨークに帰ってくるととんでもない展開が待っていた。
ミステリオは個人でなく、それを支えるチームでもあり、その残党がある情報をばらまいたのである。
「スパイダーマンがミステリオというヒーローを殺した」という嘘が一つ。
「ドローンを使ってロンドン橋を破壊したのはスパイダーマンである」という嘘が二つ。
そして「スパイダーマンはピーター・パーカーである」という真実である。
「嘘をより堅牢なものとするのなら、真実を混在させるべし」という話もあるがまさにそれを通じている。二つの嘘ならばあっという間に撤回は可能だろう。しかし一つの真実を覆すことは非常に困難だ。
さらに前者の二つの嘘に関してもすべては「ピーターがベックにイーディスを渡した」という事実が起因である。確かにトニーの遺産であるイーディスを取り戻し、スパイダーセンスによって虚実に騙されず彼を倒すことができたのはヒーローの資質に相応しいと思う。
しかし、取り返せていないのはどうなんだろう。「ミステリオ」というヴィランは個人ではなく複数人の集団であり、ピーターはベック一人を相手にするだけで手一杯だったせいで、彼らの企みを完全に阻止することはできなかった。
主人公が精一杯頑張っても、愚かしさからやってしまった大ミスを挽回できずに後に引きずることになる。という展開をやってしまうのは、よほどの大逆転ができるでもなければ、ピーター・パーカーはその逆転が訪れるまでずっと愚かしさを引きずり続けなければならない。
だからまぁ逆転を期待してるよ。
と言いたいが。
問題は、エンドクレジット後の映像だ。
・ニック・フューリーも偽物だった。
エンドクレジットが終わってみたら衝撃の展開が待っていた。
S.H.I.E.L.D長官のアベンジャーズのまとめ役ともなっているニック・フューリーがタロスと呼ばれる宇宙人であった。その付き人マリアも同じ宇宙人で、シェイプシフター。つまり擬態する能力持ちだという。どうやらキャプテン・マーベルに出てくる人物らしいけどそっちの映画はまだ見てないので知らない。
これ、物語の大筋が全部転換してしまう最悪手だと思う。
ずばり言うならご都合主義だ。
ベックの「ミステリオ」という嘘を見破れなかったニックが、実はニック本人ではなかったとしてしまうならばピーターの愚かしい大ミスはどうなるということになる。
もしも本物のニックがあの場にいたなら「ミステリオ」に騙されず最初から対応できたかもしれないという余地が残ってしまうのである。
そうしていたならそもそもピーターが「ミステリオ」に騙されることもなかったわけだし、愚かしい大ミスをしでかす必要もなかったわけだ。もともと発生しようのなかったトラブルに主人公を巻き込んでいたかもしれない。
そもそもニックがスパイダーマンに協力を仰ぐという行為自体が「スパイダーマン以外に世界を守るヒーローがいない」という作為的なご都合主義であり「そこに現れたのがミステリオというヒーローである」という状況もまた作為的なものであり「そのミステリオがもたらしたスパイダーマン最大の危機」というのもさらに作為的なものになってしまう。
「ニック・フューリーでも騙されるくらいにミステリオが上回った」のような前提条件があるならばまだ理解はできるが、それすらも疑わしくなると、これはご都合主義の極みになりかねない。
「ミステリオ」が一蹴されても、トニーの遺産であるイーディスは受け継がれるだろうし、ピーターはその責任の重さに苦悩したかもしれないけれど、ヒーローとしての責任を押し付けてくる立場のニック・フューリーその人が偽物であるのなら、ファーフロムホームというこの物語そのものが「全く生まれる必要のない重圧」でしかなくなると感じてしまうのである。
エンドゲームの直後であり、世界を救ったヒーロー・アイアンマンとトニー・スタークの死去に対して、思いを馳せる次世代のヒーロー・スパイダーマンとピーター・パーカーという美しい構図があったのに、その展開すべてがご都合主義によって展開されていたと解釈できる余地を残してしまうのは、瑕疵を通り越して深い傷であるようにも感じてしまうのであった。
さすがに6千文字近く書いてたら、そろそろ収拾すべきだろう。まとめると以下の点がFFHに抱いた違和感である。
・主人公が取り返しのつかない「愚かしい」大ミスをやらかし、それを収拾しきれず後に残すという展開
・そもそもその愚かしい大ミス自体が防げるものであったのではないか、という余地を残してしまった登場人物の「嘘」
・背負わなくてもよかったはずの責任を勝手に背負わされる「ご都合主義」
以上の3点が、私がスパイダーマンFFHに対して非常に強い違和感を抱いた部分であった。
スパイダーマン作品としてみるなら過去シリーズへの愛をしっかり描いているんだが、それでもこの物語そのものの必然性を疑うような作品になった印象を受けるのが残念でしょうがない。
また加筆するかもしれんが今回はここまでで。アデュー。
※見出しに画像つけていたらアクセス数増えそうな気がする。公式から持ってきた画像だけど問題があったら削除しよう。