「地方公立高校から東大に現役合格した話」があまり好きではない話
「地方公立高校から東大現役合格!」みたいな記事って、何か不遇な環境から特別な努力をして大逆転を勝ち取ったかのような書きぶりのものが多いですよね。私はそういう話があまり好きではありません。往々にして相当程度の誇張が含まれているからです。
私も「地方の公立高校から東大に現役合格した」クチではあります。ただし「地方」といっても人口40万人くらいの県庁所在地で、デカい塾やデカい本屋もありましたし、「公立高校」といっても毎年東大と京大にそれぞれ10人以上合格者を出すような学校でした。「現役合格」といっても、恵まれた家庭環境の下、部活や文化祭への労力を必要最小限に抑えつつ塾に三年間通い詰めた結果です。
要するに、順当に受験勉強を遂行し、順当に成績を上げ、順当に東大に受かっただけです。そこには逆転もドラマもありませんでした。もちろん中にはドラゴン桜並みの逆転合格を成し遂げた方もごく稀にいらっしゃるでしょうが、地方公立出身の東大生は大半が私のようなタイプです。(そもそも安易な大逆転を許すほど東大入試は甘くありません。)そうであるにもかかわらず、「地方公立出身」というラベルに安直なストーリーを付与して、自分の経験をドラマチックに語りたがる人が、最近多いように思うのです。
今の時代、地方からでも良質な教育コンテンツにアクセスできます。例えば、Z会の通信教育や東進の映像授業を活用すれば、地方公立中高に通いながら都市部の難関私立中高にも劣らないレベル・進度の受験対策をすることができます。(私もこの二つはフル活用させていただきました。)大学受験用の参考書は日々進化を続けており、ひと昔前とは比べ物にならないほど分かりやすく受験対策に特化した学参が多数市販されています。
また、学校の授業自体も地方公立だからと言ってそこまで質が悪いわけではありません。実際、私の基礎学力は学校の小テストや授業の予復習によって醸成されたところが大きいです。アルバイトで入っていた個別指導塾でも様々な偏差値帯の地方高校の教材を見ましたが、基礎固めという点では有用だと思わせるものが多数でした。どの高校に通うにしても、どうせ東大対策は学校の授業とは別建てで行う必要があるので、基礎固めができれば高校としては十分役割を果たしたことになるのではないでしょうか。
偏差値帯が低い地方高校だと「周りに東大を目指す仲間がいない」ことをデメリットに感じるかもしれません。しかし情報収集ならネットや書籍を使えばいくらでも可能ですし、励まし合うなら他大学の志望者とも可能です。それでも東大志望者とつながりが欲しいのなら、Twitterを開いてみてください。そこには受験クラスタという名の地獄が広がっており、日々模試の偏差値でマウントを取り合う光景を見ることができます。そこに参戦すればよろしい、というのは半分冗談ですが半分本気です。Twitterであれスタプラであれ、SNSを通じて受験仲間を作るというのは比較的メジャーな方法です。(私はどっちもやっていました。)
というかこれ言っちゃお仕舞えよって感じなのですが、受験勉強って元来一人でするもんじゃないですかね。私の母校には一応それなりの数の東大志望者がいたのですが、元々の人間関係もありますし、常に東大志望者同士でつるんでいたわけではありません。これは都市部の私立高校でも同じじゃないでしょうか。仲良しグループで肩組んで「東大目指すぞ!オー!」とやれる環境って全国的に見ても例外的だと思います。
ここまで「地方公立高校出身」って実はそんなに大きなディスアドバンテージじゃないよね、ということを自分の経験をもとにつらつらと書いてきました。他にも、
・塾に通わず(ただし学校の先生からマンツーマンの指導を受けている)
・偏差値40から(そのとき偶然一科目調子が悪かっただけ)
・たった一年で(ただし中学受験を経ており基礎学力は担保されている)
・部活をやりながら現役合格(ただし高一からちゃんと基礎固めを行っている)
みたいなの多くないですか? 逆転ストーリーとして面白くするために(ときには自分の能力を誇張するために)「不遇さ」を強調するのは理解できます。ただ、そういう演出は教育の文脈においては不誠実に思えてなりません。なぜなら、教育コンテンツの読者にとっては「この人のやり方を自分に応用・再現できるか」という視点が不可欠だからです。不遇さの強調は応用可能性・再現可能性を判断するにあたりノイズにしかなりません。
なお、最も大きなディスアドバンテージは「家庭環境」だと私は思っています。両親が低所得である/高所得でも教育への理解が無いと、塾に通ったり参考書を数冊買って比較検討したりといったことができません。また、浪人ができない/国公立しか進学できないとなると、生徒はきわめて難しい舵取りを強いられます。そういう家庭環境で育った生徒は、適切な学習習慣を身に着けていないことが多く、能力面と経済面との二重苦を味わうことも珍しくありません。現役で国公立に行かないと学費を出さないと親に言われたため実力に見合わない大学に進学せざるを得なかった高校同期や、アルバイトで塾代や参考書代を稼いでいるため中々学習時間を確保できない教え子を目の当たりにして、我が身を振り返らずにはいられませんでした。
そのような苦しみと比べて「地方公立出身」が何だというのでしょうか。環境の恩恵を最大限に享受しておきながら、それに無頓着なまま地元の文化資本の乏しさを誇張して貶めるような記事を見かけるたび、浅慮と高慢に呆れつつ、それでも世間に受けるのはこういうコンテンツなんだろうなと虚しさを感じています。
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