熱海だ!
キーボード鳴り響く職場のデスクでそう思ってからのわたしの行動は早かった。熱海といえば映画『東京物語』で父と母に娘たちがプレゼントした旅行先である。あの頃は若者たちが遊びに行きやすい場所だったのだろう、その証拠に夜、若者たちの騒ぐ声に眠れない父と母の描写がある。(余談だが、あの映画の素朴さとは裏腹なエッジの効いたテーマ性には毎度ドカンとやられる。)しかしそんな光景は今や懐かしいものになってきている。熱海駅前の活気ある商店街を抜けると、新しい建物よりも古い建物や廃ホテルが目立つ。どことなくディストピアを感じさせる街だ。それが熱海を熱海然とさせているのかもしれないが夕暮れ時、こんなにも寂しくなる街をわたしは知らない。その寂しさがわたしは苦手なのだ。
ではなぜ行こうと思ったのか。
「なんとなーく」である。思いついてしまったものは仕方がない。
今回は寂しくならないかもしれないという可能性を胸に仕事を片付け、駅へ向かうと
【電車運転見合わせ】
まさかである。しかしもうホテルはとっているし、気持ちは熱海に向かっていた。追加のきっぷ代は持ってけ泥棒!と気持ちを切り替え、別ルートへの道を急いだ。
金夜の品川駅はいつもより人が多い気がする。新幹線で故郷へ帰る人、旅行へ向かう人でごった返しているのだ。みな重そうな荷物を抱えて目的地へ急いでいるからか、殺伐とした雰囲気がある。しかしそんなことは知らぬ存ぜぬ、味濃いめのカプチーノとそれとは到底味の合わないトロたく巻きを片手に新幹線へと乗り込んだ。トロたくはそんな世界をも救うんじゃないかと思うくらい絶品だった。
早速寂しくなりかけるも、サックスのストリートミュージシャンが『星に願いを』を演奏しており、その良い雰囲気がわたしの心を癒してくれた。彼に感謝の気持ちを渡し、初めて泊まる駅前のホテルでチェックインを済ます。すると駅近のビルに入っている浜松餃子が美味いとホテルの旦那さんから話を聞く。気持ちのいい旦那さんの心意気にいてもたってもいられず、財布片手にその店へ向かった。
熱々の鉄板の上で焼かれる浜松餃子を口に放り込み冷たいビールで流し込む。
幸せはここにあったのか…ホテルへの帰路、数人の海外旅行者とすれ違う。世界は戻りつつあることを実感しながら、旦那さんにお礼を伝え部屋へ戻った。熱い湯に身体を沈めるとボワッと身体が緩む。満足感の中、明日も穏やかであることを願った。
翌日、目覚ましよりも前に目が覚めると部屋はシンと冷たかった。浴槽に湯を貯めてしばし身体を温めてから部屋を出る。ゆったりとした朝の時間を満喫し、女将の「行ってらっしゃい」を背に受けてまずは来宮神社へ向かった。
手水舎で手と口を清めて、御社殿へ挨拶をするとお供物と共に置いてある鏡に目が止まった。もんのすごく、濁っている…
これまで他の神社で見てきた鏡はどれもこちらを綺麗に映していたのに、わたしの姿がまったく映らない。不思議に思い、お掃除をされていた方に尋ねてみた。
その女性は18歳の時に来宮神社に奉職したらしいが、その時から鏡は濁っていたという。その昔、拭いたこともあるらしいが綺麗にはならなかったらしい。古い技術の時代に作られた鏡なんだろうと理解した時に9:00からのご祈祷にご招待いただいた。ちなみに毎日同じ時間に行なっているそうで、ご祈祷料は取っていないという。貴重な体験へのお誘い、これも何かのご縁だと丁重にお受けすることにした。
時間になってもわたし以外の参加者は来なかった。朝にしては参拝者が多いのに、みんな賽銭の前で止まってこちらを眺めている。単純に参加できることを知らないだけなんだろうけど、見え方としてはわたしのためだけに祈祷がなされるようにも見える。ありがとうございますと心の中で神様にお礼を伝えた。
並べられた腰掛けに座ると大祓詞と敬神生活の綱領が書かれた紙を手渡された。
「出仕の後に唱えてください」
出仕とは神職のこと。どうやら先程質問に答えてくださった方が祈祷をするらしい。20分ほどのお祓いと祈祷を慎ましくお受けしようと真面目モードに切り替えたのに、いざ始まると彼女の後に続くのに必死で慎ましさはこれっぽっちもなくしまいには後半息切れしていた。
出仕さんの1つ1つの動作には神様への敬意があった。それが決まりだと言われてしまえば確かにそうなんだけど、それがやけに気持ちがいいものに見えたのだ。お祓いのための道具を取るにも祝詞を唱え、これを使ってお祓いさせていただきますといった畏れに似た気持ちでお辞儀される。その空気が空間にすーっと広がると、わたしも背筋を伸ばしたくなった。長い大祓詞を独特の抑揚で唱えていく出仕さんの姿は朝日のように晴れやかに見えたし、最後を締める2拍手の透き通った音は境内に鳴り響き耳に残った。
