「誰でも良かった」のに弱者ばかり狙うのは卑怯なのか
小田急線10人刺傷事件についてはSNS上で様々な反応が寄せられているが、そのうちの一つが「誰でも良かった」という動機に関するものだ。
上記のような「『誰でも良かった』のなら弱者でなく強者を狙え」とするツイートは多く見受けられる。これらのツイートは本気でそう主張しているわけではなく、主に犯人の卑劣さを揶揄する趣旨のものだろう(中にはマジで言ってそうなものもあったが)。口では「誰でも良かった」と強がっているくせに実際は弱者だけを対象にした卑怯者だ、と。
この類の揶揄は「誰でも良かった」という動機が報じられるたびに吹き上がる。もちろん犯行の卑劣性に疑いを差し挟む余地はない。しかしこうした書き込みは見かけるたび、果たしてこれは揶揄として適切なのかと疑問に思う。
合理的に考えて「誰でも良かった」のであれば殺人目的を達成しやすい弱者を狙うのが当然だ。「誰でも良かった」は口先の強がりではなく本心であり、その当然の帰結として弱者が対象となったのではないか。そうだとすれば「強者を狙え」風の指摘は犯人の卑怯性の核心に切り込めていない。揶揄失格だ。
これについて犯罪心理学の視点から説明した記事を見つけた。
彼らは無差別殺人者と呼ばれ、「誰でもいいから殺したかった」と語るような殺人者です。しかし、無差別というのは特定個人を狙わないという意味であり、無差別殺人者は人を選びます。彼らは誰かを殺したいのですから、殺しやすい相手を選びます。一人でいる人や、子供、女性、高齢者など、強い反撃が来ない相手を選びます。乗り物内の殺人も、繁華街の殺人も、多くの犠牲者は女性や高齢者です。狙いやすい人、逃げ遅れた人、反撃してこない人を狙います。さらに、被害者を救助しようとする人を狙うこともあります。銃を使って屋上から人々を狙うような大量殺人は無差別ですが、それでも銃をもたない反撃してこない人を遠くから狙うでしょう。
SNS上でも同様の意見が散見された。
まあ「誰でもいいから殺したい」状況でわざわざヤクザやマッチョに突撃していく程の発想力とチャレンジ精神があればとうに社会で成功しとるわな、と思ったところでこんな事件を見つけて頭を抱えた。
R.I.P.
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