推しを推せるときに推したのに
なにわスワンキーズを好きになってから4年が経っていた。
2019年から現在に至るまで、劇場が閉まっている期間を除いて彼らを見ない月はなかった。
この4年間というのは個人的にも世界的にも色々なことが変化した期間で、就活期の弱ったメンタルも、就職してからのつまらない日常も、彼らが支えてくれた。
劇場に行きやすい職場に配属になったとき、初めに考えたのは「まだ彼らを見ることができる」だったし、実際仕事が終わってからは難波に行ったり森ノ宮に行ったり、休みの日には寄席のコーナーに出るか出ないかで一喜一憂して。
当然そんな日常がこれからも続くものと思っていた。
私は彼らに出会うまでは正統派漫才師ばかり好きで、コントにはあまり興味がなかった。
トリオのコント師を好きになるなんて正直「まさか」な展開ではあったけれど、彼らのおかげでコントが好きになったし、濁メンバーを始め、たくさんの面白い人たちに出会えた。
私が大好きな彼らが、他の芸人さんからもお客さんからも愛されてるのが嬉しかった。
彼らのコントは、非現実的すぎない世界観の中で「変な人」と「よく考えたら変な人」が出てくるのが好きで、全員ツッコミゆえ、コントによってポジションが変わるのもワクワクした。
結局解散という結果になったから、実際の3人の関係性は今となってはわからないけれど。
私が見る限りでは、仲西と前田の大学生のような仲の良さは見てて微笑ましかったし、いつも2:1になると言いつつラテのマニアックな例えに瞬時に反応するのは前田だった。
ラジオではいつも3人で盛り上がりすぎて伊藤史隆さんに「もういいですか」と言われていた。
前述した通り、全員ツッコミなのでコーナーで誰かがボケたら全員がつっこむし、大喜利は苦手だった。そんな彼らも好きでした。
彼らが解散すると発表したとき、私はちょうど寄席を見た後で。彼らは出ていなかったけど、楽しかったねと母とお酒を飲みながら感想を語り合っていたところだった。
文章を読んでいるのに意味が頭に入ってこない感覚。焦点が合わなくなって、思考が現実から遠ざかっていく感覚。
帰り道、何の演出か、たまたま近くで花火大会をしていて、それが感傷的な自分の情緒を刺激して、敗けた高校球児のように泣いた。
「このまま目覚めない」か「目覚めたら夢だった」のどちらかのオチを望んで、半ば気絶するように眠った。
ずっと彼らを見ていて、大好きで、だからこそ到底納得できない自分と、なんとなくその結論をわかってしまう自分と。その2人の自分があの日からずっと頭の中で討論するものの、依然として平行線のまま。
「推しは推せるときに推せ」という、私の嫌いな通説がある。
こうして、私の好きな3人を見ることはできなくなってしまった今、思い返してみると私はちゃんと彼らを見ていたと思う。
毎月単独をしていたとき、どれだけお客さんが減ろうとも毎月観たし、寄席に出るときは極力見に行った。冬の夜の森ノ宮にも行った。ラグビー場も行った。学祭も行った。
もちろん全てではないから、もっと行けたのではないかと言われればその通りではあるし、悔いがないわけではない。
それでも私はちゃんと胸を張って彼らを見てきたと言えると思う。
推しを推せるときに推したと思う。Twitterの鍵を外して、寄席の後に誰かが検索したときに引っ掛かるように彼らを褒めた。お笑いのオタクではない人たちが来る舞台で、ちゃんとウケる彼らが嬉しかったから。私も面白いと思ったから。
でも、何も納得できていない。
どれだけ見ていても、「後悔しないように」と思って行動していても、この結果を「仕方ない」と思えない。
苦しい、苦しすぎて、考えないようにしている。大切な存在を失ったときの「逃避」をひたすらしている。
こんなに大嫌いな仕事でも、忙しいのがありがたい。
最も好きな人たちを失ってからわかったことがある。
「推しを推せるときに推せ」というのは、2番目以降に好きな人たちを見られなくなったときに、なんとなく生まれた罪悪感を「1番好きな人をちゃんと応援しましょうね」という方向に切り替える、緩い免罪符なのである。
どれだけ見ていても何も納得できないし、苦しさが和らぐことはない。
解散を発表した後の彼らからチケットを買うことがあった。
取り乱すかと思ったけれど、普通の彼らを目の前にすると不思議と自分も普通になった。
数え切れないくらい置きチケに対応してくれた仲西さんを目の前にするのは数年ぶりで、チケットに「ありがとう!」と書いてくれた。
それを後から見た前田さんは笑いながら「『ありがとう!』って!あいつやっぱスーパースターやな」と言った。
この場面が、なぜか1番今の自分の涙腺を刺激する。
もう、寄席で追加されるメンバーをチェックすることも、ラヴィットに呼ばれなくて怒ることも、虎-1グランプリの投票をすることも、夏フェスでどのチームになるかを確認することも、劇場に鳴るPENTAGONのGorillaを聞くことも、幸の薄そうな女性役の前田を見ることも、2人のやり取りに笑いを堪える仲西を見ることも、漫才冒頭にラテの挨拶に応えることも、ない。
私のこのつまらない日常を彼らが支えてくれることも、ない。正直、耐えられる自信がない。
どこに責任があるのかとか、何をどうすれば続いたのか、わからない。粗品、粗品のファン、劇場、周りの売れた芸人、賞レース、自分、八つ当たりをしようと思えばいくらでもできるけれど。
彼らに出会うまでの人生を5として、彼らに出会ってからの人生は10で、今は0になった。
大好きな存在に出会ったら、別れがあれば、出会う前の状態を下回ることもある。
私の人生を10にしてくれてありがとう。
ありがとう。
人気がないと言われた彼らにも、こんなに、こんなに、面倒な愛を持った人がいたということを、ここに記します。