温かな香気
生まれて初めてテレビ電話を使った。先月の中旬である。相手は入院中の父だ。
数日前の朝、夜勤帰りの父が十二指腸潰瘍で倒れた。
茨城の母から突然のメールが届いたのは、その夜だった。入院したこと、その経緯、傷をふさぎ輸血をしたので大丈夫、とある。慌てて電話すると母はすぐに出た。腹痛はなかったが、最近の血便とめまいは気づいていた、という。腸にあいた穴から血が漏れて、緊急搬送されたとき体内の血液は半減していた。危ないところだったと医師は母に告げたそうだ。
小学四年の冬に母は再婚した。初婚の父は突如、十歳女児の親になったのだ。前夫と離婚したい母に押されて、結婚に踏み切らされたかもしれない。どういう心境だったろう。潰瘍の痛みを感じなかったといえ、何も思わなかったはずはない。
酒が好きで毎晩浴びるほど飲んでいた。そのため、いつもとろりとした眼をしている。けれど清水のごとき瞳の奥には、男の子の純粋な光を宿していた。人心や物事をよく見ないその眼に、傷つき苛立つことが多かったが、今思えば、そんな私はそれらの事象にどれほど心を砕いていたというのだろうか。
不気味なのは、父との諍いの日々から出た母の愚痴を真に受けて、公正な眼を失っていた自分である。
次の日、再び母のケータイを鳴らした。夫と相談し見舞いに行くと伝えると、母は慌てた。搬送されてすぐメールしようとした母を父はいさめたらしい。
「来なくていい。心配をかけたくないって。メールも落ち着いてからにしないと梨奈が飛んでくるからって、夜にしたんだよ。それなら集中治療室から出たら、電話してあげなよ」
まったく予期せぬ言葉だった。私が親になったように、父もまた親になっていたのだ。過去や想いが離れて会わない沈黙の時間に醸成されていた。温かな香気が頬をかすめる。
そういうわけで電話することにしたが、安否確認以上の話題が想像できず、孫の顔を見せて時間を稼ぐことにしたのだった。
2018年11月9日提出