美劇部という肩書き
演劇部です。高校を機に演劇部に入りました。中学は美術部。美術部の友達とは高校に入ったら同じ部活に入ろうね!なんて言われていたけれど、結局裏切ってしまいました。
美術が嫌いになったとか、そんなことなくて、暇さえあれば絵は描くぐらい絵を描くことは生活の一部です。でも、演劇部に入りました。理由は一つ、演劇が好きで、やりたかったからです。ただそれだけ。
でも、私の肩書から美術部が無くなって、演劇が追加されたことは、私にとって大きいことでした。いや、別に大して大きいことではないんだけど。絵を描く時間が圧倒的に減りました。美術部だった頃は活動時間が絵を描く時間だったので、嫌でも時間はあったのですが、演劇部に入ってみれば当たり前に絵を描く時間なんてない。家に帰ったらもう六時ぐらい。そこからぼんやりしてれば気が付いたらもう寝る時間です。
でも、そんなことが苦にならないくらい、新しいことがありすぎました。苦悩は嫌になるくらいありましたけど、大会に出てみたら結局"楽しい"が全てをぶっ飛ばしました。
肩書から美術部を外して演劇部を追加した、そのことについて、ちゃんと考えてみようと思います。
昔から、私は出来ないことが多かったです。
運動は出来ないし、勉強はできないし、喋りは下手だし、習い事だってしていなかったから、特技も特にない。
そんな中、昔からあったのは「絵を描く事」という特技であり趣味。
幼稚園の頃は、使い古されたボールペンと絵が描ける紙を宝探しのように見つけては、お宝のように心をときめかせて描いていました。
これが、きっと「私の絵を描く事」の原点なんだろうなと思います。
でも、年を取るにつれて、自分の取り柄が「絵が描けること」だけなのが苦しくなりました。いつぞやか、誰かに「絵なんて役に立たないもの」なんて言われたりして、あぁ、確かに。絵を描いていて役に立つのだろうかなんて幼くして思ったこともありました。
わかりますでしょうか、小5の時、お隣の席の子の良いところを書こう!って話で、私は必死にしっかり書いたけれど、お隣の席の子は、私のことを「優しい」「絵が上手」とだけでした。嬉しいことではあるんですけど、なんというのでしょう、書く事が思いつかないから、とりあえず誰でも当てはまる「優しい」を置いて、そして「絵が上手」と書いといたら十分だろうという隣の子の気持ちがぼんやり見えちゃったのです。だって、あまり話してなかったんだもの。優しいことだって別にしていないのよ。多分。
あんまり関わりのない先生や先輩に「優しく教えていただいて、ありがとうございました!」と書いちゃうのと同じ原理だと私は思っています。
書くことなかったんだろうなって、丸見えなやつ。
その時から、私には「絵を描く事」しか取り柄がないんだなと改めて知ってしまいました。でも、取り柄と言うほど絵が上手いわけではないのです。それがまた苦しい。
その中に一つ、光が見えました。それが演劇でした。
学芸会で演劇をやったのです。そうしたら、それが楽しくて楽しくて。
いつもの日常とは違う練習風景、いてもいなくても良い存在の私が、いなきゃいけない存在になれること、照明の眩しさ、当日の緊張感、私を観られているようで、その役を観られていること、そんな色々なことが刺激的で魅力的で、こういう世界もあるんだなって知りました。
「凄かったよ」といろんな方に褒めてもらえたりしました。私の取り柄の中に、「演劇」が追加されました。それが演劇人生の原点であるとも思えます。
長々と変な話をしてしまいましたが、私は取り柄が沢山欲しかったんです。全知全能とは言いません、ただ、気楽に生きていける程度の取り柄が欲しかったんです。心の支えとなる取り柄が数個。
まあ、こうも16年も生きていると、いろいろ取り柄が増えました。「小説を書ける」「文系科目が得意である」「聞き上手」「優しい」「面白い」など、他にもたぶん何個かあります。
全部ひっくるめて考えてみたら、全て「存在を認められたい」「褒められたい」ここが原点なんだと思います。自信が無い故の自己顕示欲。
にしては、全て自信が無いとやっていけないものばかりです。絵だって、「ある程度人より上手い!」「上手に描けた」と思わないとやってけないし、演劇だって、恥ずかしがらずに正々堂々演じきらないと、中途半端にカッコ悪くなってしまいます。
そんなものと、ギリギリの自信で日々闘っています。ずっと絵を描く環境で、ずっと描いて生きていた人間が、ぽっと出で違う世界に飛び込んで、絵を描きたくなっては美術部を恋しく思い、また自信が揺れ動いてます。でも新しい自信も見つけれました。
肩書きなんて所詮、名乗るために必要だから居るものなんですよね。
絵を描く演劇部。そんなのを誰か作ってみませんでしょうか。美劇部つって。