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祈りの起源
なぜ人は人に優しくしたくなるのか。
「良かれと思って」やる行為はありがた迷惑へと変換されて相手に届く場合がある。こちらに来てからより一層それを痛感している。彼らはすでに大人だ。自分でやってのけるという自負がある。それを静かに見守れず、口を出したくなるわたしの発端は確実に親の教育の賜物である。
誰にも同じような失敗をさせたくないと願うのは、その失敗をした者たちが予想よりもはるかに激しい後悔や悲しみをおったから。こんなに苦しいなんて知らなかったからそれを誰にも経験してほしくないという願いから「良かれと思って」は生まれていたが、ここ最近それが変わってきた。まだ見えてない未来を予想せず、万が一失敗したとてそれはその人の仕事だと思うようにしたのだ。
今わたしの周りにいる人は心根が素敵な人が多い。そんな人たちに囲まれていてありがたいなと思うと同時に彼らなら何があっても乗り越えられる力があるというリスペクトの気持ちが生まれた。苦労なんてしてほしくはないから、そんなことに巻き込まれないよう祈りはする。でもどんな経験だって彼らにとってかけがえのないものであり貴重な経験だ。その経験から何かを得て成長するのであれば、もう後戻りできなくなるような大きな過ち以外はどんな経験であれわたしが奪っていいはずはないのだと思ったのである。ここが海外だろうが母国だろうが経験の質は変わらない。その先のアナザーアンサーを知ってる者として、彼らが行く道を見守ってみようというのが現時点でのわたしの人への優しさの在り方となっている。と言いつつ、私にとってもこの方法はまだまだ結構難しい瞬間がある。口を出せたならどんなに楽か。ただこれもわたしにとっての経験だと納得させている。
この方法が正解かは分からない。でもきっといつかの誰かも同じような気持ちでわたしを見ていたのかもしれない。そう思うとその気持ちはあまりある程に察することができた。と同時にその忍耐力の凄まじさを思い知る。だから今日もわたしはきっとみんながうまくいくようにと祈らずにはいられないのだ。