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発達障がい、という言葉
私は、今は生活介護で働いていますが、ひとつ前は放課後等デイサービスに勤めておりました。
そのとき勤めていた場所は、いわゆる「発達障がい」と呼ばれる方が中心に通う、デイサービスになります。さらに前ですと、重度知的の方やら何やら含む放課後等デイサービスでしたが、まあそれは置いておきます。
発達に障がいがある、というと、いくばくか抽象的で、何とも言えないものでもありますし、本当にそうなの? なんて思う人もいるかと思います。
昨今、何とはなく「発達障がい」という言葉が広まって、認知度も高いのかな、とは思いますが、おそらく多くの人が抱いているイメージと、実際のところは正直違うように感じます。
発達に障がいと呼ばれるものをお持ちの方は、一概にこの特徴がある、と言えるものではなく、正確にはひとりひとりの個性に合わせて、何らかの特性がプラスされているようなイメージです。脳の機能がアンバランスさを持って発達している状態で、極端なほど、これはできる、これはできない、の差ーーでこぼこ、とした能力の違いがあります。
(余談ですが、発達障がいスペクトラム、というのが、私としては理解に近いものがあります。それぞれの領域はありつつ相互に関係しうる、というもの)
しかし、それは決して劣っているものではなく、あくまでも「特性」と呼べるものです。
また、特性や実際の診断によっても、細かに分類されるものであり、やっぱり一概にこうである、と言えるものではないと思います。
学校(社会)、という枠組みにおいて、協調性や集中力等々、授業を時間までしっかりと席について聞いていられる力、周りに合わせて動ける力、というのは、重視されるよりもむしろ、それが前提にあります。
しかし、特性上、その枠組みの中で動くこと、そもそもそこにいること、が苦手な方はたしかに存在します。かといって、ずっとそうであるのか、というと、そうでもなく。また、すべての方がそうなわけでもなく。授業も集中して取り組めるような方もいます。
難しい方でも、療育によって(もしくはご家族の努力、本人の努力、資質、環境等々、正確には様々な要因があります)、それは緩和されていきます。……いや、緩和される方もいる、が正確ですね(やっぱり、療育だけではないと思う)。
それは、治る、という概念よりも、特性はありつつ対応ができる、と表現するほうがよいようにも思います。
私が勤めていたところでも、本当にいろいろな特性を持つ方がありました。中には、本当に何かあるの? と疑うような方までおりましたが、わかりにくくても、あぁ、こんなところに困り感があるんだな、と感じる瞬間もありました。
データやら何やらで、どのようなことになっているかはわかりませんが、言葉がありふれてしまったばっかりに、きっとこんな感じでしょう? と思われてしまうのだろう、と想像してしまいます。また、こんなことがあるからこんな障がいですね、というのも違うと思う。
実際のところ、まだよくわかっていないのが実情なのではないかとも思いますし、診断もコロコロ変わる場合があって、えっ? 本当にわかっていてそうしているんですか? なんて感じることもある。
しかし、そうした中で本当に困るのは、当事者の方です。本当に、難しいことがある。目で見えない部分で、苦手を越して「できない」ことがある。
それは人によっては小さな音かもしれない。人によってはおいしいと感じるものかもしれない。人によっては美しいと感じる風景かもしれない。人によってはよい香りなのかもしれない。人によっては少し触れただけかもしれない。
そんな様々な場面で、不快、嫌悪、耐えきれない苦痛、とも呼ぶべき何かが内在していて、混乱(パニック)につながってしまうこともありえます。この場合は五感の刺激ですが、他にも様々。
それが、誰かの間違いで不当に評価されたり、怠けているなんて見られたり、本当は発達障がいなんてないんでしょ? と思われたり。本当に困っている人にまで、被害が出てくるのは悲しく思います。
特に、軽度の方は、そう見られがちにも思います。重度の方は、そうは見られないでしょうから。
大事なことは、障がい、という枠で相手を見ないことです。
言葉として「障がい」となっているだけで、その壁は本人だけのものではなく、関係する(それは決して近しい人だけを指すのではなく、本当に全員)すべての人に言えることです。誰もが壁を持ってしまっている。それが、結果的に「障がい」を生み出しているようにも思います。
合理的配慮、という考え方があります。
例えばですが、目が見えない方に対して行きたいところまで誘導すること、耳が聞こえない方に対して手話や筆談での会話をすること、それはまさしく合理的配慮です。その特性に合わせた配慮をした、ということですね。
発達における障がいをお持ちの方に対しても、同じなのです。目で見てわからないところにポイントがあるからわかりにくいだけで。
世の中には情報が溢れかえり、誤解や偏見は限りなくそうは思えずに、誰かの言葉が一見して「正しく」も見えてしまいます。
アスペ、なんていう言葉も、気軽に使う人もありますが、内情までわかって使っている人は、どれだけいるのでしょうか。さわりだけ見て、何となく理解した気になっている、だけではないでしょうか。
今はあまり、アスペルガー、とは言わずに、スペクトラムでまとめられているようにも思いますが、そういった背景もあるのでしょうか。
すべては書ききれませんでしたし、整理しきれずに想いだけで書いてしまったところもあるかと思いますが。
強い言葉はそれだけで魅力を感じます。しかし、たいていの物事は白黒はっきりしているよりも、ぼやけて境界の曖昧なグレーなのです。
診断は、つくことでいいと思う人もいれば、悪いと思う人もいる。診断がつかないことに、ほっとする人もいれば、なぜと嘆く人もいる。
それは、それぞれの想いによる。
だからこそ、(発達)障がいである、と簡単にわけないでほしいと願います。
自分に名前があるように、相手にもあるのです。
自分に想いや考えがあるように、相手にもあるのです。
みんな違う。
みんな、違う。
同じ人なんて、どこにもいないのだから。
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