「萌え」という単語は悪質な連想ゲームの道具「≒」へと歪められている(献血ポスター関連)

宇崎ちゃんとその作者とこの絵を採用した日本赤十字社は何ら間違っていないと思うし、人命を救うための献血呼びかけという大事な仕事を行っている。私は彼らの行動を尊重する。

追記(20/02/03):オチがついた。

結論から書いておこう。

勝手に生まれた言葉の定義を勝手に誤解し勝手に当てこすり、勝手に反社会的と断じてしまう差別的な考え方をする者こそが愚かしいのだ。

上のような記事も出ているが、大体主張は被ってるが、根本で食い違ってる気がするので今回このnoteでまとめることにした。

上の記事だと「宇崎ちゃんのポスターはエロい」を前提に話が進められているが、そこがまずずれていると思う。本当にエロいのか?
「巨乳だからエロい」「女の子だからエロい」「漫画だからエロい」という言葉が出るかもしれんが、それは極めて危険な言葉だ。前者2つは女性に対するセクシャルハラスメントであるし、後者についての根拠はなんだろうか。

「漫画は萌えだからエロい」か。言ってしまったね? 言わなかった人は偉い。言ってしまった人はこれから考えていこう。

ああもう一つ書いておこうか。
「あなたは宇崎ちゃんを萌えだと思いますか?」だ。

萌えとエロを=(イコール)で結んだのは、なぜだ?

そもそも「エロ=何か」と、その先を勝手に連想しようとしなかっただろうか。

だって昔からそうだから」なんという短絡的な言葉を紡がないことを願う。自分で明確に言語化できてない曖昧な概念を用いて勝手に抽象化をするのは、それはまさしく無知から来る差別に他ならない。

だから考えるのをやめてはならない。一緒に考えていこう。

萌えという言葉はどこから来たの?

宇崎ちゃんのポスターについて多分抱えている問題は、視覚的なポスターなのに言語的な言いがかりが纏わりついていることにあるんじゃないか、とは思う。

ポスターという視覚的なものであるにも関わらず如何なる言語がついてくると言えば「萌え」だ。
特に2000年代から流行りだした言葉「萌え」は誰が言い出したわけでもなく、出典が明らかでもないのにいつからかオタクの代名詞と使われた。
ただ個人的にこれはアベコベだと思う。

前提がおかしいかもしれないが、萌えに性的要素はなかったはずだ。草花が芽生える様子という元来の意味のどこに性的要素がある?

「萌え」という言葉はオタクが自身の代名詞として言い始めたものでなく、マスコミがオタクの代名詞として用いるようになったのではないかという仮説だ。
2000年代のアキバで特に見かけるようになったのがメイド喫茶で、それはさも風俗のようなそれに見えたかもしれない。(ただの主観であるし、メイド喫茶や風俗で働く人たちのことを貶めるつもりは断じてない。職に貴賎なし)
Wikipedia出典で申し訳ないが世界初の常設メイド喫茶「Cure Maid Café」が開店したのが2001年3月であるらしい。

そもそもの前提として「漫画=萌え」であるらしいが、そこから疑ってみよう。

さて冷静に考えてみてほしい。
漫画はいつから存在していたか?
手塚治虫さんから考えるならば戦後直後から、それ以前ののらくろクンが合った時代から考えるならば戦前から、さらにさらに昔で考えればウォルト・ディズニーのミッキーマウスからになる。大体1928年あたりかな。

1928年に生まれたミッキーマウスは萌えではないが、2001年以降に生まれた漫画アニメ作品は萌えである。

だから「漫画は萌えである」

変であろう?

「萌え」という言葉が生まれたか以前か以後かでその作品の萌えか否かが決まるなんていうのは、単純な言葉の発生による当てつけ以外の何物でもないだ。「漫画が萌え」であると主張するならば、なぜウォルト・ディズニーのミッキーマウスの頃から萌えという言葉がなかったか。

今の時代から見てはならんぞ。今の時代の目で見れば手塚治虫さんの作品にも萌えを感じることはできるが、かつての時代で「萌えだ」と言ってた人物がいたかだ。いや、いるまい。もしいたらコメントにでも書き込んでほしい。「漫画=萌え」と主張するならば、2001年以前の漫画アニメで「萌え」と謳われていた時代の反証を出さなければならぬ。
1995〜6年にエヴァンゲリオンが出てきたけどその時はどうだったかな……綾波萌えとかアスカ萌えって言ってたっけ……あの頃は時代が近すぎる。