祈祷参加者へご参加ありがとうの挨拶をされた際に今日という日が穏やかであるように祈ってくださったと仰っていた。まさに昨日の夜、浴槽で思ったこととシンクロしていた。(ここのところそういうことが多いんだよね。食べたいと思ってたお菓子を思いもよらぬところからいただいたり、気になった商品を偶然入ったお店で見つけたり、欲しかった情報を雑談してたお隣さんからうかがったり…面白〜と、ありがたく頂戴し続ける日々よ。)
祈祷後に見た本殿裏にある大楠は威厳を持ってそびえ立っていた。
でも恐怖感はまったく無く、暖かさをまとっているようだった。この大楠、願いが叶うと有名なのだ。ということで、わたしもお願いごとを心の中で唱えながら回ってみる。周り切り間際、赤く紅葉した葉がヒラヒラと降ってきて足元に落ちた。綺麗な朱色だった。
さてそろそろ行くかと鳥居をくぐり道へ出ると、太陽はだいぶ高い位置にあった。
ここから歩いて熱海港に行き、初島に向かう。初島は30分ほどで行ける小さな離島だ。以前お世話になったタクシーの運転手さんにオーシャンビューの温泉を比較的安価で楽しめるとおすすめいただいていたのだ。そんなことを聞けば行くしかない。
船が出るまであと少し。その次は40分後の便になってしまう。途中お団子を買ったり、お店の看板鳥や看板犬にかまけていたわたしはまだ内陸にいた。待ちぼうけになるのは勘弁と駆け足になる。海沿いに出るための信号がまもなく青になりそうだった。前をゆっくり歩いていた高齢のおじいさんをすっと避け足早に向かうも、全く青にならない。そわそわして待っていると、先ほどのおじいさんが信号手前に差し掛かった。するとどうだろう、同時に青になったではないか。止まることなくスムーズに渡るおじいさんの少し後ろを歩きながら、全てはうまいことできているんだなと思った。焦る必要はない。歩いてきたペースで進めばその時は気づかないかもしれないけれど順調に進むことができるのだ。思いついた教えにならい、無理して急がず街を堪能してから船に乗ることにした。歩いてみたかった川沿いを堪能し、小型船が並ぶ海を眺めてぼんやりした。
そんなことをしながら港に着くとちょうど次の船の入場が始まった。
まるでわたしを待っていたかのように一席だけ空いていた船内の席に座り、揺れる船から海を眺める。わたしが訪れる熱海はいつもいい天気だ。水面がキラキラと輝いている。
日本の誰かがこれを白兎が飛んでるみたいと比喩したけれど、想像力が美しいと思う。そういえばインドにはこの水面のキラキラを指す言葉がある、と以前観た映画で言っていた気がする。
初島に降り立ち振り返ると、富士山の麓に熱海の街が広がっていた。
露天風呂に続く扉を開けると大海原が見えた。海水混じりの湯はちょうどいい温度で、直射日光と肩を撫でるように吹く冷たい海風が心地いい。これは人におススメしたくなるのも頷ける。
額に汗が伝っていくのが分かるくらい浸かった後、露天風呂後ろに設置されていた寝そべるベンチに身体を投げ出す。空はもう秋の空をしているのに、行きの道にアゲハチョウが飛んでいたなとぼんやり思い出す。
空の下に広がる海はあまりにも野生的で荒々しかった。どこまでも深い青が続いていた。裸のわたしは徐々に開放されていくのが分かった。
心ゆくまで温泉を楽しみ、海鮮丼とお酒を嗜んで気づけば熱海へ戻る船の中にいた。お酒で痺れた頭は船の揺れを倍増させたけど。
思い立ったが吉日とはよく言ったものだと思う。いつどんな時も何が自分の身に起こるか分からないから後悔しない選択をするのって大事だ。勇気を出してやってみてもいいと思う。そして、その時のその状態だからこそ受け取ることができるものって必ずある。少しでもタイミングが合わなかったら全く違うことを感じる旅になっていたと思う。
わたしが今のわたしで良かった。面白いくらいにそれを実感させてくる時間だった。
寂しさに浸る事なく、熱海を後にしたのは初めての経験だったかもしれない。
#熱海
#いいとこ
#一回行ってみて
#最後まで読んでくれてありがとう
#エッセイ
#旅行ルポ
#一人旅のススメ
追記
来宮神社で引いたおみくじにもわたしが唱えた祓詞にも「世のため人のために」って言葉があった。簡単で難しい、でも大事な感覚だ。ただ自分が健やかでなければ純粋に大志は抱けない。だからわたしはわたしを大切にする。疲れたら思いっきり自分を甘やかして、頑張りたいって思えたらまた一踏ん張りすればいい。だって他にもそう願ってる人はいるはずだから、頼れる時は彼らに頼ってしっかり休憩して心に栄養をあげようと思う今日この頃なのだ。