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私は死を語れるほど生きていない
生きること、死ぬこと、なぜ存在しているのか、いつまでこうしているのか、などなど、誰に聞いてもまちまちに返ってくるようなことを考えることもしばしばある。
疑問はただ疑問を呼んで、疑問として返ってくるだけで、なんの解決にもなりはしない。
それでも、そんなことを考えてしまうのが人なのであろう。
冷静に、客観的に見たらばくだらない、どうでもいいことに熱量をかけてそうすることしかできない。そんなことは、よくある話しだと思う。端から見たら滑稽だが、本人からしたら必死なのだ。それを馬鹿にする道理はない。
死んだらどうなるのか、それは死んだものしかわからない。イメージができている死の世界は、所詮大昔からある妄想じみた創作でしかなく、実際にそれを知っている者などいはしない。
今ある死の世界のイメージは、救いのひとつなのだ。
そこらへんはきっと、宗教や信仰、風土、伝統なんかもかかわってくると思うし、それを語れるような知識もない。
死ぬことよりもつらいこと、とよく評されるようなこともあるけれど、本当に死んだ後のことを知らないのに、どうしてそんなことが言えるだろう? もしかしたら、死ぬことは生きることよりもつらいものなのかもしれない。
天国、地獄、転生、虚無、さまざまな想像と妄想が入り混じり、まるで確固たる世界として認識している人もいると思う。けれど、それは真実であろうか、事実であろうか。
生きている間に死の核心に触れられる人も中にはいると思うし、特に高齢の方で、その境に立つことで認識すらできている人もいると思う。それはもちろん、価値観も含まれる世界のイメージに思えるけれど。
少なくとも、私はそれを感じられるほど生きていない。
それゆえに、死の世界が本当に救いであるかも、楽なものであるかもわからない。
そもそも、そんな世界なんてなくて、あるのは虚無かもしれないし、我々が想像や認識、その概念すら感じられない何か、があるのかもしれない。そんなもの、わかるはずもない。
とりあえず、この何十年かまあよく生きているなぁ、なんてことも思うけれど、それが長いか短いかは、私の体感以上にはわかるものではない。体感的には、ずいぶん生きているようにも思うのだけれど。
気持ちもそうだけれど、体がついていかないことも多いから、よけいにそう感じるのだろう。
どちらにしても、私にはまだまだ死は語れない。
何にも考えなくても、いくら考えていても、いつか死ぬことには変わりないのだから。
ゆっくり、それを見出せていけたら、なんてことも思う。
いつか、私にも、死を語れるような日が来るのであろうか。
死ぬ間際ですら、語れないかもしれない。
それでも、とりあえず、それまで生きてみるのも、悪くはないのかも、しれない、な。
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