ともあれ「萌え」という言葉が誕生し、今の意味が与えられたのは2000年代からであり、「漫画アニメ=萌え」という根拠のない等号が何者かによって与えられたのも2000年代だ、というのが私の主張だ。
そして萌えを肉体的な性と結びつけようとし、今の時代の肉体的な性は低俗で隠匿すべきものであるという社会通念が成立している。


萌えの利用と誤算

要は「キャラクターやその要素が好きである」という言葉が、マスコミによる報道によって、メイドの装束を纏った女性からのサービスというビジネスと結びつけて「肉体的な欲求を叶えてくれるもの=肉体的な性」を表す言葉といつのまにか歪められたのではないか、という仮説だ。何のために? オタク叩きは1980年代から続いていたからだ。(ここらへんは少々短絡的な結論であるが)

1980年代に「漫画は低俗なものである」と手塚治虫さんや永井豪先生の漫画が槍玉に上げられ焚書まがいの攻撃を受けていた時代もある。「萌え」の登場によってその方向性は別へと転換したと思う。

ただ宜なるかな、時代の変遷によって漫画アニメ作品は市井に受け入れられるようになり、逆にオタク側が自ら「萌え」をエモーショナルを表現するのに都合のいい言葉としてより使うようになった。

オタクが自発的に言い出した言葉だからマスコミは関係ないだろうと思ったそこの君。「萌え」という言葉を2005年流行語大賞に選んだのは誰だろうか? 他ならぬマスコミであろう。

そしてマスコミとは同時に民衆から現れた存在であることも、忘れてはならない。主語が曖昧になることでより強く全体化された主張を社会に押し通せるようになるが、誤ちもまたそのままに拡散する。そういったのがレッテル貼りや差別へと繋がりかねないのだ。

萌えという歪んだ等号(≒)は社会的な攻撃の道具にされた。

ぐるぐると話が回ってしまったのでまとめよう。
「萌え」という言葉は2000年代に生まれ、2001年に登場したメイド喫茶の風俗的な印象と掛け合わせて「萌え=肉体的な性への衝動」という歪められた定義を与えられる。
しかしその一方でオタクは「肉体的な性以外の、衝動を与える対象物に対する感情」に対しても「萌え」という言葉を使い始めた。

ここで萌えという単語に2つの意味が生まれた。「肉体的な性」と「あらゆる衝動を愛でる感情」だ。
ある意味言葉の恐ろしいところだ。後者の意味で使ってるのに前者の意味で捉えられることがある。
何者かの手によって意味を分割されたこの言葉は、時として発言者自身にも意図されない中傷の大義名分を与えることになったのだと思う。

「萌え」という造語と意味によって「漫画≠肉体的な性」が「漫画≒萌え≒メイド喫茶≒風俗≒肉体的な性」つまり「漫画=肉体的な性」という誤った等号に歪められてしまったのではないか、という話だ。
これが「悪質な連想ゲーム」である。

そしてそれは同時に「漫画は肉体的な性である」と勝手に誤解する動機を与えることにもなった。
念の為言っておくぞ。漫画に一切の罪はない。

勝手に生まれた言葉の定義を勝手に誤解し勝手に当てこすり、勝手に反社会的と断じてしまう差別的な考え方をする者こそが愚かしいのだ。

「巨乳の女の子を社会的に相応しくない」と言ってしまった、女性を守る女性の差別的発言

2019年現代に戻ってこよう。
20年前の古き考えのままアップデートされずに「宇崎ちゃん≒漫画≒萌え」と考える人ほど、作品を見ずに「宇崎ちゃん≒肉体的な性」と決めつける。

推して測るつもりもないが、漫画を毛嫌いする人はその歪んだ連想ゲームで「肉体的な性は公共的な社会の啓発に相応しくない」と言ってしまう。
絵に対して、だ

するとそこから先は自己矛盾の世界に突入してしまう。
どのような要素が肉体的な性であって公共的な社会に相応しくないか」を分析しようとすると、そこに散らばる要素は「漫画」「女の子」「巨乳」という断片的な要素だ。
「萌え」という歪み誤った等号によって導き出した中傷がここで崩壊する。

