2024.2.24『今夜、すべてのバーで』中島らも
あらゆる欲の果てにある『死』に対して、ほんの少しのきっかけで近づきも遠ざかりもすると感じた。
主人公の小島は文をしたためて生活をする傍ら、酒に溺れた末に重度のアル中で入院するところから話が始まる。展開の中でところどころに現れる彼の詭弁、とも言えるアルコール中毒への知識には適度な難解さがあるものの、不思議とするりと頭に入ってきた。
彼と同じ入院患者や医師の赤河との軽快な会話がいいアクセントとなり、『死』へと近づこうとする小島の意識を少しづつ変えていくのが物語の展開とともに見えたのがそうさせたのかもしれない。
『「教養」のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間を潰せる技術」のことである。』
知識ばかりは人よりも多い小島が、自らが酒に溺れた理由を言い訳がましく語るシーンだが、教養についての本質はここにあるのではないかと思う。
それはつまり寂しさや虚しさ、惨めさといったネガティブな感情を持たないように自分をコントロールする方法を知っている、というのが教養なのだと私は思った。
逆に教養のない者は、ここでいう酒やその他の物事に溺れる状態(中毒)になることでしか、自我を保てないということでもある。
しかしそれで言うと世の中に生きる全ての人は何かしらの中毒でもあることから、結局は人間は知識があろうとなかろうと、教養の仮面を被ったまま愚かにも何かに溺れているということだ。
死にたいわけでもなく、生きたいわけでもない、ただ淡々と結論を先延ばしにする小島の心情は、私にも重なる部分があって共感できた。
『死者は卑怯なのよ、だからあたしは死んだ人をがっかりさせてやるの。思い出したりしない。心の中から追い出して、きれいに忘れ去ってやるの』
二十歳でこの世を去った破滅的な小島の旧友、天童寺不二雄の妹のさやかの言葉。
この一文を読んだ当初は、自ら死へと近づいてゆく小島へのいらつきや不二雄への当てつけのような強がりだと思っていたが、終盤のレポートのシーンで一変した。
人の思い出に残ることは、死してなおその人の中で生き続けることと同義で、それは時間が経てば経つほどに色を鮮やかにしていくもの。人間はどうしても死者に対してどこまでも深い憎悪ばかりを持てないようになっているらしく、過去の美しさを探し出すようにして思い出を彩ってゆく。
そうして思い出すことを許さないようにしたさやかの言葉は、逆に生きている人は心から決して追い出さないと言っているようにも取られる。
実際文句を垂れながらも、さやかは小島の元へ何度も通っているのだ。純粋で素直な内面を隠すように悪態をつきながら、彼女自身はしっかりと心配をしているし、もう目の前から誰かが居なくなることに強い拒否感を持っているようでもあった。
そんな彼女が、禁じられていた酒を浴びるようにのんだ小島に手渡したレポートには、天童寺家の過去が刻まれており、それは小島にとって『死』から『生』へのチャンネルの切り替えになったに違いない。また、入院を通じて健康になってきた彼の心にちらっと着いた愛情の灯を、大きくしたのだろうと思う。
結論としては、落ちぶれかけた人間でも、ほんこ小さな力で方向が真逆に変わることもある。そんな頼りない命だからこそ、大切に使わなくてはならないと改めて感じる一冊だった。