『ダスト』のものがたり
俳優をしていたらなりゆきで、文章を書いたことがありました。
2017年の3月、三軒茶屋にあるキャロットタワーの「生活工房」というスペースで、飯島剛哉さんという美術家の方と、演劇『ダスト』を、13日間上演しました。
世田谷区は原因不明の流行病によって滅びてしまい、出ていけない人たちだけが世田谷に残っている。廃墟になったキャロットタワーに、防護服を着た人が何か……調査、探し物、ラジオ放送、慰霊……をしに来る、という演劇です。飯島さんの「アルミでできた服を着た人が、敷き詰めた障子をボスボス踏み抜いている演劇」というアイディアが最初にあり、そこが世田谷区でキャロットタワーだったから、こういう設定になりました。
3年たったらなんだか世界が『ダスト』に近づいていたので、再おひろめしてみます。
上演の外側についてはこちらをご参照ください。
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始末をかくエキシビション
生活はふるさとのように上演されている
1幕:生活は上演されている
会期:2月4日(土)~24日(金)
2幕:生活工房で生活する
●演劇「ダスト」
3月14日(火)~26日(日)17:00~18:00
飯島剛哉、立蔵葉子(青年団)
生活工房のサイト
特集ページ
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これは、2幕で演劇を上演するために私がつくった「ダスト」の設定の物語です。1幕で展示されていました。当時の展示(皆藤将さんデザイン)では音声が展示されていたのですが、ここではテキストを展示します。
大前提として作り話なんですけど、読んでてしんどくなるかもしれません。そしたら遠慮なく読むのをやめて休んでください。
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ある日
大きな地震が起こりました。セタガヤでも、たくさんの建物が壊れて、たくさんの人が死にました。住む場所を失った人たちはヒナンジョに集まりましたが、食べ物も布団もじゅうぶんになくて、電気も水道もなくて、とてもつらい思いをしました。
でも、山の向こうのずっと遠くのほうでは、もっとひどく揺れて、もっとたくさんの人が死に、住む場所を失い、そして、地震よりもっと恐ろしいことが起こっていました。
地震が起こって外国から助けに来てくれた人たちも、もっと恐ろしいことが起きたとわかったとたんに帰ってしまいました。地震の前からニホンに住んでいた外国人たちも、次々にニホンを出て行きました。
ニホン人でも、ニホンを出て行く人は、たくさんたくさんいました。
もっと恐ろしいことからみんなを守るためだといって、セイフは、誰も山の向こうには住んではいけない、行ってはいけない、と決めました。
山の向こうに住んでいた人たちは、ちりぢりに、他のところへ引っ越していきました。
山の向こうから引っ越す人たちの中には、セタガヤに住みたいとやってくる人たちもいました。
でもいつのまにか、セタガヤの人が気がつかないうちに、山の向こうから来た人たちはいなくなっていました。
いついなくなったのか、なぜいなくなったのか、セタガヤの人たちにはどうしてもわかりませんでした。
ある日、あるヒナンジョで、昼寝をしていたおじいさんが、目を覚まさなくなりました。どんなにゆすっても声をかけても目を覚まさず、そのまま、息をするのと心臓を動かすのをやめてしまいました。目を覚まさなくなったのは、そのおじいさんだけではありませんでした。あかちゃんも、こどもも、男の人も女の人もつぎつぎと眠りはじめ、そのまま息をしなくなりました。たった一日かそれくらいの間に、そのヒナンジョにいた全員が、眠ったまま生きるのをやめてしまったのでした。
生きるのをやめてしまう人は、他のヒナンジョでもどんどん増えていきました。セタガヤのいたるところで、たくさんのひとが、眠ったまま生きるのをやめていきました。
生きている人は、「セタガヤ病」と呼んで、おそれました。いっしょうけんめい原因をつきとめようとしましたが、とうとうわかりませんでした。
セタガヤにいた人たちは、病気をおそれてセタガヤから出て行きました。セイフは、もっと恐ろしいことが起こったときのように、誰もセタガヤに住んではいけないと決めました。
それでもセタガヤに住み続ける人たちもいました。セタガヤが好きだから、という人もいました。でもほとんどの人は、本当は出ていきたいのに、セタガヤに残っているのでした。なぜなら、引っ越すお金も、セタガヤの外で助けてくれる人もいなかったからです。
一度はセタガヤをでて他のところに住んだけれど、戻ってきた人たちもいました。
「おれたちはもう、ここに住み続けるしかないんだよ」
戻ってきた人の一人はそういいました。
セタガヤに住み続ける人たちは、地震のとき同じヒナンジョに集まった人たち同士で、助けあって生活していました。野菜を育てたり、家や水道を直したり、また、自分たちの文化をつくろうと、お祭りをしたりルールを決めたりしました。
そうして自分たちはかわいそうではない、セタガヤで幸せに暮らしているんだと思おうとしているのでした。どんなにセタガヤのそとの人たちに嫌われても、いつ自分や大事な人が、息をするのをやめてしまうかわからなくても、自分たちは幸せだと思いたいのでした。
セタガヤのほとんどの地域には人が住んでいましたが、セタガヤ病にかかりやすいというキャロットタワーの近くだけは、住む人はいませんでした。キャロットタワーは地震で折れてしまい、その形が似ているので「きりかぶ」と呼ばれていました。大人たちはこどもたちに、「『きりかぶ』には、じぶんが死んだって気づいていない幽霊たちが住みつづけているんだよ、近づいてはいけないよ」と言いきかせました。キャロットタワーに近づく人はほとんどいなくなり、たまに、セタガヤ病を防ぐという銀色の服を着た人たちが、調査や慰霊にやってくるだけでした。
地震と、もっと恐ろしいことと、セタガヤ病が起こってから、何年かたちました。
生きるのをやめてしまう人が、セタガヤ以外のところでも、だんだんと、でも確かに、増えていっていました。
それがセタガヤ病のせいなのか、ほかの何かのせいなのか、ただ年をとったからなのか、もう誰にもわかりませんでした。生きている人たちは、大好きな人や大嫌いな人が息をしなくなっていくのを、なにもできずに、ただ、ただ、みつづけていました。
キャロットタワーには、本当に誰もいなくなりました。
誰もいなくなったキャロットタワーは、ぽっきりと折れたまま、今も、セタガヤに残っています。
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最後まで読んでいただいてありがとうございました。
我ながら救いのないおはなしを作ったものです。
世界がこのものがたりから遠のいていきますように。
写真:皆藤将
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