漫画は肉体的な性か? ただの絵だ。物理的に存在するのは印刷された紙であり映像が表示されたモニターだ。
女の子や巨乳は肉体的な性か? それを言及すればセクハラであり差別だ。言いたいことはあるが論点がずれるので今は置いておく。
「萌え」は肉体的な性か? そもそも萌えとはなんだ、ただのマスコミの流行らせたあやふやな概念じゃないか、という。

1980年代ならば「漫画は性的だ」と叩くこともできただろう。だがあれから40年も経って価値観は変化した。人々は情報ツールを手に入れ、一方的ではなく相互に情報発信をする時代になった。「漫画が必ずしも性的とは限らない」と考えられるようになったのである。(ちょっと主語が大きい気がするが)

その結果もたらされたのが、女性による女性という要素への差別的発言による取り返しのつかなさだ。
分析するには分断された言葉を、如何に相応しくないかを論じなければならず「巨乳は奇形」「乳房縮小手術の推奨」と言って、漫画という架空ではなく女性という現実的な存在への攻撃になってしまった。

浅はかにも程がある。彼らは女性を守ると言いながら、女性の要素を中傷し傷つけているのである。同じ女性同士でだ。

漫画に描かれた巨乳や女の子は不健全だが、実在する巨乳や女の子は健全である。なんて理屈が通るか?どっちも健全だ。
これでどっちも不健全なんて言い出した日には、性は邪悪であり断ずる対象となる。それは差別だ。
女性に自由と平等を、といいながら女性がヒジャブで全身を覆い隠さなければならないことを肯定するのか?という。女性が自由に社会で活躍できる世界とは真逆の発想をなぜするのだろうとね。

とまぁここまでで「萌えという言語的にあやふやなもの」で「視覚的なポスターを強引に問題視」しようとした結果、視覚的に存在する現実的な存在への誹謗中傷にしかならなかった、というね。

「漫画は萌えである」「萌えは性的である」という歪んだ根拠を愚かしくも信じた結果であると思う。
さらに某氏について述べるのであれば、自身の主張の正当化を図ろうと新たなアイディアを提供していたが、その内容は「秋葉原を閉鎖し管理する」というゲットーそのものの発案であったり「あの絵は知的障害者を連想させる」と言って知的障害者を差別し蔑称したりしていた。

人は平等であると論じてる者が、どうして差別的な行為や発言を平然と行えてしまうものか、ここもまた一つの疑問であるし人間が抱える問題の解決の手がかりになるのかもしれない。

「萌え」と「推し」

あと個人的な追記だが、かつて使われた「萌え」という言葉のなし得る意味は「推し」が実現しつつあるように思う。

「メイド服萌え」と「メイド服推し」とでは、意味合いが違って見える。主観でしかないがね。まだ今の時代で「推し」の客体になるのは人物やキャラクターにとどまっていて属性はまだなっていない。いずれそういう時代が来るとは思うが。

これも主観でしかないが「推し」という言葉は私がTwitterでフォローしてる友人たちの特に「刀剣乱舞」界隈から聞こえてくる言葉であると思う。刀剣乱舞は詳しく説明するのは面倒なのでざっくり言うと、イケメンに擬人化された刀たちと共に戦う物語で、主に客層は女性がメインだ。

そして個人的に興味深いのは「推し」という言葉は「萌え」と良く似ていることだ。「その客体に強い衝動を与えられておりあらゆる感動の感情を一括りにした」言葉という側面は非常に似ている。

その一方でどこか違うニュアンスも感じるのは、「萌え」に与えられた歪んだ要素「肉体的な性」という意味合いが「推し」のほうにはほとんど含まれていないのではないか、ということ。
個人的にここは「推しという言葉には推し進めるであったり推薦するという既存の意味がすでに内在している」のと「漫画アニメの低俗化連想のために用いられていない、いわゆる汚染されてない言葉である」ことが理由だと思っている。

もしかすると将来的に「萌え」が死語となって「推し」がエモーショナルを表す言葉として台頭する時代が来るのではないか、と思ってたりする。


だいたい書きたいこと書いた気がするし飽きてきたのでここらへんにする。
もし続くならば「萌えと推し」についてより追求するかもしれないな。

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ナタ
私は金の力で動く。